戦争法案の強行採決を弾劾する!
闘いの継続といっそうの発展のために
                 

 9月19日未明、参議院における戦争法案の採決が強行された。わたしたちはこの暴挙を許さない。
 戦争法は、武力攻撃事態法、PKO法、自衛隊法など10の法律を一括改定する平和安全法制整備法と国際平和支援法からなる。本来、憲法に照らして認められない集団的自衛権行使のための立法化は、解釈改憲を極限までおしすすめるものである。「密接な関係ある国への攻撃」や「日本の存立が脅かされる」などの名目・口実のもと、米国などの軍隊とともに地球規模で自衛隊が武力行使を行なう。あるいは戦闘の兵站活動を行なう。それにともなって日本の公・民を問わない(「指定公共機関」とされる自治体、医療、港湾、鉄道、放送などあらゆる分野の産業)労働者が戦争に動員される。侵略・植民地支配の歴史の隠蔽・歪曲とセットで、安倍政権の「戦後70年談話」で改めて示された「積極的平和主義」。戦争法案の強行採決は、ブルジョワ・軍事大国化の道をひた走る安倍政権の姿を内外に闡明した。

なぜいま戦争法か

 なぜいま、集団的自衛権の立法化かをとらえかえしたい。
 これをだれが欲し、これによってだれが利益を得るのか。
 安倍らは、己の敵愾心・軍事的野望を、嘘に嘘を重ねる言動で覆い隠しつつ朝鮮・中国「脅威論」をふりかざす。
 それが米の対日要求の実現だということは、多くの人が指摘している。日米原子力協定しかり、労働法制改悪しかり、そして解釈改憲による「集団的自衛権行使」という示唆にいたるまで、それはほぼ忠実に実行されている。しかし、日本は単に米に従属しているのではない。
 米の軍事戦略に積極的に乗ることによって莫大な利益を得る日本の支配層、金融資本、多国籍企業等を代表する独占資本の存在。これこそが、安倍政権を政治的代行者としてかつぎ上げ、みずからの要求を通させている勢力、日本帝国主義だ。
 中国を経済的に不可欠なパートナーとしながらも、軍事的には潜在的脅威と位置づける米。その米の相対的な国力低下による日本への軍事的肩代わりの要請、米欧日資本主義国の経済的行き詰まり等を背景に、日米政府・独占資本が戦争特需経済を導くための突破口としての戦争法だ。
 安倍政権に対して、ともすると、その極右的性質に批判が集中する。しかし、戦争の根は、安倍政権をつきぬけて、かれらを養い育てている「母胎」に行き着く。
 「こいつ(ヒトラー)があやうく世界を支配しかけた男だ/人民はこの男に打ち勝った/だが あまりあわてて勝利の歓声をあげないでほしい/この男が這い出してきた母胎はまだ生きている。」(ブレヒト『戦争案内』より)
 安倍政権の「母胎」とは、日本独占資本家階級である。わたしたちの闘いにとって有効で必要不可欠な視点とは、こうした階級的視点である。
 わたしたちはこの間、壊憲NO! 96条改悪反対連絡会議を通じて「戦争をさせない1000人委員会」に参加し、「戦争させない東京1000人委員会」主催の二度の大衆集会を成功させ、また、「戦争をさせない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」の呼びかける国会前行動にも連日参加してきた。一連の行動を担った人びとの努力に敬意を表しながら、以下は、今後の運動を継続し、より強くするためにわたしたちに何ができるか、その議論の論点になることを願って書く。 

闘いを強めるための論点提起

 国会前の行動で労働組合は控え目に周辺に位置し、正門前には学生、女性、学者、法律家など新しい参加者が多く見られた。この動きを取り上げ、「既成の組織」ではない個人参加であることが、しばしば強調された。それが事実として言われることに異議はない。
 しかし、個人と組織を対立的にとらえ、後者を否定する論調、ひいては、過去の運動は組織的・集団的であったから失敗したのだ、組織は個人を抑圧するものでしかないと、組織・集団を否定する考え方があるならば、それには異議を唱えたい。
 60年安保をふくめ、戦後の労働運動や学生運動の組織的・集団的活動に誤りがあったのなら、その何が誤りだったのかがつぶさに検証されることが必要だ。事実に沿った検証にもとづく反省と教訓が、共有化され引き継がれていないことが問題なのだ。組織は具体的な個々人で成り立つのだから、そこでの出来事も具体的だ。そうした具体性を一挙に普遍化し、組織・集団一般を否定するのは、清算主義的であり、誤りや成果を正しく受け継ぐことにはならない。
 たしかに、労働運動も学生運動も、いま、その土壌の形成からして困難な状況ではある。
 しかし、資本家階級の攻撃は常に組織的・計画的、かつ階級的である。それに対抗し、勝利するためには、どのような運動がめざされるべきか。さまざまな組織や個人が出会うなかで、この課題についておおいに話し合い、試行錯誤を重ねていくべきだと思う。また、戦争法反対運動のなかで、日本が戦争に巻き込まれることに対する不安感が語られた。その不安そのものは、大切な法案反対の根拠だ。しかし、日本は米とともに、他国を巻き込む 側にいる。それを許さない意思を闘いの根拠にすることが、闘いを継続する力となる。
 いま、戦争法は反対だが日米安保は必要という考えを持つ人は少なくない。しかし、わたしたちは、そもそも日米安保条約という軍事同盟自体が憲法違反であると考える。周辺事態法やイラク特措法など挙げたらきりのない戦争立法は、「憲法の枠内」という建前をとってきたが、本来違憲である。憲法の空洞化=解釈改憲の積み重ねの延長に、戦争法制定は位置する。また、戦争法は「立憲主義にもとづかない」という批判がなされてきた。それはともすると「手続き論」に終始した批判であった。集団的自衛権を行使したいのなら、正々堂々と国民投票を通じて明文改憲してからだと。では、正当な手続きを踏んで明文改憲をしてからなら集団的自衛権行使を認めるのか。さらには個別的自衛権はどうか。
 従来の改憲論者や安保賛成派までを含む幅広い結集のなかには、そうした論点がつねにはらまれていた。たしかにいまそれを議論し始めることは難しい。議論すれば、対立を際立たせ決裂を生むだけではないのかと。しかし本来の議論とは、互いの意見の違いを尊重した上で忌憚なく自己の意見を述べ合い、戦争法案の真のねらいを解明し、それに対する有効な実践を模索するといった、問題の本質に迫ることではないか。認識を深め合う関係や場所が、運動する魅力となり、運動継続の力ともなる。

状況を根底で動かすものとの対峙を

 戦争法案を強行可決した安倍政権は退陣せず、政権支持率も三割台を切らない。米の要求と日米共同のシナリオがほぼ完遂されたというしかない。これをどう考えるか。
 60年の岸政権退陣の要因はさまざまな条件がからんでいたとはいえ、社会の原動力たる職場・生産点に依拠した、日米軍事同盟と対決する労働者階級の闘いが、その決定的な力として存在した。労働者の下から盛り上がる創意と自発性が生かされる指導が、十分になされなかったという課題は残るが、ナショナルセンター総評への結集を通じて、労働界がそうした反対の意思表示をしつづけたことは、政権にとって無視できぬインパクトとなった。
 また当時は、中ソ論争という国際共産主義運動の分裂の危機を内包しつつも、社会主義と資本主義国内の労働者階級の闘い、民族解放闘争が三つの潮流として結びつき、世界人民の反戦平和の闘いを形成し、それがベトナム戦争に見られるように米帝国主義による勝手気ままな戦争政策の手足をしばっていた。いまは、社会主義世界体制をはじめ、そうした闘いの条件がないことが、当時との決定的な違いだ。
 中曽根政権の登場以降、国労の解体、総評・社会党の解体、改憲がセットで追求されたのは、何よりも闘う労働者階級の存在が改憲策動にとっての障害であり、それを抹殺することが決め手だと政府・独占資本が明確に意識したからだ。八九年に総評が解体され、労資協調路線の連合が誕生。かつて政治闘争を担った公労協、大企業の労働組合は、切り崩し攻撃を受け、多くが労資協調の御用労組へと変質し、闘う労働組合は少数派に転落した。まさに数十年にわたる階級闘争における労働者階級の敗北の積み重ねが、いまの政府・独占資本による壊憲・改憲状況を許しているのだ。
 この形勢を挽回し、反動政権を追い詰めるには、労働者階級の階級闘争の再生、そのための階級意識の再生が、たとえ迂遠と見えようとも、何年かかっても必要だ。生産現場からの闘いが、学園や地域からの闘いとつながってこそ、政府・独占資本を震撼させる力になる。だからこそ、各現場の自覚した個々人の協働した闘いが求められる。個別バラバラにされた現場でも闘いの火種を絶やさず、連携・協力の可能性を模索し、点から線へ線から面へ広がっていくことをめざして運動の質量をつくっていこう。明文改憲阻止の闘いの基盤は、そうした日々の実践が鍛え得る。【米丸かさね】

(『思想運動』966号 2015年10月1日号)