東アジア青年交流プロジェクト訪朝報告
発展する社会主義国・朝鮮のいま
八月十九日から二十三日の五日間、「東アジア青年交流プロジェクト」の一員として、今回初めて朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)を訪れた。日本政府が行なう朝鮮への「制裁」のために、わたしたちは北京を経由して朝鮮へ向かわなければならない。移動にばかり時間がかかって、肝心の朝鮮の滞在期間は正味二日半の駆け抜けるような訪問となった。
板門店から開城の世界遺産群へ
板門店へは首都平壌から車で片道三時間の道のりだ。板門店が近くなるにつれ、ところどころ道の脇に、文字が書かれた大きな石の板が建っている。これは何なのかと尋ねると、戦争になったときに、これを倒して戦車などの侵入を防ぐのだという。朝鮮戦争が依然として休戦状態のままであることが、こういうところにもあらわれているのだ。
その一方で、板門店に一歩入ると、整備された庭園のようで殺伐とした雰囲気はまったく感じられない。人民軍兵士に案内され、チェコの観光客一行とともに見学した。
次に訪れた開城は、軍事境界線近くにある黄海南道の都市だ。現在は南北の経済交流の象徴として開城工業地区があることで知られているが、朝鮮初の統一国家となった高麗王朝の首都として栄えた場所であり、五〇〇年間つづいた高麗の歴史と文化を残す古都だ。開城南大門など一二の歴史的遺物が「開城の歴史的建造物群と遺跡群」として二〇一三年に世界遺産に登録されている。
朝鮮固有の建物に宿泊することができる開城民俗旅館で昼食をとり、その後、高麗成均館と恭愍王陵を見学した(いずれも世界遺産)。成均館は三〇年ほど前に開城博物館が移され、現在は高麗博物館として貴重な文化財が保存されている。しかし、朝鮮の文化財の多くは、秀吉の朝鮮侵略(一五九二年~九八年)、日清戦争(一八九四年~九五年)、日露戦争(一九〇四年~〇五年)、そして日本の植民地支配期(一九一〇年~四五年)に、そのほとんどが奪いつくされた。奪われた膨大な数の陶器は、現在も東京国立博物館などに所蔵されている。
恭愍王陵は高麗末期・第三一代の王の陵墓だ。急な階段を登っていくと、青々とした山々が見渡せて気持ちがいい。向かって左が王、右が王后の陵墓で、二つの墓の回りには石造りの虎と羊が交互に配置され、文人と武人の像が見守る。日露戦争の末期、一九〇五年から翌年にかけて、開城、海州、江原道一帯の高麗古墳二〇〇〇余基が荒らされ、埋葬品一〇〇万点が盗み出されたという。恭愍王陵もまた、日本軍の略奪にあっていた。北側部分をダイナマイトで吹き飛ばして中の埋葬品を奪ったという。
開城から平壌へ戻る途中に松獄山(通称:女臥山)という、ちょうど女性が髪を後ろに流して横たわっている姿に見える山があった。植民地支配の時代、日本軍はこの山の女性の腹に見える部分にいくつもの金属の棒を打ち込んだという。なぜそんなことをしたのかというと、「朝鮮の気」を絶つため、つまり朝鮮で子どもが生まれないようにするためだというのだ。最初はその衝撃に、何でそんなことをしたのか、わたしはよく理解できなかった。しかし、朝鮮の人びとに加えた暴行、略奪、破壊とともに、朝鮮の運命までを自分のものにしようとした日本の執念を考え合わせると、わたしが考えていた以上に、日本の朝鮮に対する植民地支配は異常で胴慾なものだったのだ、ということを知り愕然とした。
朝鮮の発展をみる
朝鮮滞在の三日目は、主に平壌市内を見て回った。主体思想塔のガイドの女性は、日本語で解説してくれた。塔に登ると、平壌市内を一望することができる。東側が八〇年代に建てられたビル群で、西側が二〇〇〇年以降の比較的新しいビルということだ。どちらもピンク、緑、青とカラフルな建物が目に入った。西側の建物は曲線的な建物が多く、近代的な印象を受けた。
祖国解放戦争勝利記念館では、拿捕されたアメリカのスパイ船・プエブロ号の船内を見て回る。船内には銃弾の跡が残り、船長が書いた謝罪文やそれを書いている写真などが展示されていた。船を出ると、プエブロ号を拿捕したという白い軍服の男性を囲んで人びとが集まって座り、話を聞いていた。館内には朝鮮戦争当時、アメリカ軍の爆撃を避けるために掘ったという塹壕が、実物大で再現され展示されていた。春夏秋冬の厳しい季節の変化のなかで、人民軍がどのように野戦を戦ったのかが再現されていた。
その後、新型車両が走り始めたという平壌地下鉄に乗車する。約一五〇メートルの地下に一つのエスカレーターで一気に降りる。電車は五分毎に走っており、革新線、千里馬線の二路線が交差している。
次に訪れた将泉協同農場は、平壌市郊外に位置する農業のモデル地区で、それぞれの棟にはソーラーパネルと温水器が設置されていた。協同農場には、集会施設、屋外屋内プール、床屋、美容院、写真屋、カラオケなどの労働者のための福利厚生施設、そして保育園も完備されている。
朝鮮初のビヤホール
わたしたちの滞在中、大同江ビール祭り(八月二日~八月末まで、午後七時~午前〇時まで)が開催されていた。連日大盛況で、わたしたちが行った時も席を確保できず立って飲むことになった。『ピョンヤン・タイムス』二〇一六年八月二十日号によれば、大同江ビールは無公害の天然地下水で醸造されており、大麦と米も国内で栽培されたもので、ホップは有機農法で栽培されている、ということである。全七種類のビールのうち、二種類が黒ビールだ。料理もたくさんあったが、ホテルに夕食が用意されていたため、ピスタチオと干しタラだけの簡単なもので済ませる。
会場に設置された舞台では、一番から七番までのビールのどれを飲んだか、当てるゲームで大いに盛り上がっていた。
被害者、被害者遺族との会見
今回の訪朝では、日本による被害者のパク‐ムンスクさんと祐天寺遺骨名簿遺族のキム‐ウォンギョンさんにお会いすることも、大きな目的の一つだった。パク‐ムンスクさんは二歳のときに長崎で被爆され、現在は朝鮮でただ一人、被爆者手帳をもっている。彼女は日本政府がこれまで一度も共和国の被爆者に対して何もしたことがない、日本政府が自分たちに対して謝罪し賠償することは日本政府の義務であって、わたしたちはそれを受ける堂々たる権利を持っている、それがゆえにわたしたちはお金欲しさとか生活が厳しいから日本政府に助けを乞うているということではない、と毅然とした態度で話した。日本の厚生労働省から文書が送られてきた時、「北朝民主主義人民共和国」と書かれていたという。こういうところに朝鮮を蔑み、侮蔑する植民地支配の時代から変わらない日本の姿が見えると、彼女が怒りをあらわにして訴えたことが強烈に印象に残っている。
初めて訪れた朝鮮は、のどかで美しい自然と、一方で急速に発展する平壌の姿が印象的だった。二〇〇日闘争の最中ということもあり、街のあちらこちらに赤い旗が見られた。高層ビルの建設も急ピッチで進められている。アメリカと対峙し、日本から制裁を受けるなかで、わたしたちを受け入れ、板門店の一部を除き、ほぼどこでも自由に撮影することができた。日本による被害者遺族の入国さえ拒否し、在日朝鮮人の弾圧・差別を強化するばかりの日本よりも、朝鮮の対応の方がよほど余裕と寛容さを持っているように感じられる。
これからこの経験を伝えるなかで、また朝鮮を知り、理解を深めていきたい。【廣野茅乃】
(『思想運動』988号 2016年10月1日号)
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