【HOWSフィールドワーク】 福島原発被災地を視察して
高い放射線量、それでも帰還強いる国と自治体


 4月2日、総勢17名が乗るマイクロバスは花曇りの東京を発って常磐自動車道を福島県浜通りへと向かった。HOWS「福島原発被災地視察ツアー」は1泊2日の行程である。高速を降りて福島県いわき市の〈道の駅よつくら港〉で昼食を摂る。四ツ倉港が間近だ。造営中の真新しい防潮堤の切れ目に波が寄せて、サーフィンに興じる若者たちが見える。白い砂浜は、放射能汚染の心配さえなければ夏は素晴らしい海水浴場になるであろうに。
 レストランや売店の入る母屋の横に、シート張りの一棟が[子どもふれあい広場]という看板を掛けて建っている。
 小学校の体育館を二回りくらい小さくしたサイズだ。屋外で遊ばせては被曝するので、こうして屋内の遊び場を設けたのだろう。中を覗くと、ガランとした空間に親子連れが一組。子どもは小学生前かな、父親に肩車をしてもらっていた。

國分富夫さん

 今回のツアーを案内してくださる國分富夫さんとはここで合流した。ジーンズにジャンパー、野球帽を被っている。2011年11月26日のHOWS講座(『福島原発被災地の現場から』)でお話をうかがったときよりずっと若々しく、お元気そうだ。当時は大震災からまだ半年ちょっと、会津のほうに避難されていて、心身とも疲労の極致であったのではなかろうか。現在はもともとのお住まいだった南相馬市小高区に近い同市原町区の借り上げ住宅に居を移している。
 現在71歳。郵便局に40年間勤務し、旧全逓労組の相馬支部長や相馬地方労働組合協議会議長などを歴任された。その頃すでに原発誘致に反対する運動の先頭にも立ってきた。被災した直後から避難者の会を組織し、会長を務める。その〈原発事故被害者 相双の会〉は今日まで会報を47号まで発行、タブロイド版4ページの紙面で1回の印刷数4000部という。相双とは相馬と双葉とを併せた略称である。

ガレキは撤去されたが

 国道6号線を北上して富岡町に入り、JR常磐線富岡駅の駅前に降りる。電車はいま通っていない。ガランとしたプラットホームの向こうに太平洋が茫洋とひろがる。わたしは一昨年の12月にもここに来たことがある。友人の池田実さんが郵便局を定年退職したのち2014年晩夏から翌年初夏にかけて福島第一原発構内で廃炉作業に従事した。
 かれに会いに行ったとき、やっと人が立ち入れるようになったばかりの富岡駅前にも連れてきてもらったのだ。そのときは商店街の建物が崩れかけながらもまだ残っており、駅のすぐ前の美容室などガラス窓がぶち抜かれて津波に襲われた直後のままだったのが生々しかった。現在は建物はほとんど撤去されている。駅舎前に設置されているモニタリングポストは毎時0.232マイクロシーベルトと表示されていたが、同じ場所でも少し動くと、あるいは地上からの高さを変えると数字は全然ちがってくる(一般的に線量を測るとき、γ(ガンマ)線を測る。地上に近づけると地面のβ(ベータ)線を一緒に測ってしまうので、それを避けるために地面から1mほど上で測る)わたしたちが持参した線量計は最高0.90マイクロシーベルトを計測した。いま都内なら0.02~0.05くらいである。線量計はこの先もっと桁違いの数字をあちこちで記録することになる。

浜通りを行く

 桜並木で有名な富岡町夜ノ森地区。その日はまだ1~2分咲きだった桜は満開になればどれほど見事であるか。辛夷(コブシ)の白い花も鮮やか。しかし通りの家々は立ち入りできないようにチェーンやロープ、柵で塞がれ、人の気配が無い。除染作業のであろうトラックが時おり通るだけだ。
 国道を走っていくとプレハブの新造ホテルが目につく。県外からやってきて廃炉や除染作業に従事する人に利用されているのだろう。黒いフレコンバッグがあちこちに積まれている。除染で取り除いた表土や草木を入れた袋だ。容量は1立方メートル。去年9月末時点で約915万5000袋がおよそ175か所の仮置き場や除染現場の保管場所に置かれているというから、べらぼうな数である。搬入先となるはずの中間貯蔵施設は地権者交渉が難航し、建設の目途が立っていない。建設されたとしても、その中間貯蔵施設の耐用年数は30年でしかなく、最終処分場の目途はますます立っていない。廃棄物はこの先どんどん増えて行くというのに。
 そうして地肌が剥き出しの田畑がひろがる。茶色のような黄色のような。4月初めなら青いものがいくらかは芽生える時季だが、そうした田畑は畔もどこも土一色。春の息吹というものがないのだ。異様な風景である。道沿いに開いている営業所を稀に見かけるとゼネコンの支店だ。ゼネコンは原発を建設するとき儲け、今は除染作業で儲けている。

線量計が鳴る

 大熊町と双葉町の境を通り抜けるとき福島第一原発に最接近した。3キロほどの距離。窓を閉め切った車内で線量計がピーピー鳴る。6.67マイクロシーベルトはこの行程中で最高の数字である。もちろん第一原発構内に入れば数字は桁が違ってマイクロからミリの世界になるのは前出池田実さんの『福島原発作業員の記』(2016年2月発刊)に詳しい。「人に優しいエネルギー 原子力」という看板が虚しく国道にまだ掛かったままだ。
 4月1日からバリケードが開いて立ち入り自由となったばかりの浪江町に入った。駅前のロータリーに、町の福祉施設のものらしき小さなマイクロバスが2台停まっている。タイヤのネジが錆びついているのは、5年前の3月からそのまま放置されてきたのだろう。時間が停まっていたかのようだ。原発事故の後、何の避難指示も出されないまま、とにかく原発から離れなければと、ここの住民たちは浪江大柿ダムの奥のほうへ向かった。ところが飛び散った放射能の量は距離より風向きや地形に左右される。かえって線量の高いところに行って何日も過ごすことになってしまった。妊婦や子どももいたのに。
 それから[希望の牧場]へ。原発から14キロのところに300頭を超す牛が飼われているが、被曝しているから食肉として出荷することも乳を飲料とすることもできない。その夜は常磐線原ノ町駅前のホテルに泊り、2日目の午前中は小高区の浮舟文化会館において、國分さんを講師に学習会を持った。

なぜ解除を急ぐのか

 「安倍政権は居住制限区域、避難解除準備区域を来年3月で解除する方針だ。しかし去年9月に避難解除となった楢葉町では戻ったのは住民の5~6%だけで、若い人は帰らない。チェルノブイリでは子どもの甲状腺ガンが4年後から急増した。0~18歳の甲状腺ガンは普通なら100万人に3人。ところが福島では30万人から115人出ている。専門家は事故とガンの関係は時間をかけないとはっきり言えないと指摘してきた。そのとおりになっている」と國分さん。「国は避難解除をなぜ急ぐのか。解除しなければ再稼働が進まず、再稼働しなければ原発輸出のアピールもできない。住民の健康と安全は後回しだ」。
 前出〈相双の会〉からも4人が参加してくれた。女性が3人に男性1人で、國分さんと同世代と思われる。「衣料品店を営んでいた。戻らない。娘夫婦は震災後、東京に移転した。病院も商店もない。とても生活できない」「戻れない。住み込みで働いていたところが、働き先が東京に移転してしまった」「美容室をやっていた。帰るつもりでいるけれど不安。家も店もリフォームしたばかりだったのに、娘はこのままでは帰るつもりはないと言うので、いずれ解体しなければ。でも、いつになるか。馴染み客もバラバラになっているし」(いずれも女性)。「市はとにかく人を帰したがっている。制限を解除することによって復興が進むんだという言い方をする。事故の起きる前、東電は地元の人間をスパ・リゾートに連れて行ったり、有名人呼んで来たり。ハマコー(浜田幸一)とか相撲の舞ノ海とか。何億もかけて公会堂まで作った」(男性)。年間被曝量1ミリシーベルト以内という基準を国は20ミリシーベルトに緩めた。しかし2014年度のイチエフ廃炉作業員の年間被曝量の平均は4.9ミリシーベルト。白血病の労災認定基準は年5ミリシーベルトで、去年白血病が労災認定された元作業員(41歳)の累積被曝量は19.8ミリシーベルトである。年間20ミリシーベルトまでの世界に(子どもや妊婦も含めて)帰れと強いるのがいかに酷いかは明らかだろう。「政府、東電との闘いは後世を守る闘いだ」という國分さんの言葉を胸に、帰路についた。【土田宏樹】

(『思想運動』978号 2016年4月15日号)