十映画『戦争案内』(2006年、高岩仁監督)
「資本主義は戦争を必要としている」
──極右勢力と闘うにあたっての基本的な武器(ツール)となる映画
今年の十月革命記念集会で上映


高岩仁(1935〜2008)監督の映画『戦争案内』(2006年)は、9年前の十月革命記念集会でも上映した。なぜ今回も上映することにしたのか、と不思議に思われるかもしれないが、理由は簡単明瞭である。極右(ファッショ的)勢力が日本国内でも急速に拡大しようとしている今日に対抗しうるもっとも有効な武器のひとつとなると判断したからである。
映画は、1945年に敗北した大日本帝国が、誕生してから常に東南アジアに利益を求めて武力で侵略していったのと同じように、1945年以降の「新生」日本も、東南アジアに利益を求めていったことを、資料を読み解いて明らかにする。高岩監督は第二次世界大戦敗北後の、日本企業の東南アジアへの「経済進出」を第二の侵略と言い表している。そして「経済進出」を担保しているのが日本の軍事力だと。
なぜなら、われわれの生きる資本主義の社会は、利潤追求が資本にとっての唯一の行動原理であるからで、その果実を得るために暴力の行使を厭わないことは「自由と民主主義」を世界に「布教」するアメリカ合衆国の歴史があざやかに示している。


この映画のタイトル「戦争案内」は、ドイツの劇作家・詩人ベルトルト-ブレヒト(1898〜1956)のフォトグラム『戦争案内』(1955年)へのオマージュから採られている。1933年2月のドイツ国会議事堂放火事件によって権力を掌握したナチスの手を逃れるためにその翌日に亡命したブレヒトが、亡命中に新聞や雑誌から切り抜いていた69枚の写真に簡潔な4行詩を組み合わせたもので、第二次世界大戦を労働者階級の視点で「読み解く」力を身につけ、労働者階級が社会変革の主体として立ち上がるための「教材」としたもの。「戦争はどんな「顔」と「性質」をもち、なにを「餌」として成長するのか? それによって「利益」を得るものはだれか? それを「除去する」ためにはなにを必要とするか?」という問いに自らの答えを見つけ出すようにうながしている。
高岩監督は、ブレヒト『戦争案内』の69番目のヒトラーの写真につけられている次の4行詩の視点を(「教えられなかった戦争」シリーズ以降)自己の制作態度の根幹として生涯持ち続けた。
こいつがあやうく世界を支配しかけた男だ。
人民は この男にうち勝った。だが
あまりあわてて勝利の歓声を あげないでほしい。
この男が這いだしてきた母胎は まだ 生きているのだ。


一読すればわかるように、ブレヒトは、ヒトラーが「這いだしてきた母胎」は資本主義であり、その「母胎」を根絶しない限り、ファシズムは生まれ続けるのだ、と言っている。「生産手段の所有関係」(その私的所有)が暴力なしにはもはや守ることができなくなっている、ととらえている。そこでわれわれはあらためて考えるのだ、21世紀のわれわれの生きている日本で同じように考えることができるのか、と。そのように考えて湾岸戦争以降の「ファクト・チェック」をしてみれば、そしてそれは慎重にかつ丁寧に行なわなければならないが、この見方はみごとに当てはまるのではないのか。

ブレヒトは別のメモに次のように記している、「虚偽が要求され、誤謬がもとめられる時代には、考えるひとは、自分が読んだり、聞いたりしたことを、すべて正しくとらえなおすように努めねばならない」と。
この言葉を紹介した石黒英男は「「考えるひと」は、虚偽をひろめる文章のひとつひとつをたどりながら、「発言者のコンテクストにはおかまいなく、正しい文章を正しくない文章に対置する」ことによって、必要な真実を発見していかなければならない。それはしかし、「ただ欺かれ、惑わされていることを確認するため」だけではない。必要なことは、「虚偽と誤謬の方式にうちかつこと」だ。そこで「戦争ガ必要ダ」、ということばを耳にするなら、「ドンナ状態ノモトデソレハ必要カ、また、誰ノタメニカ」と問いかえすのだ、と。」と展開して解説した。
極右的潮流が日本でも大きな流れとして顕在化してきている今日、このように丁寧な「問い」を自覚的に発する(ぶつける)ことは、今日の右翼的潮流と闘ううえで、大いに役に立つのではないだろうか。


今日、SNSを含むメディアで極右的言辞が沖縄の反基地闘争を誹謗し、中国を主敵とした排外主義的主張をたれ流して人民の俗情を煽り、極右的体質の現政権は反戦や平和を求める発言や行動を処罰・統制する法整備を加速させようとしている。その急速に右傾化する流れに対抗するため、われわれは「ファクト」を対置する。もちろん「ファクト」なしには、われわれの闘いは成立しえない。しかし、われわれは「ファクト」を、かなり以前から叫んでいたのではないのだろうか? デマゴギーと恣意的な世論誘導に対峙して、われわれは「ファクト」を常に対置してきたのではないのだろうか? しかし同時に、われわれは「ファクト」がうまく力を発揮できていない現状をもどかしく思ってきたのではないのか? なにが足りないのか?


先にふれたブレヒトは、1934年、亡命先で、小論「真実を書くにあたっての五つの困難」を書いた。いったんファシズム(ナチズム)に打ち負かされたドイツの労働者階級がもういちどファシズムの嘘(つくりごと)や無知(デタラメ)と闘い、勝利するためにどのように闘うか、という手引書である。「五つの困難」とは、①抑えつけられている真実を書く勇気、②いたるところで隠蔽されている真実を認識する賢明さを持つこと(そのためには唯物弁証法と歴史と経済学が必要だ)、③真実を武器として使いこなせる(役立たせられる)技術、④その手に渡れば真実が有効に働く(力を発揮する)人びとを選びだす判断力、⑤そういう人びとのあいだに真実をひろめる策略を持つこと、である。そしてこの五つは同時に解決しなければならないという。


たとえば高岩監督は、映画『戦争案内』に先立つ映画「教えられなかった戦争」シリーズの中国編で、「三井物産支店長会議録」を古書店で入手(70万円の借金をして!)し、張作霖爆殺を三井物産支店長会議が決めたことを「ファクト」(物証)で明らかにした(『社会評論』183号、金野正晴「資本主義は戦争を必要としている」)。これもブレヒトの提案を実践したひとつの例。この映画を観ることになる当日の集会参加者は、④の「真実を有効に働かせる力を持った人びと」であるだろう。


高岩監督は、この映画を、知識を提供するだけのものにしようとは考えていない。この映画で主張された「ファクト」(真実)を、今日のわれわれの(資本との)闘いに生かしてほしいと思っているのだ。その武器(「ファクト」)は、現在でも、古くなっていないとわたしは思っている。

集会への参加は、参加者一人ひとりが、自覚し、行動を始めるひとつのきっかけにすぎない。だから、その場に、友人・知人そして仲間が、ひとりでも多く参加してほしいと思うのだ。これからの闘いのために、そしてわれわれの未来を切り拓いていくために!

【井野茂雄】
(『思想運動』1118号 2025年11月1日号)