天皇8・8談話は憲法違反である
天皇の言行に惑わされるリベラル派の思想的堕落
 

 参院選で改憲勢力の三分の二超が確定したのと符節を合わせたように天皇の「生前退位の意向」が報じられたのは、七月十三日朝であった。誰が、何のために、このタイミングで情報をリークしたのか。第一報を流したのがいまや権力の走狗と化したNHKだったために、明文改憲の突破口を開こうとする政権中枢の深謀遠慮が働いているのではないかと疑がわれたとしても、決して不思議ではなかった。さまざまな憶測が飛びかい、波紋が広がるなか、背景や意図がようやくほの見えるようになり、ことは昨年来、天皇とその周辺でくすぶりつづけていたことが次第に明らかになってきた。
 宮内庁はビデオメッセージの形式で天皇の肉声を国民に伝えると発表し、八月八日にいっせいに放映された。
 宮内庁官僚や歴代政権と天皇とのあいだに、象徴天皇制のありかたや将来像をめぐって齟齬が生じていたことが、天皇の肉声をとおして浮き彫りになった。「生前退位」の意思表示は、戦後も七〇年が経ち象徴天皇制の矛盾やほころびが目立ってきているにもかかわらず、宮内庁官僚や歴代政権が一貫して問題を先送りし、積極的に打開しようとしてこなかった政治の現状への、天皇の焦燥と危機意識の表白にほかならなかった。そこには天皇制を何としても維持していくとの強い意志が込められていた。
 たとえば小泉政権下の二〇〇五年、皇室典範の改正を審議する有識者会議が設置され、女系天皇を是認する報告書が公表された。女系天皇の前に立ちはだかったのは、「日本会議」に連なる安倍晋三(官房副長官=当時)であり、下村博文、稲田朋美、山谷えり子、有村治子ら、のちに安倍に重用されることになる自民党内極右勢力であった。この一件は、翌年、秋篠宮の連れ合い紀子が男子を出産するにおよんで立ち消えになった。
 皇室典範は皇位は男系男子が継承すると定める。天皇の娘が結婚して男子を設けたとしても、かれに皇位継承権はない。娘は結婚すると皇籍を離脱しなければならず、皇族の減少とともに、皇族に占める男子の割合の減少は、天皇の地位の安定的継承を脅かす不安材料になっていた。さりとて、旧皇室典範におけるような、古典的解決形態である側室制度を復活させるわけにもいかないのである。
 天皇の地位の男系男子による継承と、天皇の「生前退位」を許さない定めとは、近代天皇制によって確立された。近代以前の天皇の地位は決してそんなものではなかった。やーめたといってやめた天皇は数多くいた。女系天皇も数こそ少ないものの存在した。元号はめでたい出来事、不吉な出来事があったからと、しばしば改元がおこなわれた。戦後改革によっても、男系男子による皇位継承と、一世一元の原則はそっくり引き継がれた。しかも皇族の結婚相手の供給源だった華族制度が廃止された。このため皇族の結婚難という新たな障害が立ち現われてきた。
 最初の試練は明仁のときに訪れた。マスコミが仕かけるさまざな美談のでっち上げや慶祝ムードとは裏腹に、わたしたちには伺い知ることのできない、当人はもとより血縁者におよぶ形質(生物に備わる形態的遺伝的特徴)上の緻密かつ執拗な詮索がおこなわれたはずである。皇后美智子は三たび失語症を患った。現皇太子の場合は明仁の場合よりさらに大きな困難に直面したであろう。雅子が抱える精神疾患は、なかば義務的に男子を産まなければならなかった立場上の重圧と、おそらく無関係ではあるまい。天皇一族は、なかんずく天皇の地位は、「国民の気持ちに寄り添い、苦楽を分かち合う慈愛に満ちた」外見上のイメージとは正反対の、非人間的な抑圧機構として存在し、またそういうものとして機能しつづけてきたのである。

天皇の「公的行為」は明白な憲法違反

 八月八日に発せられた天皇のメッセージは、宮内庁と政府間で事前の調整を経たものと伝えられている。しかしそれは、結果的に、「生前退位の意向」を強くにじませるものとなった。こうして天皇の発言を契機に、遅かれ早かれ、象徴天皇制のありかたや皇室典範の改正問題などが政治日程に上る可能性が出てきた。この間の新聞各紙の世論調査によると、国民の八〇%以上が天皇の意思を尊重すべしとする好意的な反応が圧倒的多数を占めた。この結果ではしなくも露呈したのは、憲法上の天皇の地位についての、国民の無知・無理解そのものであった。天皇は、憲法上、天皇の地位にかかわる問題について意思表示することを禁じられている。天皇にも(自然権として)人権があるといった類の同情論は、たとえ善意から出たものであれ、天皇の行為に対する憲法上の制約を曖昧にすることにつながる。決して許されることではないのである。
 天皇のメッセージについてさまざまな評価がおこなわれているが、そのなかでは、原武史(放送大学)が天皇の発言の憲法政治からの逸脱を明確に衝いていた。いわく「一見ソフトだが、強い意思を示し、法律の改正を促すようなメッセージ」、またいわく「非常手段とはいえ、天皇が法を超える権力を行使し、社会もそれを許容しつつあるように見える」(八月十一日『朝日』)と。
 憲法は第四条で天皇が「国政に関する権能を有しない」と明示する。同時に第七条に定める国事行為「のみ」をおこなうとも規定する。「国事行為」それ自体にも、「十 儀式を行ふこと」に示されるような、拡大解釈される余地を残してはいるものの、国事行為「のみ」をおこなうとする規定は、天皇自身の政治への関与はもとより、天皇の政治利用を許さない歯止めとして存在しているのである。
 宮内庁は、天皇の職務を、①憲法に定められた「国事行為」、②式典や行事への出席などの「公的行為」、③プライベートな外出や宮中祭祀(昭和天皇も現天皇も、神道形式でおこなわれる宮中祭祀を、名称を変えつつも戦前そのままに受け継いできた)といった「私的行為」に分類し、このうち①と②を「公務」と位置づける。しかし②の「公的行為」そのものが明白な憲法違反である。権力は、「公的行為」と対象の拡大をつうじて、「国民統合の象徴」という第一条を利用し、天皇に「国民を統合する」役割を積極的に担わせてきたのであり、国民のあいだに天皇への敬愛の念を植えつけ、広めてきたのである。

再生産される旧憲法下の天皇観

 天皇は、今回のメッセージをとおして、象徴天皇制の積極的かつ自覚的な探究者・実践者という自画像を描き出した。かれの描いた自画像は、マスコミが描き出す天皇像と何と似ていることだろう。即位にあたり「日本国憲法を尊重する」と宣言したかれは、天皇の「公的行為」が憲法違反にあたるなどと、露ほども疑っていないことも明らかになった。要するにかれは、権力の敷いた「公務」というレールに乗り、「国民を統合する象徴」としての努めを誠実に履行してきたが、高齢にともなう体力・気力の衰えからその責務をもはや十全に果たせなくなったと、「生前退位の意向」を表明したのであった。
 天皇の地方行脚は全都道府県におよぶ。天変地異が起きれば、しばらく時をおいて被災地に足を運び、犠牲者の冥福を祈り、ひざまずいて被災者に接し、激励する。それをまたマスコミが克明に伝える。かくして「国民に寄り添い、苦楽を分かち合い、国民とともに歩む」天皇像が大衆意識に刷り込まれていく。
 だが、天皇の行く先々で、天皇を受け入れるための周到な事前準備が地方自治体や警察組織、住民団体を巻き込んで繰り広げられ、憲法違反の人権蹂躙がまかり通る現実をマスコミは決して伝えようとはしない。精神病患者やアルコール中毒患者のリストをつくり、かれらの動静を監視し、ときとして予防拘禁さえいとわない。料理人が検便を強要されるとか、目障りだといって沿道の看板を撤去させたり、年端のいかない児童を歓迎行事に動員したりと、数え上げれば枚挙にいとまがない。かつての専制君主としての天皇の地位は「国民統合の象徴」に看板を架け替えたものの、「国民主権」原理に明らかに抵触する旧憲法下の天皇像がよみがえり、連綿と受け継がれていく。戦後七〇年も経った日本社会の、これが偽らざる現実なのである。
 他方、憲法が認めた「国事行為」ですら、その運用において、憲法違反の既成事実化が進行してきた現実から、わたしたちは目を背けるわけにいかない。「国事行為」の二は「国会を召集すること」と定める。それは形式的かつ儀礼的のものにすぎないが、天皇・皇后が国会の開会式に出席し、一段と高みから議場を見下ろしながら「お言葉」を述べるといった慣行が踏襲された結果、旧憲法下の天皇観を再生産する役割を果たしている。また第五項「……大使及び公使の信任状を認証すること」は、信任状の宛名を天皇に変えることによって、諸外国をして天皇が日本の国家元首であることを印象づける。それは、憲法違反の「皇室外交」とも相まって、天皇が国家元首として通用する既成事実をつくりだしてきたのである。

リベラル派のなかの天皇信者

 戦後日本の憲法擁護運動は目標を九条に特化し、九条のなし崩し的解体・骨抜き化と闘ってきた。歴史をかえりみるとき、天皇条項もまたなし崩し的に改変され、既成事実が積み重ねられてきた事実に行きあたる。戦後革新勢力は、天皇制批判が右翼の直接的暴力にさらされた一九六〇年前後の諸事件(雑誌『中央公論』に掲載された深沢七郎の『風流夢譚』をめぐる中央公論社社長宅襲撃事件や、『思想の科学』天皇制特集の回収問題など)を契機として、この問題に対して及び腰になり、事なかれ主義的にやりすごしてきたのではなかったか。
 天皇制批判勢力は議会内からすでに一掃されてしまった。あの日本共産党でさえ国会開会式のボイコット戦術を撤回し、最後の一線を越えた。昭和天皇の連れ合い良子の死去に際し、不破委員長が「同時代を生きた者として哀悼の意を表する」などと、わけの分からない談話を発表したころから、この転換はなし崩し的に進んできた。国民連合政府への参加の障害となる日米安保体制・自衛隊問題に始まり、「大衆から浮いてしまいそうな」テーマは、今回の決断によって、ことごとく棚上げ・先送りしたことになる。ここまでくればもう牙を抜かれたオオカミも同然ではないか。かてて加えて、リベラル派のなかにも天皇信者がいることが、戦争法案反対運動をつうじて明らかになった。天皇は8・15全国戦没者追悼式で、安倍が意図的に回避したのと対照的に、先の大戦についての「深い反省」を語った。かれらは、戦争態勢に遮二無二に突き進む安倍の対極に、高齢をおしてひたすら慰霊の旅をつづける天皇を見いだした。改憲阻止の援軍を発見したような気持ちでかれらは天皇の肉声を聴いたのかもしれない。権力のそれとは裏返しの、これが天皇の政治利用でなくて何であろう。
 わたしたちは、八月八日の天皇メッセージについてコメントを求められた日本共産党志位委員長の「高齢によって象徴としての責任を果たすことが難しくなるのではないかと案じる気持ちは理解できる。政治の責任として生前退位について真剣な検討が必要だ」というあまりに無様な、陳腐きわまりない応答に遭遇した。いまわたしたちがなすべきことは、「『帝国の慰安婦』事態」を論じつつ鄭栄桓氏が着手した(本紙前号)、一九九五年の村山内閣の成立・「国民基金」の創設を嚆矢とする戦後革新勢力の崩壊(その歴史的誘因をわたしたちは一九九〇年代初頭の社会主義世界体制の崩壊に見る)、そしてそれに規定されて一般化した市民派リベラルを含む総崩れ的転向状況を批判的に検証しようとする作業に学び、それに連なり、イデオロギー戦線を立て直すことに全力を傾けることである。
※本稿執筆にあたり横田耕一『憲法と天皇制』(岩波新書、一九九〇年刊)に負うところが大であったことを付記する。【山下勇男】

(『思想運動』986号 2016年9月1日号)