街頭闘争と職場闘争の結合を!
人民の階級闘争こそが歴史をつくる
           

 国会では、安倍とその仲間たちが踏ん反り返って座っている。ヤジを飛ばし、緊張感無く、舐めきった答弁をしている。しかし、あの余裕の裏には数十年掛けて仕組まれてきた根拠がある。
 小選挙区制を実現して2割の得票数でも八割の議席を獲得できるようにして、少数野党を追い出した。自民党内では、公認付与権と資金配分権を党首に集中して派閥や族議員を黙らせた。内閣法をつくって高級官僚の人事権も掌握した。
 さかのぼれば四半世紀前、帝国主義は、世界の資本家階級の宿敵、ソ連を崩壊せしめ社会主義世界体制の解体に成功した。国内においては、総評を潰し、日本の闘う労働運動を解体した。労働者は連合支配の中に放り込まれ、あとは熟成するのを待った。階級意識という毒を抜かれた「美酒」が出来上がった。連中の無法ぶりはまるで酩酊しているようではないか。われわれの多くもこの酒を飲まされてはいないか。この酒はわれわれ人民の血で出来ている。
 大方の下準備は整い、国際金融資本を中心とした資本家階級が最も稼ぎやすい環境が日夜準備され続けている。つまりそれは人民の諸権利を「規制」と呼んで破壊すること。世界の資本主義体制が存在し続けるためには、その野蛮で、悪辣で、欺瞞的な本性を隠すことすらできず、麻薬中毒のように恒常的戦争策動を欲しているのだ。これがわれわれの対峙する敵の姿である。

〝事実〞の直視から

 強行採決された戦争法案への抵抗闘争は連日の座り込み、集会、デモ、国会包囲など街頭を中心にして果敢に闘われた。そこには幅広い層が参加し、戦争に巻き込まれる不安や、でたらめな答弁に憤り、良心や正義感に従って葛藤を乗り越えて、行動に立ち上がった諸個人がいた。デモや集会と言えば最近は「老人会」と揶揄されていたが、新しい平和運動団体も作られ、若者や母親などを中心に多くが加わった。その動きに励まされ、またいくつかの団体が名乗りを上げ野党の連携まで作り出し、それが60年安保闘争以来と言われるほどの国会包囲行動を成功させた。しかも、原発、労働者の不安定化、秘密保護法など、それぞれへの地道な反対運動の継続、そして同時に安保最前線で闘い続けている沖縄の闘いのインパクトがこの成功に繋がっている。
 集会やデモの可能性は世論に影響力を与えるだけではない。職場や学園、地域、あるいは家庭内において孤軍奮闘する諸個人が多くの地域、現場で起こる諸現象を確認し、共通の敵を見い出し、勇気を得て、闘いを鼓舞し前進させもする。
 だからこそ、この「良心」や「正義感」を根深い悲観に向かわせてはいけない。そうさせないために、われわれが若干の勇気をもって注意を払わなければならないことは、こうした行動への御為ごかしの称賛ではなく、それでも戦争法は阻止できなかったし、安倍は未だに政権にふんぞり返っている事実である。そして当初の予定通りに「次は明文改憲」と宣言し、選挙に向けて人民の生活をいっそう苦しくしつつ、欺瞞的経済政策の脅迫的宣伝が再び繰り返されている。
 われわれが負けたのは良心や正義感が足りなかったためではない。弱いためだ。
 われわれに足りないものは何か。

教育現場の現実

 たとえば、わたしがいる教育労働の現場では国会前のような緊迫は無く、平然と「秩序」が保たれている。われわれは生活を人質に取られながらいっそう進む労働の疎外を目の当たりにしてはいるが、ストライキが呼びかけられないどころか、むしろ日ごろの問題は労組執行部が個別に相談、代行するから「秩序」を乱すなと請け合う。しかし労働の疎外と強化は進行しつづけ、月平均60時間の残業など当たり前で、統計によれば3割は過労死ラインの80時間を超えている。若手教職員の4割は400万の「奨学金」と言う名の借金を抱えているが、それでもまだ自分は恵まれていると感じている。この現実の中で「悔いを残さないように…」と自己実現的に国会前への動員が呼びかけられても、それは一人で何とかして来いと呼びかけるのと同義になる。

日常の抵抗とは

 今回の強行採決に対して諸団体が発した抗議文には、いずれも怒りの表明と組織されない個人が国会前に集まったことを「新しい民主主義」だと称賛し、そこにこそ「希望」があるなどの抒情的表現がならんだ。しかしそれらの呼びかけだけでは職場での具体的行動に結びつくことはあり得ない。それどころか、街頭行動への「希望」が強調されればされるほど自分の置かれている現実とかけ離れていて、白けすら感じる。かくも国会前と職場は未だ断絶されている。今回、「民主主義」や「立憲主義」は単なる意見調整のための手段ではなく、「権力を縛る」ことに本質があると主張されていた。しかしそれは自然の力によって作られたのではなく、これまでの階級闘争の成果であることを忘れてはいけない。だから、こっちが弱くなれば途端に向こう側に引っ張られる。毎日労働現場や地域を支配し続ける「秩序」とは、資本家階級の利益を守るための秩序である。これが守られる限り、生産は滞りなくすすめられ、搾取は強化される。富める者はいっそう富み、貧しいものはいっそう貧しくなり続ける。だから金は余り続けいっそう資本主義は戦争を欲する。この現実に対して多数議席の獲得を呼びかけるだけで、勝利を得ることができるだろうか? 日常的職場、生活場面での「秩序」への抵抗を試みる不断の努力なくして多数を獲得することができるか? そもそもわれわれはもとより多数ではないのか? 
 それでもわれわれは「自由な個人」にのみ未来の可能を見ることができるだろうか?
 放射能汚染が、貧困が、いじめの原因が、高騰し続ける学費が、減り続ける賃金と増え続ける労働時間が、差別主義が、「立憲主義」の体裁すらが、無視され、放棄される野蛮がまかり通っている。
 ここで、ドイツの劇作家ブレヒトがヒトラーのドイツで配布するために一九三四年に書いた『真実を書く際の五つの困難』の一節を引用する。ここに日本の労働者階級に欠けているものが書かれていると考えるからである。
 「…資本主義に反対せずにファシズムに反対する人たちは、子牛の分け前を食べることを望みながら子牛を殺すべきでないと主張する連中に似ている。…野蛮を生み出した所有関係には反対せず、ただ野蛮だけに反対するのだ。かれらは声だかに野蛮に反対する。だが、彼らがそう叫んでいる国々でも、同じような所有関係が支配している。ただそこではまだ、肉を運ぶ前に屠殺者が手を洗うのだ」【藤原 晃・神奈川高教組】

(『思想運動』967号 2015年10月15日号)