諦めるな! 抵抗は変化を生んでいる
あらゆる運動を憲法闘争に集中させよう!


君が代不起立裁判で二つの勝利判決

 「日の丸・君が代」拒否の裁判闘争での嬉しい判決が、5月末に続けて二つ出された。
 一つは、不起立のみを理由に退職後の再雇用が拒否された採用差別事件に対して25名が訴えた事件に対する、東京地裁での勝利判決である。この判決では都教委による「裁量権の濫用」を断じ、原告へは再雇用された場合に支払われるはずだった賃金相当額だけでなく慰謝料の支払いまで認めさせた。
 もう一つは、その三日後の28日の、根津公子さん、河原井純子さんの不起立を理由とした停職処分事件に対する東京高裁における「逆転勝訴」である。詳しくは本紙二面の根津さんの文章を読んでほしい。
 まずは、不屈の意思で抵抗を続けてこられたみなさんの勝利を、心から讃えたい。
 どちらの判決も、直接の違憲判断は避けてはいるものの、教育委員会による「思想を捨てますか、それとも教員やめますか」と脅迫する処分のあり方は、思想・信条の侵害で、違法だと言っている。勤務中には思想・信条などない、あるいは起立や斉唱は「外形的行為」を命じているだけで思想・信条を侵害などしていない、と人格否定の論理まで持ち出してきたこれまでの司法府と比較すれば、明らかな変化が見て取れる。
 ここに現われた変化を、わたしたちはどう見るべきだろうか。
 沖縄の地における反基地・平和勢力の闘いが広範な統一的大衆運動となり、昨年末の県知事選挙の圧倒的勝利へと結実して以降、その闘いにけん引される形で起きている変化、福井の高浜原発の差し止め判決、「大阪都」構想住民投票の否決、そして直近の憲法審査会において3参考人全員が戦争法制を「違憲」とした発言、各紙世論調査では半数以上が戦争法や安倍政権の対応へのなんらかの危惧をもっているなどの一連の情勢の変化は、どれも「立憲主義」あるいは「法の支配」、その根幹である基本的人権の侵害、しかもそのやり方が粗雑でかつ強権的・暴力的であることへの大衆的「危機感」あるいは「違和感」が、潮目を変えさせつつあることを示している、とわたしは考える。
 いま「潮目」との比喩を使ったが、ここで強調したいことは、安倍自民党政権の壊憲策動を「粛々と」は進めさせず、かれらにきわめて雑な対応を強いているのは、自然的現象ではなくて、各課題でのけっして諦めない粘り強い抵抗闘争の存在があるからこそだということである。「結局のところ抵抗しても無駄なのだ」という虚無主義が漂っている昨今であるからこそ、この抵抗闘争の意義を改めてしっかりと確認しよう。

諸課題は憲法を軸につながっている
 しかし、その一方で個々バラバラに「それぞれが草の根的抵抗をし続けさえしていればいつかは⋮」といったオポチュニズムにも未来はないことを言いたい。
 支配階級は資本主義的行き詰まりを強く認識しているからこそ、諸攻撃は階級的かつ計画的だ。仮に安倍政権の賞味期限が切れて「安倍下ろし」が始まったとしても、壊憲攻撃、すなわち人民の人権をざっくり制限する攻撃が止まることはありえない。
 「戦争法案」と同時に国会に上程されている「改悪派遣法」案「労働時間原則の破壊法」案の審議が大詰めをむかえ、衆院通過が必至の情勢にある。これらの労働法制の改悪も戦争法制、壊憲に「切れ目なく」つながっている。
 実質賃金が下げられ、社会保障も切り縮められれば、勤労人民の真っ当な生活は破壊され、日常から平和や人権が剥ぎ取られる。このまま状況が悪化すれば、貧困、過労死、自殺、いじめ、親殺し、子殺しなどの悲惨な事態が今以上に蔓延する。そして民衆の不満をファシズム・戦争へと誘導する危険な環境が準備される。
 しかし反対側から見れば、市民としての諸権利獲得にせよ、労働者としての職場闘争にせよ、日常的抵抗運動が憲法破壊阻止の闘いそのものとしての意味を持つということだ。われわれの日常を少しでも冷静に眺めてみれば、どれだけ憲法が無視されていることか。敵の側はこの現実を使って「あってもなくても同じだよ」と大衆をして憲法にそっぽを向かせようとするが、それは裏をかえせば、われわれが取り組むべき抵抗の材料はいくらでもあることを意味している。
 「日の丸・君が代」は教師だけの、派遣法は非正規労働者だけの、労働時間原則の破壊は一部の高給取りだけの、原発はその地元自治体住民だけの、そして改憲は法規範だけの問題、憲法学者や弁護士だけの問題ではない。これらの諸課題はすべて憲法を結節点として一つの課題となる。したがって改憲阻止の闘いはあらゆる人びとの共通の闘争課題となりうる。
 安倍が言う「岩盤規制」とは、つまりは人民の盾であり、支配権力を縛る憲法そのものであることが見え見えになっている。

職場でいかに闘うか
 しかし「法」が国家権力を後ろ盾にして人民を縛り、憲法は国家権力を縛るのだとしたらその後ろ盾は何なのか? 
 それはわれわれ人民の団結の質と量以外にない。とりわけ資本主義社会の生産関係においては労働者階級として存在するわれわれを意識する以外にはわれわれが依拠する対抗力はあり得ないのだ。
 そして人民の抵抗力の基礎は、各人が自らの日常を見直す若干の勇気に支えられる。勇気とは感情の一つであるから、啓発的な学習だけでは作られない。どこまで行っても抵抗闘争の経験によってしか得られない。この確信のもとにそれぞれの課題に取り組む必要がある。
 職場はそこで働く者のためにある。われわれ自身の手でわれわれのために改善しよう、われわれ人民の権利を踏みにじらせないために声を上げよう。多くの場合はじめは孤立を意味するかもしれないが、抵抗するために仲間を見つけよう。同じ環境にあれば、同じように考えている人間は必ずいるはずだ。敵の行動と思考の原理を理解しよう、そして動揺を誘おう。些細なことでも客観的情勢を見極め、機会を逃さず行動しよう。そのための戦略を仲間とともに建てよう。組合があっても執行部が闘わない、あきらめているのなら、その隠された路線を明らかにし、論争を仕掛けよう。それは、少数の仲間と組織内で孤立することかもしれない。しかし何かを本当に変革しようとするときは、いつも最初は少数であることを覚悟しよう。「これまでこうだった」を、正面から否定するのだから当然のことだ。
 未来の可能性を今日の偶然によって止揚する過程の展望が必要だ。そのために歴史の中から必然を学ばなければならない。確かにこのような呼びかけは空想的に聞こえ簡単に実現するものではないだろう。しかし、失敗を重ね、教訓的経験すら積み重ねることができないで、いったいどうやって労働者階級の未来を切り開くことができようか。【藤原 晃】

(『思想運動』960号 2015年6月15日号)