高校政治教育「通知」の狙いは何か
「政治的中立」の幻覚から覚めよ
6月に選挙権年齢を「18歳以上」に引き下げることが決まり、これを受けて支配階級による「政治教育」への対策が進んでいる。その1つが10月29日に出された、「高等学校等における政治的教養の教育と高等学校等の生徒による政治的活動等について」と題する文科省「通知」である。
「18歳選挙権」は来年の参議員選挙が初の適用だが、政府自民党が狙っているのは国民投票での改憲賛成票の獲得である。そこで自民党は「政治活動」をした教員に罰則を科す法的準備(「義務教育諸学校における教育の政治的中立の確保に関する臨時措置法」を高校教員にも広げて適用する改正案)も合わせて進めている。
新聞などでは「校外での政治活動は一定条件下で容認」「校内では引き続き高校側に抑制的な対応を求める内容」(毎日)、「高校生の政治活動を認める通知を都道府県教育委員会などに出す 」(東京)などと報じられているが、これを見て高校生は「デモ禁止だったの」と驚かれた人も多いだろう。実は私もその一人である。そもそも「デモ禁止」など「表現の自由」に真っ向から反する「生活指導」など出来るわけもなく、すでに死文となっていたものだ。ではなぜこの時期に「…従来の通知文を大きく見直し…」などと大げさに、かつ「政治的教養教育の推進」と前向きな匂いを装って宣伝されているのかを考えなければならない。
新旧の「通知」を比較してみる。どちらも校内の「政治活動」は一切禁止であると指導しろと脅していることに変化はない。しかし校外での政治活動についても原則禁止とした旧「通知」とは違い、たしかに「家庭の理解のもと、生徒が判断し」と余計なお世話をあえて書きつつも原則許容する表現もある。
しかし、そもそも「通知」対象とは生徒ではなく教員である。だから、最終的にどう解釈し運用するかは現場の教育労働者の力量にかかるのである。そこで彼らは教師に対しては「特定の政党への支持や不支持」「個人的な主義主張」の禁止など既に諸法で脅していることの駄目押しを繰り返している。さらに今回は、罰則法を準備して、生活を奪うことをチラつかせながら「政治的中立性の確保」が5回も繰り返される。しかもご丁寧に副教材つきで、13億円をかけて全ての高校生を対象に370万部を配るという。これには教師用資料が漏れなく付いて、そこには「政治的中立性の確保等に関する留意点」として、23項にもわたる教員への脅しが並んでいる。
つまり教育内容への公然とした介入が同時に行われているのである。すでに査定昇給、中間管理職制度、などが定着し教師は管理職の目を気にしながら生活し、合わせて学校現場は年々忙しくなるばかりである。たとえ強制ではなくとも文科省教材を使って授業をする以外に無いとこまで追い詰められている。旧「通知」が出された69年といえば「東大紛争」から全共闘運動、そして70年安保闘争に向かう時期であり教育労働者も公務員共闘で年に2回はストを打てていた。つまり今とは政治的すなわち階級的力関係が全く違っていたことを考え合わせなければならない。実際旧「通知」には「…最近、一部の高等学校生徒の間に、違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生している…」とあるように高校での短絡的な実力行使に付け込んだ内容となっている。つまり「政治的活動」とは「授業妨害」や「学級封鎖」を想定したものだと限定的に読むことも出来る。
だから「通知」を復活させた理由は、「…平和で民主的な国家・社会の形成者を育成すること…」などにあるのではなく、幾重にも教育労働者を脅して縛るためである。
これでも今回の「通知」をめぐる「政治的教養教育」の可能性は一歩前進だと言えるだろうか?
9月1日、日教組は文科省に要請書を手渡して、意見交換したという。その際、日教組側は「教職員が委縮することなく…、創意ある教育実践にとりくめるよう…、政治教育には国民の理解と合意形成が必要…」と言い、文科省側も「政治的中立性の確保は必要。総務省の一般への啓発事業や、保護者、PTA、地域と連携して…」と答えたという。要するに両者とも「政治的教養教育」、「政治的中立性」は結構なことですねと頷き合って「でもあんまり脅さないでね。」と日教組はお願いしているように私には見える。
しかし、そもそもどこに「中立」などが存在するのかと私は言いたい。 「日の丸・君が代」では起立と敬意表明を強要し、年々「新しい歴史教科書」などという古い歴史的幻想が確実に復活をはじめ、その為に学校に圧力をかけ、「右翼が来るから」と脅してまで特定の歴史教科書を排除することまでがまかり通っている。先日の「70年談話」は、その歴史的幻想を「公的・中立」であると強制していく「宣言」の役割を果たした。現実に存在するのは政治的対立、つまりは階級的対立しか存在しない。
いやいや両論併記すれば、中立は確保できるなどとの声が聞こえてきそうだが、沖縄で、戦争法制で、原発で、中国や朝鮮に対する中傷に、現実に存在するのは持つ者と持たざる者の対立、抑圧する側とされる側の対立しかない。抑圧と暴力を必要とするのは正しい論拠を持てないからである。併記すべき論理など存在しないのだ。
我々ができるのは真実を知らせるだけである。「政治的中立性」は真実を黙らせる詐術ではないのか。
決定的な事柄は政策・提言の論議の中にはなく、実際に予算権や人事権を誰が握っているのか。それにどれだけ制限する力量をわれわれが確保できるかではないのか。
主要因は、現実の階級間の力関係である。だから教員集団はまず、せめて今のさまざまな闘争課題を通じて、階級的対立に直面しているわれわれの真実を知ること。その為の組織内情宣と討論する環境を用意することである。それがわれわれの政治的課題であるはずだ。
【藤原 晃・神奈川県教育労働者】
(『思想運動』970号 2015年12月1日号)
(注)本稿は、『思想運動』12月1日号に掲載された文章を筆者が加筆・補正したものです。
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