志位和夫『Q&A共産主義と自由』は『資本論』から何を学ぶのか

佐伯文夫(『資本論』読書会)


 日本共産党・志位和夫中央委員会議長による『Q&A共産主義と自由――資本論を導きに』が刊行された。民主青年同盟主催の「学生オンラインゼミ」での講演をまとめたもので、志位は「はじめに」で、「社会主義・共産主義が、『人間の抑圧』『自由の圧殺』などというものとはまったく正反対なもの」であり、「人間の自由」が「豊かに開花する社会だという展望を伝えたい」と語っている。
 では、『Q&A』は『資本論』から、何を、どのように、「導き」として取りだそうとしているのだろうか? 『Q&A』が『資本論』に見出した「自由論」について、マルクスが何を語っているのかを、あらためて確認してみよう。
 そのひとつは、第1巻第1章「商品」の第四節「商品の物神的性格とその秘密」にある、「自由な人々の連合体」、「自由な社会化された連合体」という、未来の共同体的生産についての記述である。
 マルクスはここで、労働の社会的性格、生産者たちの社会的関係について、中世封建社会の人的従属関係による労働生産物の取得・分配形態と対比しつつ、「共同の生産手段で労働し、自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識したひとつの社会的労働力として支出する自由な人々」の連合体を展望し、そこでの社会全体の労働生産物と生産者との関係を語っている。
 マルクスがここで言う自由とは、階級的・身分的関係、人的従属関係から自立した、人間による人間の支配から解放された、などと同義である。個々人の自由な意識、意志の自由などが論じられているわけではない。

「必然性の国」から「真の自由の国」へ

 『Q&A』がつぎに着目するのは、『資本論』第3巻第48章「三位一体定式」にある「必然性の国から自由の国へ」についての記述である。
 マルクスはここで、資本は、社会の高度な形態において、剰余労働を、また物質的労働一般に費やされる時間の制限を可能とさせるような、物質的手段の萌芽を作り出すことを指摘している。そして、社会の現実の富や再生産過程の不断の拡張の可能性は、剰余労働の長さにではなく、その生産性にかかっており、その条件が豊富であるか貧弱であるかが問題であるとして、「じっさい、自由の国は、窮乏や外的な合目的性にせまられての労働するということがなくなったときに、はじめて始まる」と述べている。
 マルクスは、この「自由の国」が「本来の物質的生産の領域のかなたにある」と言い、自由とは「社会化された人間、結合された生産者たちが、盲目的な力によって支配されるように自分たちと自然との物質代謝によって支配されることをやめて、この物質代謝を合理的に規制し自分たちの共同的統制のもとに置くということ」である、さらに「しかし、これはやはりまだ必然性の国である」、「この国のかなたで、自己目的として認められる人間の力の発展が、真の自由の国が、始まる」と述べている。
 マルクスは、資本主義が労働時間の短縮を可能とする技術的な条件を生み出す、としたうえで、それを条件として、労働すなわち物質的生産にとどまらず、人間の活動そのものが外的な合目的性(必然性)から自己目的(真の自由)へと成長することを、未来の共同社会に展望している。マルクスにとって、自由とは、人間の活動が「盲目的な」外的自然からの支配を脱却することである。
 この「自由」と「必然性」の関係は、エンゲルスが『反デューリング論』でつぎのように述べている箇所とそのまま重なり合う。
 「自由は、夢想のうちで自然法則から独立する点にあるのではなく、これらの法則を認識すること、そしてそれによって、これらの諸法則を特定の目的のために計画的に作用させる可能性を得ることである」。「自由とは、自然的必然性の認識にもとづいて、われわれ自身ならびに外的自然を支配することである」。(『反デューリング論』「道徳と法。自由と必然性」)
 エンゲルスは、ヘーゲルは「自由と必然性の関係をはじめて正しく述べた人である」と述べ、「必然性が盲目なのは、それが理解されていないかぎりにおいてのみである」との『小論理学』の一節を紹介している。
 マルクスもエンゲルスも、またヘーゲルにあっても、自由とは、勝手気ままな意志、恣意的な判断などと同一ではない。ヘーゲルは「人間はしばしば意志の自由という言葉を単なる恣意、すなわち偶然性の形式のうちにある意志と解している」と言っている。しかしそれはけっして自由そのものではなく、単に主観的な自由にすぎない、と。自由は、必然と偶然、主観と客観、形式と内容との矛盾する関係においてのみ、存在する。
 『Q&A』にとっての自由は、はたしてこのように把握されたものなのだろうか?

「自由な時間」への収斂

 『Q&A』は、エンゲルスのこの論述にはまったく触れていない。『Q&A』の自由論は、マルクスが必然の国から自由の国へを論じたこの段落の最後の、「それはただかの必然性の国をその基礎としてその上にのみ花を開くことができるのである。労働日の短縮こそは根本条件である」との箇所、しかも末尾の「労働日の短縮」にもっぱらフォーカスし、ほとんどそれを論拠としている。
 『Q&A』は、『資本論』第1巻第8章「労働日」で、マルクスが記述した「人間的教養のための、精神的発達のための、社会的役割を遂行するための、社会的交流のための、肉体的・精神的生命力のための自由な活動のための時間」などを引用しながら、「マルクスが最終的に得た結論は、「労働時間を抜本的に短くする」というたいへんに簡明な真理でした」と結論づけ、「自由に処分できる労働者の時間」こそが「共産主義における自由」であり、「人間の自由で全面的な発達」を保障することだ、と言う。
 たしかに、マルクスは労働日(労働時間)の短縮が、またそれを可能とする技術的発達が、必然性の国から自由の国への「根本条件」だと述べてはいる。だが、それは文字どおり「条件」としてであって、時間を自由に処分することがそのまま自由の内容だ、などとは主張されていない。マルクスにとっての自由は、社会的な生産労働、さらに人間の活動全般のあり方についてであり、「自由な時間」のことではない。
 マルクスは「労働日」の章で、イギリスの労働者階級が労働時間短縮のために工場法の制定と改定を求めて長年闘ってきたこと、標準労働日の確立は「資本家と労働者とのあいだの数世紀にわたる闘争の成果である」として、その経過を詳しく記述している。マルクスは、労働時間の規制、標準労働日の制定は、資本家階級と労働者階級とのあいだの「隠然たる内乱の産物なのである」と言っている。
 労働時間の短縮は、かなたの未来社会での実現を願望するものではなく、眼前にある資本主義社会における、現実の階級闘争の直接の戦場である。それは、先進国の標準的な労働時間から大きくかけ離れ、過労死的長時間労働が蔓延し、さらに労働時間規制撤廃・定額働かせ法案などが議論されているこの日本においてこそ、深刻で切実な喫緊の課題であろう。
 『赤旗』紙上では、『Q&A』を宣伝しながら、「自由な時間がほしい」「労働時間を大幅に短縮しよう」などのアピールが展開されている。しかしそれは、マルクスが展望した「自由の国」での自由とは、直接にはつながっておらず、また、社会的意識としての自由とも重ならない。
 『Q&A』による、自由をもっぱら「自由時間」へと収斂させようとする議論は、自由に関する一般的な議論からは、かなり隔たっているように見える。

商品交換社会とブルジョワ的自由

 今日、自由をめぐる議論は、多くの場合、まずは精神的な自由、意志の自由、個人の自由、あるいは政治的な自由などに関係するものとして展開されている。日本国憲法が保障する、思想信条の自由からはじまる、信教、学問、集会・結社、表現などの一連の自由がそれである。憲法では、さらに居住・移転、職業選択、国籍離脱などの身体的自由も認められている。だが、「国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」はずのこれらの自由は、支配権力によって不断に無力化、無内容化させられている現実がある。
 自由は、あらゆる社会的意識がそうであるように、歴史発展段階の産物であり、特定の社会経済構成体の意識への反映である。社会的意識としての自由は、近代市民革命の直接の結果であり、その後の現代にまで至る歴史的発展を経るなかで、民主主義や平等などとともに、社会に対する一般的な価値観として定着してきた。
 しかし一方で、この市民的=ブルジョワ的価値観は、ブルジョワ的私有財産制、すなわち「搾取の自由」を含みこみ、それを前提として成立している。日本国憲法でも「財産権は、これを侵してはならない」として、とりわけ強く表現されている。
 マルクスは『資本論』第1巻第4章「貨幣の資本への転化」で、ブルジョワ的自由について、つぎのように強い皮肉をこめて、その本質を暴露している。
 「労働力の売買が、その限界のなかで行われる流通または商品交換の部面は、じっさい、天賦の人権のほんとうの楽園だった。ここで支配しているのは、ただ、自由、平等、所有、そしてベンサム(の功利主義)だけである」。
 商品交換社会では、経済的搾取は、自由で平等な契約関係として成立し、契約の当事者双方から解消されうる。労働者は労働力の自由な売り手として登場するが、買い手である資本家から、いつでも自由に契約を解消=解雇されるのである。
 「剰余労働は、資本が等価なしで手に入れるものであり、また、どんなにそれが自由な契約的な合意の結果として現れようとも、その本質から見ればやはり強制労働なのである」(第3巻第48章)。
 未来に展望される共同社会は、このような資本主義的搾取、すなわち資本のための剰余労働、剰余価値の生産が廃絶された後に生まれる社会であり、そこでは商品生産も商品交換も消滅し、さらに「物による支配」を社会的観念とさせるような必然の力、すなわち貨幣の「物神崇拝」も消滅する社会である。

資本主義の最期の鐘を鳴らす

 マルクスは『資本論』「序文」で、「近代社会の経済的運動法則を暴露することがこの著作の最終目的である」と述べ、「第二版あと書き」では「資本主義的生産様式の変革と諸階級の最終的廃止とをその歴史的使命とする階級――プロレタリアート」によって、新たな歴史が切り拓かれることを展望している。
 『資本論』第1巻第24章「いわゆる本源的蓄積」では、資本主義社会が歴史の舞台から退場することの必然性について、つぎのように記述されている。
 「資本独占は、それとともに開花しそれのもとで開花したこの生産様式の桎梏となる。生産手段の集中も労働の社会化も、それがその資本主義的な外皮とは調和できなくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本主義的私有の最期を告げる鐘が鳴る。収奪者が収奪される」。
 マルクスは、さらに、「前には少数の横領者による民衆の収奪が行なわれたのであるが、今度は民衆による少数者の横領者の収奪が行なわれるのである」と述べ、「ブルジョワジーはなによりも自分自身の墓掘人を生産する。ブルジョワジーの没落とプロレタリアートの勝利とは、どちらも避けられない」という『共産党宣言』の一節を、本文の注として加えている。
 『Q&A』では、マルクスのこの部分は触れられていない。資本主義の廃絶とプロレタリアートの勝利について、資本主義の「盲目的な必然性」からの自由、資本主義の最終的廃止とあらゆる階級支配からの解放について、掘り下げた〈Q〉や〈A〉は発せられていない。「アメリカ・財界中心のゆがんだ政治を変える民主主義革命をやりとげる」と述べるにとどまり、「資本主義的私有の最期」をはるかかなたへと追いやることからは、はたして『資本論』から何かを導きにすることができるのだろうか。

(『思想運動』1105号 2024年10月1日号)