〈編集ノート〉南スーダンPKO派兵問題を見る視点

 戦争法初の発動の地とされようとしている南スーダンの状況が、戦闘状態=武力紛争地であることと、政府答弁のデマを明かし立てる事実には不自由しない。最近では、反政府勢力トップのマシャール前第一副大統領が首都ジュバへの武力攻撃も辞さない構えを公然化し、首都攻防が焦点となる可能性が高まっている。その場所は、政府が「比較的安定している」と「判断」したからこそ「駆けつけ警護」などの実施地に選んだ地域だ。混沌とした戦場の現実のなかで、自衛隊が戦闘の当事者としてつくりだす未来の惨状が刻一刻といま迫りつつある。戦争法廃止を求めるわたしたちは抵抗をやめることはない。しかし、わたしたちの目前で派兵が強行されようとしている現実とどう向き合うかが厳しく問われている。状況を逆転する視点をどこに見出せるか。
 ひとつは、いまの状況が安倍政権のみによってつくられたものではないという視点をどうもつかだろう。たしかにこの政権の、歴史的にも際立った強行立法、政治的弾圧の数々の中身をおさえることは大切だ。しかし、南スーダンPKO(UNMISS)派兵、武器輸出三原則の緩和、辺野古新基地建設容認、原発再稼働、TPP推進など安倍政権と見まがう政策をくりだしたのは、旧民主党政権であることは記憶に新しい。
 具体的な政策の差異はありながらも、時の政権が誰の声をもっとも聞きその実現のために奔走してきたのか。その連続性を見ようとするならば、声の主が米日の政・財界支配層のものであることが浮き彫りになってくる。さらにその視点を、敗戦後七〇年余を俯瞰する視野へとおしひろげれば、米日資本家階級の及ぼしてきた力とその連続性を無視できないはずだ。
 そしてそこから、安倍政権はなぜあんなにも強権的なのかという問いへの答えも見出される。とりわけ安倍の極右的性質が指摘されるが、それだけではその強権政治の説明にはならない。
 新自由主義を貫徹するための暴力こそその本質であり、その実現性・求心性を高めるための極右思想と位置づける必要があるだろう。とりわけ七〇年代中盤の世界恐慌から資本主義経済の長期停滞にいたる過程と、日本の軍事大国化、経済の軍事化の連動は明らかだ。日本政府の暴力はその母胎の暴力、中国に追い抜かれ、「成長」の活路なく、ブルジョワ経済学者も認める資本主義経済の「終焉」における延命の道を軍事産業・戦争にしか望めない資本家階級の暴力だ。かれらだって他にやりようがあるならすでにやっている。戦争をやめられないから資本主義。「より良い資本主義」を求める非科学性・非現実性が運動を弱めてきた歴史はいま、南スーダン派兵の現実と直結している。 【米丸かさね】

(『思想運動』990号 2016年11月1日号)