国際政治時評現代世界の危機と「革命のアクチュアリティ」(2)
おぞましさの祭典のなかのコミュニストの責任
フランスにおける「新人民戦線」をめぐって

 
 この1、2か月のあいだにも世界中で危機は刻一刻と進行している。身の毛がよだつような言葉を発し、血に飢えた猟犬のような行動に走るファシストたちの行列は、残忍に、また巧妙に、各国の政治情勢をいっそうの野蛮と混迷のなかに叩き落としている。前号で予告したフランスの政治情勢の問題を扱うまえに、日本ファシストの問題も絡めつつ、この間のその動向をおさえておきたい。ファシズム運動台頭の脅威は、それほど差し迫ったものなのである。

ファシストたちのおぞましき行列

 イギリスでは、7月末から8月初頭にかけて、トミー‐ロビンソン(イングランド防衛同盟)やナイジェル‐ファラージ(リフォームUK)といったファシストの指導者たちによって煽動された暴徒が、「反移民」のポグロムを引き起こした。黒い覆面の暴徒たちはナチス式の敬礼をしながら、難民申請中の亡命希望者の住む宿泊施設に放火し、イスラム教徒のモスクを襲撃、図書館や車両を焼き払い、アフリカ系やアジア系の住民が経営する商店を略奪した。各地の暴徒は「イングランド防衛同盟」や「孤独な狼たち」といったファシスト組織のメンバーだったとすでに判明しているが、これは1930年代のドイツではなく、2024年のイギリスの話だ。
 また、アメリカでは、7月の中旬に、ファシストの祭典と化したアメリカ共和党全国大会が開催されていた。登壇者のおぞましい行列には、移民は食人行為をするためにアメリカにやってきていると言う元大統領の人種主義者、壊れたレコードのように反共主義の妄想を語りつづける福音主義の狂信者、中国との戦争のためにロシアとの停戦を求めるペテン師、石油資本のために気候変動の人為起源を否定する詐欺師、COVID‐19否定論や反ワクチン陰謀論でパンデミックへの社会的対応を否定してきた殺人者、ユダヤ陰謀論やQアノン陰謀論の信奉者などが、ずらっと並んでいたのである。ドナルド‐トランプに率いられた「MAGA」(メイク・アメリカ・グレート・アゲイン)時代のアメリカ共和党は、すでにオカルトで埋め尽くされたファシスト政党となっている。
 より重大なのは、共和党ファシストの行列に、ジャクソン‐ヒンクルなど「MAGAコミュニスト」と自称するアメリカのファシストやトランプ支持者たちの新たな詐欺が続いたことである。7月末、パレスチナ絶滅戦争開始以降に見せかけの「反戦」「反帝国主義」のメディア発信を繰り返すことで注目を集めていたヒンクルたちは、「ACP」と称する偽の「アメリカ共産党」(アメリカン・コミュニスト・パーティー)を名乗る組織をつくり、アメリカにおけるマルクス主義の原理的再建に対してまたひとつ新しい障害を設けた。これはある意味で予防的反革命である。ファシストの立ち回りはアメリカではいっそう巧妙であり、「反体制派」の顔をして一部の鈍感な「左翼」をその行列にとりこみつつ台頭する。その鈍感な「左翼」がファシストとともに参加して、2023年2月にワシントンで開催された似非反戦集会「レイジ・アゲインスト・ザ・ウォーマシーン」(ANSWER連合は無関係)は、一見して「反戦派」「反帝国主義者」のように見えるファシストたちの見世物小屋であり、ヒンクルに加えて、対中国戦争のためにロシアとの停戦を訴えるタッカー‐カールソンに、反ユダヤ主義のカルト的指導者であったリンドン‐ラルーシュの信奉者までもが登壇していた。一般にヒンクルは「ロシアのスパイ」と言われているが、その言動の結果はアメリカ国内の反戦運動の混乱であり、それによってアメリカ帝国主義に寄与している。
 大統領選で「第3の候補」と言われるケネディ・ジュニアもまた、こうした疑似「反体制派」の一人である。ケネディ・ジュニアの言動は、ヒトラーまがいの反ユダヤ主義、中国人に対する人種主義的偏見から、「ワクチン接種は人体実験」「パンデミックは偽装された」だとか喧伝する反ワクチン陰謀論・COVID‐19否定論まで、現代のファシスト的言動の見本市のようなものであるが、ファシストの支持のみならず、一部の愚劣で錯乱した偽「反帝国主義左翼」の待望論をも集めているのだ。パンデミックとの闘いでのキューバのヘンリー・リーブ国際医療旅団の貢献は広く知られるが、頭のネジの外れたそのような偽「反帝国主義左翼」は、キューバに先導される現代の反帝国主義運動の敵そのものである。
 ファシストたちのおぞましき行列は、この間もアメリカとイギリスのみならず、世界中で行進を続けている。第二次世界大戦後、表立っては舞台に登場できなかったヨーロッパの古典的なファシストたちもまた、褐色の館からぞろぞろと出てきて、人種主義や陰謀論の看板をあけすけに掲げるこのおぞましき行列を形成しているのである。そこに登場しないようなたぐいのおぞましさは存在しないほどで、差し詰め現代世界はおぞましさの祭典だ。何よりもその帰結は「反革命」である。

日本ファシストとしての参政党の登場

 このおぞましき行列に日本から加わろうとしているのは参政党である。参政党がこの3年間、「反グローバリゼーション」「反新自由主義」のレトリックを、「ユダヤ金融資本家の陰謀」論や「ジョージ‐ソロスの陰謀」論といった反ユダヤ主義のデマゴギーを交えながら展開しつつ勢力を拡大しているのは、日本でも反動イデオロギーの主流が、いわゆる「ネオリベ」と呼ばれるものから次の段階に移りつつあることを示唆する。
 一昨年、東京の新宿区で参政党事務局長の神谷宗幣は、「汗をかいてこういった設営をしてくれている人たちが参政党なんです。この人たちがユダヤ資本の手先になって日本を売る、そんなことをすると思いますか。水道を民営化すると思いますか。嘘をついた自民党や公明党と裏でつながっていると思いますか。見たらわかるでしょ! こういう場にも来ないで一生懸命やっている人たちの思いも聞かないで、嘘ばっかり言っている鬼みたいな連中が日本にはたくさんいるんです!」(2022年6月8日)という演説を行なっていたが、ヒトラー主義的なファシストのデマゴギーそのものだろう。
 参政党の政治学校「DIYスクール」は、ウクライナ戦争について粗製乱造のデマゴギーを書き続ける馬渕睦夫のような反ユダヤ主義的「国際金融資本家の陰謀」論者、反移民・反外国人を掲げるレイシズムのイデオローグ、環境破壊の人為的性格を否認する偽科学者や元官僚、COVID‐19否定論や反ワクチン陰謀論をふりまわすヤブ医者といった、日本ファシスト・イデオローグの巣窟である。
 しかも、もともと反ユダヤ主義的な陰謀論者を部分的にそのうちに抱えてしまっている日本の「反帝国主義的」平和勢力にも、水面下でその一部に参政党への支持が拡がっている事実があり、これは、欧米のファシストと偽「反帝国主義左翼」の結託の日本バージョンである(参政党を含む極右主導で5月末に開催された「反WHOデモ」には「左翼」からの個人レベルの参加者が一定数あった)。その結託は、平和運動のオカルト化であり、それを解体へと導く動きでしかないのだが。

ユダヤ陰謀論はマルクス主義ではない

 この際、はっきり断っておくが、「ユダヤ金融資本家の陰謀」といった言葉は、ヒトラー主義者の戯言であって、マルクス主義とは何の関係もない。「国際金融資本家の陰謀」という言葉も同様である。現在の危機を解明する鍵にもなることとして、『資本論』第3巻でマルクスは「近代政治経済のもっとも重要な法則」、つまり資本の有機的構成の増大に伴う「利潤率の傾向的低下の法則」とそれに対して「反対に作用する諸原因」の関係を解明している。ここでマルクスが問題にしているのは資本主義的近代の客観的な構造であって、ファシスト参政党の言うようなジョージ‐ソロスといった個人や「ディープステート」だとかの秘密結社の「陰謀」ではない。マルクスの観点からすれば、資本家があれこれの行動をとるのは資本蓄積の運動法則がそれを要求するからにすぎず、問題は資本主義的生産様式という制度そのものである。
 レーニン、トロツキー、スターリンというロシア革命の指導者がそろって反ユダヤ主義の陰謀論的世界観を「愚か者の社会主義」と非難していた所以であり、徹底して革命の思想を歪めるものとして「反革命」の烙印を押されるべき理由もここに存在する。スターリンは、1931年に「ソ連では、反ユダヤ主義はソ連体制に深く敵対する現象として、法律上もっとも厳格に処罰される」(問い合わせに対するアメリカのユダヤ人通信社への回答、1931年1月12日付)と述べていた。このことは、アウシュヴィッツのあとでは、どれほど強調してもしすぎることはない。
 前号の不足も補うと、現代の危機の根源は、「ユダヤ国際金融資本家ジョージ‐ソロスの陰謀」ではなく、「資本の過剰蓄積」という経済システムの構造的問題にこそある。
 「利潤率の傾向的低下の法則」は、資本主義の発展につれ資本の有機的構成が増大する事実に根ざしている。その増大とは、生産性を高めてより安価に生産しようとする資本家の総支出における不変資本の相対的比重の高まりであり、可変資本の比重が低下することである。ただ、不変資本はすでにもつ価値を継ぐだけで、可変資本のみが剰余価値を生み出すのであり、その比重の低下は、投資された総資本に占める利潤の割合を傾向として減少させていく。これが「利潤率の傾向的低下の法則」であって、その作用は、膨大な失業者とともに、収益性のある生産に投下できない資本の過剰をもたらし、利潤のための生産という資本蓄積の運動を維持不可能にする。
 しかし、他方、この利潤率の傾向的低下に対して、資本の「利用」を再確立する新しい手段を見つけようとする「反対に作用する諸原因」が存在するのである。「グローバリゼーション」や「新自由主義」と呼ばれる資本蓄積方法もまた、「反対に作用する諸原因」のひとつにすぎない。
 だが、こうした諸原因もまた一時的なものであり、ある諸原因が次の段階では不可能になることで、資本蓄積の継続をますます困難にする状況を生みだす。すなわち、資本蓄積のプロセスは一時的に継続されるかもしれないが、しばらくすると資本の「利用」はふたたび不可能になる。蓄積された資本は、その新しい基盤のなかでも過剰になり、拡大を停止するのである。資本蓄積の過程は、以前には通用した「反対に作用する諸原因」が機能しなくなることで円形ではなく螺旋状に進むのであって、より高い次元での激しい危機をもたらす。非資本主義領域ないしは植民地・新植民地への資本輸出を特徴のひとつとする帝国主義的傾向は、利潤率の低下に比例して強化されるものの、しかし、被抑圧民族に対する貧困化には生物学上の限界があり、世界規模での資本主義の膨張にも地球の地理的な限界があるからである。また、この帝国主義的収奪を阻止しようとする人びとの、革命運動や民族解放闘争によるバリケードにも直面するほかない。
 すなわち、資本主義的生産の拡大発展には絶対的な限界が存在する。そこに達したとき、利潤の回復、蓄積の再開、拡大の継続は不可能になる。にもかかわらず、崩壊に向かう資本蓄積の運動が、その衰退をとりつくろい、限界をこえて蓄積を継続しようとするとき、以前のどの危機よりも大規模で、増大する苦しみと犠牲をうみだすのである。いま、ウクライナやパレスチナなど世界中のあらゆる地域で見せつけられている破局の増大は、アメリカを中心とする米・欧・日の帝国主義諸国が、資本蓄積の運動を継続するために行なっている断末魔の足搔きであり、傷を負ったドラゴンのように、その尻尾を地球のあらゆる地域で振り回し、人びとに火を噴きつけている姿なのだ。
 資本主義的近代の客観的構造こそが「野蛮への逆転」を不可避のものとするがゆえに、わたしたちは必然的に「革命のアクチュアリティ」を確認せざるをえないのである。しかもこの時代にあっては、「社会主義への移行か、野蛮への逆転か」(ローザ‐ルクセンブルク)という選択肢における「野蛮への逆転」は、原水爆実験後の革命運動・反戦運動のなかでたえず確認されてきたように、地上のあらゆる生命の絶滅として実現せざるをえないのである。この現在の危機を避けて通ることは、もはや地上のどんな片隅でも認められていない。
 しかし、ユダヤ陰謀論者のファシストも、そのファシストと結託する偽「反帝国主義左翼」も、陰謀論的世界観によって危機の根源を誤認させ、世界の社会主義革命運動・反帝国主義運動・平和運動の編成過程を歪め、あるいはみずから資本主義的近代の手足となって、この破局を増大させるのだ。現代世界の革命勢力や反帝勢力、平和勢力は、政治的・イデオロギー的な状況の混迷のなかで、あらゆる形態によるファシズムのまぎれこみをゆるさず、自己の戦線を構築していくという困難な任務を抱えている。レーニンは「革命的理論なくして革命的実践はない」(『何をなすべきか』)と言ったが、反革命的理論から生まれるのは反革命的実践なのであって、ファシストと偽「反帝国主義左翼」の陰謀論的世界観の反革命性を批判しつくし、現代世界の危機に真に対峙する「革命的理論」を運動のなかに創造することは、何よりもコミュニストの責任である。
 いずれにしても、アメリカの「MAGAコミュニスト」と名乗るファシストたちによる偽「アメリカ共産党」結成といったこの数か月の動向は、より困難を増大させた。

フランス国民連合の人種主義的公約

 議会政治でこの数年間で伸張しつづけてきたフランス国民連合もまた、解き放たれたファシストのおぞましき行列の一部を形成している。6月30日と7月7日に開催されたフランス総選挙における国民連合のマニフェストは、マクロン政権との対決を打ち出しているが、それをぎょっとせずに読むのは難しい。
 たとえば、「外国人の強制送還を妨げるすべての適用除外の撤廃」「不法滞在罪の復活」「合法的居住権の撤廃」「州や県による不法移民のすべての正規化の停止」「シェンゲン協定加盟国の移動の自由をヨーロッパ人のみに制限する」といった国民連合の「移民」に関する公約は、端的に人種主義政策の公約である。この人種主義者たちは、フランスにたどりつく難民の多くが、フランスを含む帝国主義が中東やアフリカで展開してきた戦争の犠牲者であることなどは、まったく考えない。
 ユダヤ陰謀論的「反金融資本家」の要素は国民連合の選挙公約では、「不正行為との闘いによってフランスとフランス人からの盗みを阻止する」「フランスの基準に適合しない外国製品の販売に終止符を打つために輸入規制を強化する」「経済力を解放し、企業と労働者を保護し、国家と経済におけるその地位を秩序あるものに戻すことに基づいた政策を再構築する必要がある」という文言に保存されているが、ここにあるのは、国家権力を使って資本主義を秩序あるものに制御してフランス国民のためになるようにしていくことができる、という幻想でもある。資本主義的生産様式そのものが問題にされることはない。「国家を本来の位置に戻し、公共支出を合理化する。2025年の税制法案を手始めに、国の公的機関を合理化する計画を開始する」「公共放送を民営化する」「国家的な優先事項を実施することで、社会支出を削減する」という公約にいたっては、国民連合の言う「反新自由主義」がペテンであり、国民連合のルートがマクロンと同じルートであることを示している。そもそもヒトラーのナチス・ドイツ政権も、あらゆる小市民主義的レトリックを行使しながら、実際にはブリューニングの緊縮政策を引き継いで、鉄鋼、鉱業、造船、銀行といった分野をすべて大資本に対して非国有化=「民営化」したのである。
 また、「グローバルな規模で自国の利益の防衛を保障するために防衛力を大幅に向上させる義務がある」「海と海外領土のための国務省を創設」といった項目は、たびたびNATOやEUを批判してきた国民連合の主張を「反戦」ないしは「反帝国主義」と取り違えるという、一部の「反帝国主義左翼」にも蔓延する幻想を否定するものである。これは、アメリカ帝国主義の世界支配という条件下で米・欧・日ないしは欧・欧のあいだで旧植民地諸国からの剰余を最大化するために、マクロン政権時代を含めアフリカでの「対テロ戦争」を単独で遂行してきたフランス帝国主義の路線の継続にすぎない。

社会党、共産党とメランション

 ただ、国民連合が伸張した欧州議会選挙後に、マクロンが強行して行なわれたフランス総選挙では、「不服従のフランス」を中心に形成された「新人民戦線」が182票を獲得、マクロンの与党連合168票、ルペンの国民連合143票を上回って勝利する結果に終わった。これを日本共産党の機関紙『赤旗』は「マクロン与党に厳しい審判を下すとともに極右内閣誕生の危機を阻止した歴史的選挙」(7月9日号付)と報じる。しかし、新人民戦線は、本当にマクロンとも国民連合とも対峙する勢力なのか、現代資本主義の全般的危機に対峙する現実的意味をもった試みなのか、問われねばならない。
 新人民戦線の中心になっている、フランス社会党から離党したジャン=リュック‐メランションによって2016年に結党された「不服従のフランス」は、左側から「反新自由主義」「反グローバリゼーション」を掲げる勢力として知られる党で、一般的に、伝統的保守主義者や社会民主主義者でもなく、極右やファシストでもない、「オルタナティブ」を提示する左派勢力として注目されてきた。メランションについては肯定的にも否定的にも「社会主義者」と報道されることも多い。
 前号では、外が赤くて中が白い二十日大根のような社会民主主義が、ファシストの台頭を形成する要因のひとつにすぎないことに言及した。メランションが離党したフランス社会党は、その典型である。2012~17年まで大統領も務めた社会党党首のオランドは、2012年に「今日、フランスにはもうコミュニストはいない。左派は経済を自由化し、金融と民営化に市場を解放した。恐れるものはなにもない」とまで語っていた。1980年代のミッテラン政権以来、一応の「反独占民主主義」の旗さえかなぐり捨てたフランス社会党は、みずから新自由主義政策の推進者となり、また、近年のマリへの軍事介入をはじめとする軍事的冒険主義に走ることによって、「パンと平和」を求める人民の要求にさえ眼をそむけつづけてきたのである。だれの眼にとっても、すでに、フランス社会党は、もはや内だけではなく外まで真っ白な二十日大根だった。
 1970年代にユーロコミュニズムへと転回して「プロレタリア独裁」の目標を放棄したフランス共産党もまた、ある種の二十日大根でしかなくなっている。たとえば、フランス共産党には『新しい幸せな日々のためのコミュニストの野望』という綱領があって、そこには180の項目があるものの、現代史総体の変革への全体像を見失い、さまざまな分野の日常的な要求を個別バラバラなカタログとして提出するだけである。「プロレタリア独裁」の放棄は同時に改良主義への転向だった。綱領を読むと、経済に関しては第1項で、「労働を生業とするフランスは、資本と利潤の金融的論理、緊縮政策、過去数十年にわたり勝ちとってきた社会的権利の破壊によって荒廃している」という状況分析を提示しつつ、「公的機関を支配するルールを根本的に変革する必要がある。従業員や市民は、経済的な決定やお金の使い方について発言権をもたなければならない。雇用者と銀行家による経済の独占に終止符をうち、ほかの意志決定基準が優先されるようにすることが急務である」といった提起がある。しかし、ここに回帰するのは、資本主義の運動法則という「原因」がもたらした「結果」(金融的論理、緊縮政策、社会的権利破壊)を荒廃の「原因」ととりちがえる錯誤であり、そのために資本主義的近代が「ルールの変革」で安定した軌道を進みうるという幻想である。また、軍隊の再編成に言及する第177項にも注意が必要で、「とくにフランスの広大な海洋領域の防衛を保障する軍隊を基盤とする」とあるが、これは、植民地解放の論理を否定した第二インターナショナル主流派の政治なのである。
 これに対して、フランス共産党の路線をもはや逆転させられないと最終的に判断したコミュニストたちは、2016年に、「フランス革命的共産党」という前衛党を結成した。ギリシャ共産党や朝鮮労働党とも友好関係にあるが、欧州共産主義アクションでは、「客観的には唯一の可能な代替案として社会主義革命の問題を提起している」党として紹介されている。
 いずれにしても、フランス社会党やフランス共産党のような真っ白な二十日大根政党が、現代世界の政治的・経済的な破局の拡大に対峙するものではないことは言うまでもない。むしろ現代のバーバリズムを補完・増大させるものであって、そもそも社会民主主義者のかつて掲げた「反独占民主主義」でさえ、「社会主義革命を現在、この場所での目標となしえないような反独占民主主義などというものがあるとすれば、それは、独占資本の支配を一国の枠ぐみのなかで『近代化』しうるくらいが限度であって、そのような『近代化』がインターナショナルなひろがりにおいて、いかに残忍で犯罪的なものとなるかは、すでに歴史によって証明されつくされている」(高原宏平「発刊にあたって」、『社会評論』創刊号、1975年)というふうな代物でしかなかったのである。

「不服従のフランス」と新人民戦線

 では、「不服従のフランス」は転向した左翼に対するオルタナティブなのだろうか。残念ながら、否である。「マクロンの政策と決別する綱領」を発表していた新人民戦線もまた事情は変わらない。
 「不服従のフランス」の提示するプログラムを読むと、「剰余利益への恒久的な課税」「投機を抑制するための金融取引への課税の確立」「認可給与の上限の設定」「株主に分配される利益の割合への上限の設定」といった一連の個別的要求の前提になっている、「金融資本主義は人間と生態系を疲弊させる。自然と調和した社会を構築することはこのシステムと決別することを意味する」という情勢認識には、フランス共産党と同様の原因と結果のとりちがえがある。ここでメランションが批判するいわゆる「金融資本主義」と呼ばれる過剰資本の「利用」(1980年代以降の投機的な国際金融取引の拡大)は、資本主義の危機という原因の結果であって、けっして原因ではない。にもかかわらず、両者をとりちがえることで実質的に「本来の資本主義」を擁護するという内容になっているのである。
 レーニンは『帝国主義論』で「資本主義が資本主義であるかぎり、過剰資本は、その国の大衆の生活水準をひきあげることにはもちいられないで――なぜなら、そうすれば資本家の利潤は下がるから――、国外へ、後進諸国へ資本を輸出することによって利潤を高めることに用いられるであろう」と指摘しているが、必要の充足ではなく利潤の獲得に規定された資本主義的生産様式のなかでは、過剰資本は大衆の生活水準を引き上げることには用いられないのである。せいぜいメランションにあるのは、「ブルジョワ国家が階級を超越して存在し、一般的利益の保証人であり、社会で紛争が起こった場合の『裁定者』ないしは救済機関とする謎めいた考えかた」(フランス革命的共産党「2024年総選挙の分析」、7月11日付)を前提にする、古典的な社会民主主義にすぎない。以前、1920~30年代のドイツについて、「国家権力をつかって資本主義的生産様式を統御し、国民のためになるようにしていくことができる、資本主義の内部でも『計画された』社会主義を実現することができる、『ボルシェヴィキ革命』によらなくてもそれはできる、というのが社会民主主義のイデオロギーであった。この『社会主義』デマゴギーは、すでにヒトラーのそれと瓜二つではないだろうか。ナチスはこれと同じデマゴギーをつかってブリューニングの飢餓政策を助けながら労働者階級をたぶらかした」(林功三「全般的危機の深化と歴史の教訓」、『社会評論』創刊号、1975年)と指摘されているが、これは、社会民主主義を「不服従のフランス」、ブリューニングをマクロン、ナチスを国民連合に入れ替えれば、おおよそ現代のフランスの政治構図にもあてはまる。
 「世界の秩序」という項目でも、メランションはフランス帝国主義の路線の継続以上のものは提示していない。「わが国の外交の幅を狭め、わが国の立場を疎外するものである」というNATO批判も、上に指摘したルペンの方針と同質である。「新人民戦線」を最初に呼びかけた「不服従のフランス」の幹部フランソワ‐ルフィンは『ル・モンド』紙に、「まずは単純に、わが国の戦争産業を強化することから始めよう。ヨーロッパは、武器、大砲、戦闘機、あらゆる兵器、資材、技術の主権をとりもどさねばなりません。もはやアメリカに頼るべきではないです。そして、そのための手段をみずから持たないといけません」と発言していたが、「不服従のフランス」には過剰資本のはけ口のひとつであるミリタニズムとの対決の視点がすっぽり抜け落ち、むしろそれを推進する側に回ろうとしている。
 新人民戦線の公約の平和に関する項目では、ウクライナに関して「必要な兵器の提供」と「原子力発電所を守るための平和維持軍の派遣」が掲げられている。しかし、現在のウクライナ戦争は、資本の投下先を見つけられない米欧日帝国主義列強が、ウクライナに対する「レジームチェンジ」の強行によって引き起こした事態であり、フランス帝国主義の利潤追求もこの戦争に責任がある。現存する生産関係の枠内における過剰資本の自国内での活用という、「反金融資本主義」の幻想にひたる新人民戦線は、ウクライナへのフランス軍派兵が、剰余移転を最大化しようとする米・欧・日および欧・欧の競争のなかでもつ客観的な意味に沈黙している。
 そもそも忘れるべきでないのは、いかなる意味でも新人民戦線は平和のための勢力ではないという事実である。社会党、フランス共産党、エコロジスト党、反資本主義新党は、アフガニスタン、リビア、シリア、マリでのフランス帝国主義の新植民地主義戦争を実行・支持してきた勢力なのだ。パレスチナ絶滅戦争に関しても新人民戦線は「パレスチナの指導者とネタニヤフ政権に対する国際刑事裁判所の訴追を支援する」といった寝ぼけた約束しかしていない。新人民戦線によってパレスチナの事態は「ジェノサイドの危険性」と表現されているが、それはすでに「危険性」ではなく現実なのである。新人民戦線にみるべきは、左翼の勝利ではなく、左翼の思想的荒廃だろう。
 もちろん、新人民戦線は、パレスチナ連帯運動に加わるフランスの左翼的な人民諸階層の支持・運動を土台としており、そうした人民諸階層が、選挙戦での勝利にもかかわらず、すでにマクロンに屈従しつつあるメランションたちのたどる路線を許容する保証はどこにもない。「不服従のフランス」は、フランス社会党、フランス共産党、フランス労働総同盟といった日和見主義の官僚組織との同盟、そしてマクロンとの野合に、欧州議会選挙の結果を受けて反ファシズム闘争に立ち上がった人民のエネルギーを簒奪しただけだったのである。
 また、2018年に「黄色いベスト」運動を孤立させた諸々の官僚組織は、すでに労働者階級の大部分から見捨てられており、今回の総選挙でも労働者階級はとくに地方で、国民連合への投票に向かった(労働者階級の第一党は棄権・白紙・無効票だった)。
 ギリシャ共産党のディミトリー‐コーツォンパス書記長が総選挙後に指摘したように、フランス社会党なども含む「反ファシズム統一戦線」は、右傾化の「新たな悪循環」を生み出すだけだと言うほかない。これにはジョセフ‐キショア全国書記が大統領選に出馬する、第四インター国際委員会のアメリカ社会主義平等党も同じ意見をもっている。

コミュニストの再統一こそ希望への道

 以上から理解すべきは、新しさの衣をまとった古い社会民主主義者と党派性を失ったコミュニストの同盟も、先に述べたファシストと偽「反帝国主義左翼」の結託も、現代の危機や野蛮に対峙しうる道ではなく、それを補完するにすぎないということである。
 同様の茶番劇のような政治構造は、現在の日本でもできあがりつつある。コミュニストや反帝国主義的平和勢力は、前者と後者のいずれの側に呑みこまれるにせよ、その党派性を茶番のなかに埋没させられ、独自の政治勢力たりえていない。そして、その埋没を拒否すれば、「セクト主義」の謗りを受けるのである。
 たしかにフランス革命的共産党のような独自路線も、いまのところ、どの先進資本主義諸国でも成功していない。しかし、それは、コミュニストが独自路線をとるがゆえの困難なのではなく、コミュニストがバラバラに独自路線をとるがゆえの困難なのである。
 これに対して、希望は、全世界的なコミュニストの再統一による政治勢力の再編以外ありえない。国際共産主義運動の異なる潮流に属するギリシャ共産党とアメリカ社会主義平等党が、等しく「革命のアクチュアリティ」を確信するがゆえに新人民戦線を同一の観点から批判するといったところに、手がかりはあるはずだ。当然、この再統一は、スターリン評価の相違をはじめ、一筋縄ではいかないだろう。しかも、相互に論戦があればまだいいのだが、世界でも日本でも、それぞれがバラバラに党勢拡大を図るなかで、コミュニストの運動はかつてないほどの「タコツボ」状態に陥っている。しかし、それでも、共通の基盤がないわけではない。それは、「社会主義への移行か、野蛮への逆転か」という「革命のアクチュアリティ」への確信なのである。これを基軸にしてあらゆる政治屋的発想を排したコミュニストの理論的対話=対決を進めよう。希望はそこにある。

杉林佑樹】
(『思想運動』1104号 2024年9月1日号)