ロシア十月社会主義革命九七周年に寄せて
社会主義こそが人類を危機から救い出す唯一の道だ


1917年のロシア十月社会主義革命の勝利からまもなく97年目の記念日がめぐってくる。
労働者階級を基盤としているはずの政治潮流においてさえ、もはや顧みられることがなくなってしまった11月7日の記念日を、20世紀の社会主義建設の偉大な成果に思いを馳せながら、その経験を受け継ぎ発展させる決意を新たにする祝賀行事が、今年も世界各地でおこなわれる。われわれもこれらと連なり、来る11月8日、ロシア十月社会主義革命97周年記念「映画上映と報告の集い」を開催する。
社会主義の旗幟を鮮明にすること自体をはばかる支配的風潮に、なかば同調し、なかばやり過ごす振る舞いが常態化してしまった。われわれのような立場は、一見したところ、反時代的な行為と映るかもしれない。だが決してそうではない。そうであってはならない。社会主義の思想と実践をよみがえらせることは、すぐれて時代の要請なのだ。
資本主義の行き詰まりをもっとも敏感に感じとっているのは、実は資本家階級の側であり、かれらの代理人どもである。かれらのあいだで、資本主義の「終焉」やら「長期停滞」やらの、先行きにたいする悲観的な見通しを語る連中が目立つようになっている。苦しまぎれの脱「成長神話」を説く者さえ現われてきた。試されているのは闘う側、労働者と人民の隊列における資本主義認識そのものである。資本主義にたいするラディカル(根源的)な批判意識がすっかり影をひそめてしまった。
資本主義各国は巨額な財政赤字を抱え身動きがとれなくなっている。人口の高齢化で社会保障支出がふくらんだからではない。社会主義に対抗し資本主義体制を維持するための1930年代以来の恐慌封じ込め策、公共事業で人為的な需要をつくりだす需要の先食いと恐慌先送りの政策が、いまや継続不能に陥ったのである。
もう一つの柱、金融政策も、伝統的な手法をすべて使い果たしてしまった。中央銀行が政策金利ゼロ%に踏み込んだ事実は、中央銀行が本来の役割をもはや果たせなくなったことを、みずから白状したに等しい。ましてや「量的緩和」の名のもとに市場に大量の資金をばらまく流行中の政策は、証券や債券、不動産その他、金融投機が主役を演ずる経済構造を温存・加速させることにのみ役立つ。投機による利得獲得に現実的根拠がない以上、それは遠からず破綻する。その兆候はすでに随所に現われている。
この9月、マヌーバーの「経済優先」をふたたび掲げ、安倍改造内閣が発足した。「アベノミクス」は、グローバル市場で暗躍する日本を代表する超一流企業、ひとにぎりの独占資本の「稼ぐ力」(日本再興戦略)を後押しすることがあたかも国民の利益にかなうかのように偽装した、目くらましにほかならなかった。本当はろくに税金を払ってもいない独占資本に、「国際競争力の強化」という錦の御旗をかざし、税負担をさらに免除する。独占資本は国家を食い物にし、肥え太り、そのツケを労働者と人民にしわ寄せする。そして労働者・人民は、いまや生きることさえままならない、「地獄への道」へと引きずり込まれてしまった。
これはなにも日本だけで起きている現象ではない。程度の違いはあれ、資本主義世界で共通に起きていることだ。労働者・人民を徹底的に収奪することによってしか、資本主義はもはや生き延びることができなくなった。
排他的な気分を煽って「外」に敵をつくりだし「国家の危機」を演出すること。それを梃子に体制批判の言論を封殺すること。憲法を破壊し軍事大国化に向かって国家改造をなしとげること。われわれが目のあたりにしている安倍政権下で進行する総がかり的な反動攻勢は、日本資本主義が生き延びるための、必死でギリギリの選択なのだ。「戦争ができる」「戦争をする」国家の矛先は、同時に、国内の、体制に異議を申し立てる労働者・人民にも向けられているのだ。
ソ連・東欧の社会主義体制が倒壊・消滅して23年がたった。現存する社会主義体制の束縛から晴れて“自由の身”となった資本主義は、資本家どもを際限のない利得獲得に駆り立て、金もうけだけを善とする、優勝劣敗の殺伐とした世界を出現させた。社会主義は未来の夢物語ではない。ローザ‐ルクセンブルクの伝説的なスローガン「社会主義か野蛮か」を、われわれはいま、ふたたび高々と掲げる。それが人類を危機から救出する唯一の道であり、理性によって導かれる世界を創造する唯一の道だからである。
【山下勇男】

(『思想運動』945号 2014年10月15日号)