『花岡ものがたり』の朗読参加者で大館市の「6・30行動」に参加
花岡事件の地に立って
中国人殉難者慰霊式などに参加して
首藤滋

 『花岡ものがたり』のスライドと朗読のチームに声をかけられるまで、わたしは「花岡」の地名を知らなかった。スライドと朗読の上演は昨年11月4日のロシア革命106周年記念集会(東京)で行なわれ、わたしはスタッフ補助として参加した。資料から6月30日の慰霊式のことを知り、フィールドワークもあると読んだ。できればそれに参加し、事件についてより深く知りたい、と話していた。「6・30行動実行委員会」(実行委)が組織されていることが伝わり、チームのうち6名が大館に向かった。
 6月29日、わたしはバスを「市立病院」で降りて、大館労働福祉会館に向かった。長木川が東から西に流れている。日差しが強い。「6・30行動」は「6・30フォーラムin大館」から始まる。(村上さんの報告参照)
 実行委手配のマイクロバス2号車はJR大館駅からほぼ真北、はじめは旧小坂鉄道花岡線に沿った道に従って花岡町に入り、花岡川を横切って北上する。駅から5kmほど、長森地区の山のさきに北西にむけて緑深い谷が開けている。

6月30日 慰霊式
 
 その市営十瀬野公園墓地の入り口に大きな石碑が立てられている。その面には「中國殉難烈士慰霊之碑」と彫られている。周辺がきれいに清掃されている。受付で「式次第」(参列者名簿、席順表)を受け取る。碑の正面に白い大型テントがいくつも張られ、折りたたみ椅子が並べられている。白シャツ、黒のスラックス、スカート姿の若い男女スタッフが言葉をかけ合い、動き回っている。わたしたちは「平和団体関係者」席についた。開始時刻前にスタッフを除く約200名が椅子に腰を下ろした。
 9時30分、大館市長が「殉難者名簿」を奉納、全員起立黙祷のうえ、市長が式辞をのべた。「…たとえ長い年月が経過しようとも事件を決して風化させず後世に語り継いでゆくことこそがわたしたち大館市民の重要な使命であります…」との言葉が心に残った。ついで秋田県知事代理、中国大使館公使らの「慰霊のことば」がのべられた。遺族を代表した周張明氏(花岡受難者聯誼会)の「…平和を愛する大館市民が『花岡暴動』の6月30日を平和の日と定め…厳粛な追悼儀式を挙行し、死難せる中国烈士を供養することを忘れません。」しかし「捕虜・労働者強制連行の首魁たる日本政府は、一貫して歴史を顧みず謝罪・賠償を拒んでいます。これこそわたしたち受難者及び遺族への二次被害であります…」と謝罪・賠償を拒む日本政府への「強烈な抗議を表明」したことを確認しなければならない。
 参列者名簿には、秋田県知事代理、中国大使館公使以下3名、衆参両議員等々のなかで、大館市議会議長以下、定員26現議席数24のうち21名が出席している。李政美さんの哀調あふれる歌声が流れる。長年、慰霊式と一体となった演奏だ。遺族と市議会議長による献水ののち、参列者から献花がなされた。わたしたちも大輪の白菊を献じて碑に一礼した。
 厳粛な儀式の式場をあとにして歩きつつ、わたしは、大館市が花岡で生まれた歴史上の悲劇をよく知り、その悲劇を生んだ戦争の本質を深く理解し、内外の人びととともに市自身がそれを乗り越えようという強い意志を感じた。
 式後、碑前で中国人参列者が大判の模擬紙幣を燃やす「冥幣」を行なった。短時間ではあったが、かれらが母国の葬礼の風習で気持ちを安らかにすることが察せられた。
のちのフィールドワークでもう一度この碑に戻った。碑の裏面には殉難者429名(鹿島組花岡419名と同和鉱業10名)の氏名が刻まれていた。
 1942年11月の(東條英機総理大臣、岸信介商工大臣ら)閣議決定「華人労務者内地移入ニ関スル件」、1944年の「華人労務者内地移入ノ促進ニ関する件」などにもとづいて、中国人の俘虜また拉致連行された人々が国内135か所の炭坑、鉱山、土木工事などの労働現場に送られた。これは労働力不足に陥った日本企業の要請に基づいて行なわれた帝国主義日本の政策だった。穏やかに流れる花岡川をながめ、橋をわたり、この川こそ俘虜による水路変更で建設されたものと、わたしは『花岡ものがたり』のスライドと詞を思い出し、厳しい体罰を受けながら、ツルハシをふるいモッコを担いで働く、貧しい衣服の中国人俘虜たちの姿をそこに見た。

「6・30行動」のフィールドワークから

 バスを降りて再び花岡川をわたる。正面は信正寺である。寺域の裏の林道を登って、本殿の裏に一行は着いた。
 亡くなった俘虜たちの遺体は、鉢巻山などに穴を掘って埋められた。敗戦後、遺体が一部露出していると、朝鮮人労働者がみつけて届け出た、という。GHQは遺体・遺骨の回収を命じた。火葬されて400余の箱に収まった遺骨は信正寺住職が預かることになった。住職の「納骨堂を建てるように」との訴えを無視してきた鹿島組は、1949年10月に中華人民共和国が誕生すると慌てて粗末なセメントの「華人死没者追善供養塔」を建てた。のちに遺骨は中国に返還された。和解が成立した翌年の2001年、鹿島建設は新しい土台と供養塔を立てたが、事件を示す証拠にと、セメントの供養塔もその後ろに並んで建てられている。
 共楽館は、映画や演劇など花岡一帯の一大娯楽施設であった。当時近くに警察署や郵便局もある街のど真ん中。共楽館は解体され、現在体育館になっているが、建物の規模、配置、大きな広場はそのままにあり、その一隅に「共楽館址」碑が建てられていた。
 実行委の方が読み上げてくださった。
 「太平洋戦争中、日本の労働力補給のため、中国から強制連行された中国人は約4万名に達する。そのうち同和鉱業花岡の下請け鹿島組に配されたのは986名で、うち7名は輸送途中で死亡している。その人々は姥沢の中山寮に向けられ、酷しい監視の下に、苛酷な労働と劣悪な生活条件のため続々と死者が出た。1945年6月30日夜生き残った約800名が、人間の尊厳を守り、日本軍国主義に一矢を酬いようと一斉蜂起し、獅子ケ森に拠った。日本の憲兵、警察、在郷軍人会、警防団等に包囲され、激しい戦闘の後ほとんど全員捕えられ、共楽館のこの庭に繋がれ、炎天の下三晩食も水も与えられず拷問取り調べを受け、次々と斃れた。7月の死者100名と記されているが、その悲惨は言語に絶するものがあった。今日、日中友好平和条約が結ばれたが、われわれはかつてのこの事実を忘れず、両民族不再戦友好の誓を新たにしなければならない。1980年3月」
 最後に向かったのが花岡平和記念館である。館長は実行委の委員長川田繁幸氏。ここには花岡の歴史写真、共楽館での拷問などが描かれた志村都作墨描「花岡蜂起時三日三晩の暴虐を忘れるな」などがあった。わたしがひとつ特記したいのは、幅5㎝長さ10㎝位の陶製の銘板であった。殉難者986名全員の名前、出身地、没年齢が彫られてあった。一つの陶板はいう「悼 河北・邱 張蘭成 二三歳 1945・4」。986名その一人ひとりに人生があった。それを考えさせる作品に感銘を受けた。作者は朝露館の関谷興仁氏であった。
 実行委の方々には、本当にお世話になった。数軒のホテルから3台のマイクロバスによる送迎、フィールドワークに出る3隊を混み合うことなく移動させるその手腕に感心しきり。各所でのまたバス内の実行委の方々の解説は、整然また周到であった。繰り出される質問に丁寧に答えていただいた。「6・30行動」のいまの形に、長年の活動で討論を通じて鍛えられたことをわたしたちは推し量る。その道は決して平坦なものではなく、反対、疑問が長く多く生まれてきたであろう。それを乗り越えて、自信をもって語る実行委の皆さんに、実に多くのことを学んだ。深い感動と感謝の念で、わたしたち6人は車で、深夜バスで、鉄道でとそれぞれの道程で大館を後にした。

(『思想運動』1103号 2024年8月1日号)