神奈川県が朝鮮学校生徒への補助金を「留保」
教育労働者は朝鮮学校との共闘を


 十一月八日、神奈川県知事の黒岩祐治は定例記者会見の冒頭に突然、外国人学校に通う生徒児童へ支給されている「学費補助」を朝鮮学校の児童だけ「留保」すると発表した。留保額は四月から八月分の計約二一〇〇万円に相当する。理由は朝鮮学校の教科書に「拉致問題」が記載されないからだという。

補助金問題をめぐる経緯

 「拉致問題」授業についての経緯は、一三年度の神奈川朝鮮学園への補助金停止差別事件とそれへの抵抗の過程で、学園側は教科書編纂委員会に改訂を要望するのと併せて、教科書とは別に拉致問題を取り上げた副教材を独自に作成し一四年度からは実際に授業で使用することまでしてきた。その屈辱に耐えてまで学校を守ってきたのである。十月二十五日、学園側からは「今年度中に教科書の改訂をする予定だったが担当者の辞任や財政難の問題で編纂に手が付けられないでいる」との事情も県側に伝えられていた。その編纂できない状況も日本が国策として在日朝鮮人社会をいじめにいじめ抜き、政治的にも経済的にも追い詰めることで作り出されたことが想像できる。しかし、県側は「それはそっちの都合で、関係ない」と「教科書への記述」に固執し、飽くまで教科書改訂が補助金の「前提」だなどと言い出したのである。そして、一旦は来年度について教科書を使用せず独自教科書を作成する意向を県に示していた学園だが、八日の知事記者会見を受け、十五日に、独自教科書作成の意向を撤回し「政治、外交問題を理由として補助金支給を留保することは教育基本法の規定に反する。交付を強く求める」との文書を県に送っている。
 黒岩知事も「神奈川独自の」と胸を張る「外国人学校児童・生徒学費軽減事業補助金」とは何か。朝鮮高級学校の授業料無償化差別事件とあいまって、日本全国の自治体で補助金停止があいついだなか、神奈川県でも朝鮮民主主義人民共和国(以下共和国)の核実験を口実にして、一三年度の経常費補助金の停止を一方的に発表し、それと連動して、横浜市、川崎市、大和市なども補助金を停止または減額した。しかしその後、数日のうちに県下八三もの労働組合や市民団体が「反対声明」をあげ県民会議を結成し、支援活動も展開され、その結果、学校への補助金は停止されたものの一四年度からは「県独自の学費補助制度」を創設した。その主意は黒岩知事自身が述べているとおり「子どもたちに罪はないという声を受けて、国際情勢や政治情勢に影響を受けることがなく安定的に確保できるよう」外国人学校に通うすべての児童生徒一人ひとりに支給する制度にしたということである。

矛盾だらけの県と知事の対応

 実は一〇年度までの教科書には「拉致問題を極大化し、反共和国、反総聯、反朝鮮人騒動を大々的に繰り広げることによって、日本社会には極端な民族排外主義的雰囲気が作り出された。」と当然の事実が書かれていた。しかしこれすら「間違っている」として削除させ、今現在は拉致自体の記述がなくなっている。そして今回は知事にとっての「正しい記述」が補助金の交換条件だと言い出したのである。一方では県教育行政は差別なく教育機会を確保することを掲げながら、その長である知事自身が「政治状況に影響され」児童生徒の教育権を脅かしている。だから黒岩知事も、補助金制度の主意との矛盾を問われた記者からの質問に答えて「留保の理由は政治、外交ではなく信義の問題」などと時代物映画のようなあやふやなセリフを言い、また別の時には「政治判断だ」などと辻褄のあわない発言をしている。しかも補助金が出せないのは学園側の責任だと擦り付け、生徒児童その保護者にたいしては、「恨むなら学園を恨め」と言い逃れるのは卑怯そのものではないだろうか。

教えるべきは朝鮮抑圧の歴史

 そもそも「拉致問題」なるものを利用して反朝鮮人感情を作り出し排外主義を煽るために、学校の授業を政治的に利用することに、わたしは断固反対である。もし「人権教育」の名目で取り上げるべきというのなら、同時に日本が国家の政策として行なってきた人権侵害、その最大行為である侵略戦争、植民地政策、その人権侵害はこの一世紀半で朝鮮半島だけでも何千万とあるだろう。その事例の一つでも取り上げて、じっくり授業展開がなされるべきである。そして日本敗戦後の共和国を敵視し軍事的に包囲するアメリカの戦略と日米軍事同盟(日米安保)の存在。これらに積極的に協力してきた日本の戦後史。それこそが共和国をして「核」の選択にまで追い込んでいる状況を、すべての公立学校でも教えるべきである。それは県の教育委員会も大好きな「国際理解教育」「人権教育」とのスローガンからしても当然の発想だろう。
 また、それ以前に朝鮮学校を追い詰めれば核はなくなり「拉致問題」が解決に向かう理屈がどこに存在するのだろうか。知事は「県民の理解が得られない」を口にするが、それは児童生徒を犠牲にすれば「理解」が得られると言うのと同じである。それを「政治判断」と言うのなら、そんなものは「判断」ですらなく高々、俗情におもねっているに過ぎない。
 以上のように、神奈川県の「就学補助金制度」からしても、教育内容への政治的介入(ましてや朝鮮学校は学校教育法第一条から除外され各種学校の扱いにされている。)の禁止や、児童生徒の教育権保障という法的枠組みからしても、行政による明確な違憲、違法行為である。

朝鮮学校の闘いは反帝闘争の最前線

 つまりかれらにとって理由は何でもいいのだ。日本の支配階級の意思は朝鮮学校を、さらには在日朝鮮人の存在を葬り去りたいのである。そこで「同化か廃校か」の選択を迫る攻撃を朝鮮学校にかけているのである。崔権一氏(大阪朝鮮高級学校教員)は、「反日」教育などという罵声に対して、「朝鮮学校では反日教育など曖昧な教育はやっていない。実践されているのは反日本帝国主義の教育だ」と反論している。わたしも、日本の公立学校の教育労働者として、この立場を共有する。そして、われわれは日本の支配階級の本音もここにあるという真実を直視しなければならない。すなわち日本帝国主義の本質を全人民に暴露する可能性を本来的に持つが故に朝鮮学校を、敵視し隙あらば抹殺しようとしてきたのである。
 そして日本の教育労働運動への敵視の本質的理由も同じであり、それは歴史的にもかれらの一貫した姿勢である。日本の公立学校で「日の丸・君が代」が執拗に強制されるのもその一例であり、あの旗と歌が日本帝国主義の象徴だからである。
 したがって、朝鮮学校の抵抗闘争の本質は、日本における教育、人権課題の、さらに喫緊の壊憲攻撃との闘いの最前線であるということだ。ゆえに差別、人権、教育への侵害に抵抗している、つまり今日改憲策動に抵抗しているすべての人びと、団体は自らの課題として朝鮮学校の闘いに共闘できるし、そうすべきである。とりわけ教育労働者の団体は本来ならばストライキも辞さずに抵抗を試みるべきである。少なくともそれを可能ならしめる目的意識をもった共闘をめざすべきである。その力量を作り出す可能性をわれわれ日本の労働者、人民はまだ、失ってはいない。【藤原 晃】

(『思想運動』992号 2016年12月1日号)