国際政治時評(1)
現代世界の危機と「革命のアクチュアリティ」

欧米の極右・ファシスト台頭をどうとらえるか

 西ヨーロッパおよび北アメリカで進む極右・ファシスト勢力の台頭、アメリカ大統領選挙戦におけるトランプ銃撃事件、いっこうに停戦の目途がつかない東欧のウクライナ戦争、朝鮮・中国を軍事包囲するアジア版NATOの形成、シオニスト国家によるパレスチナ絶滅戦争、ニジェールなど西アフリカ諸国における反帝人民政権の成立、東アフリカ・ケニアで展開されるコミュニストへの最近の弾圧、革命と反革命が複雑に入り組んだラテンアメリカの状態――、こうした一連の事態に象徴される、核戦争への転化の危険をもはらみつつ深化する現代世界の危機をいかにとらえるべきだろうか。
 それは、一言にしていえば、アメリカ帝国主義を中心とする帝国主義諸国の世界支配の崩壊過程での諸矛盾のあらわれであり、この帝国主義的近代の終焉を完成すべき現代の国際的な革命運動の戦線の編成過程における諸矛盾のあらわれにほかならない。

現代世界における危機構造の歴史的変遷
 第二次世界大戦後、米欧日の帝国主義列強は、大戦でのダメージが比較的軽微であったアメリカ帝国主義を中心に、共通の利益をもつ貿易協定・多国籍企業・金融機関に有利な政治的・経済的な秩序を拡張するための同盟を結び、世界規模における資本の蓄積・拡大を継続しようとした。もとより「無限の」利潤増大のための利潤の獲得という特徴をもつ資本主義的生産様式は、とりわけ資本独占の段階にあっては、一国では成立しえず、国外における市場獲得や資本輸出なしには存続しえないからである。大戦でのソ連を中心とした世界反ファシズム陣営の勝利は、東欧社会主義世界体制の成立および先進資本主義諸国の革命運動・反戦運動やアジア・アフリカ・ラテンアメリカ各地における植民地解放闘争の高揚を結果したのであり、それは独日伊ファシストの世界支配の野望を打ち砕くのみならず、旧来の帝国主義的支配秩序そのものを根底から揺さぶる革命の潮流を生みだした。これに対して帝国主義側は、その潮流を封じ込める必要に駆られたのである。そのためにとられたのが、独日ファシストをも復権させつつ列強間の軍事同盟関係を構築しながら、さまざまな手段を用いて世界各地に名目上「独立」した傀儡政権を仕立てあげ、その現地代理人をとおして各国人民を弾圧し、資源と労働力の新植民地主義的収奪によって莫大な超過利潤を獲得、「先進国」プロレタリアートに関してはその利潤を分配する「福祉国家」政策で懐柔するという方法だったのだ。
 それでも、朝鮮戦争、ベトナム戦争は革命と反革命の一大決戦だったのであり、ベトナム革命の勝利はこれに産油国のイランやアフガニスタンの革命が続いたことで一時、利潤率の極端な低下をはじめとする危機に世界資本主義を立たせ、帝国主義的な資本の蓄積・拡大に限界をつきつけたかのように見えた。
 ただ、帝国主義諸国は、1980年代以降の債務危機による第三世界の政治的地位の後退に端を発する「グローバリゼーション」と呼ばれる収奪構造の構築、そして「福祉国家」政策の転換および「新自由主義」政策の導入による自国労働者階級の搾取強化の方策でもって、この危機を克服しようとしたのである。そして、何よりもその後のソ連・東欧社会主義世界体制倒壊は、この革命の潮流を逆転させてしまった。以後、ユーゴスラビアの解体からリビアの破壊まで、世界中の社会主義および反帝人民国家は各種の残忍な反革命的干渉を被り、東ヨーロッパ、アフリカ、アジア、ラテンアメリカのほとんどは、帝国主義による「草刈り場」となったのである。そこではまったく公然たる暴力、詐欺、圧迫、略奪が支配した。
 しかし、近年、こうした世界構造は激しい転形の段階に直面している。危機は、転形期の産物なのだ。転形の要因としては主に3つが考えられる。それは、第1に、たえざる拡大のプロセスのなかで逆にみずからの存続の条件である非資本主義的周辺環境を食いつぶしていく資本主義的生産様式そのものの本質的矛盾であり、第2に、旧植民地諸国の旧宗主国を上回る規模での経済成長に伴う植民地超過利潤の解体傾向であり、第3に、帝国主義の干渉戦争を跳ね返しつつあるシリア人民の抵抗、西アフリカにおける反帝人民革命の進展、ラテンアメリカの親キューバ的な政権の複数成立とその連携強化、朝鮮における「反帝共同行動」的路線の鮮明化をはじめとする、反帝人民運動の全体的な再生である。現代には、第1の資本主義的生産様式に内在する本質的な矛盾が、第2、第3の要因にも規定されつつ、いっそう資本の蓄積・拡大の限界に突きあたらせ、アメリカ帝国主義を中心とする世界支配を崩壊に向かわせているという傾向が認められるのである。

「革命のアクチュアリティ」とはなにか

 現在、世界中のあちこちで生起している一連の事態に見るべきは、アメリカ帝国主義とその日本を含む同盟帝国主義諸国が世界支配の限界につきあたって不可避的な崩壊にさらされるなかで、資本主義的蓄積の継続のために、軍事的優位性を梃子にした断末魔の足掻きを行ない国際的な規模で経済的・政治的な破局を増大させている姿なのであり、その過程におけるバーバリズムの発露である。一つひとつの木は森のなかにあるのであって、あらゆる個別的事象はこの全体構造との関連で位置づけられ把握されなければならない。そして、何よりも大切なのは、資本主義固有の論理に由来するこの崩壊過程を「革命のアクチュアリティ」との不可分の結びつきにおいてとらえることである。現在の崩壊過程を自然のいとなみにゆだねることはバーバリズムの勝利しかもたらさない。
 ここで一世紀前に発せられながら一世紀前以上にその現実性を増しているローザ‐ルクセンブルクの次の言葉を思い起こすべきだろう、――「エンゲルスはかつて述べた。ブルジョワ社会は、社会主義への移行か、それとも野蛮状態への逆転かというジレンマに直面している、と。……おそらくわれわれはみなこの言葉の恐るべき深刻さを予感すらせずに、この言葉を何気なく読みすごし、何の考えもなしにくりかえしてきた。しかし、現在の瞬間、われわれの周囲を見渡せば、ブルジョワ社会の野蛮への逆転が何を意味するかは明らかである。……エンゲルスが一世代前、40年前に予言したような選択をこんにちのわれわれは迫られているのである。すなわち、帝国主義の勝利、つまり古代ローマにおけるごときあらゆる文化の破壊、人口絶滅、荒廃、退化、巨大な共同墓地か、それとも社会主義の勝利、つまり帝国主義とその手段である戦争に対する国際プロレタリアートの意識的な闘争か、という選択である。これは、世界史のジレンマであり、岐路であって、その天秤は階級意識をもったプロレタリアートの決断をまえにして揺れ動いている。文化と人類の未来は、プロレタリアートが猛々しい決意をもってその革命的なたたかいの剣を天秤に投げ入れるかどうかにかかっているのだ」(『ユニウスの小冊子』、1916年)。
 このローザの言葉に張りつめているのは「革命のアクチュアリティ」への確信である。「革命のアクチュアリティ」は、客観的には、あらゆる文明の成果を破壊しつくしかねない現代世界の危機構造にこそ由来する。資本主義下での利潤の分配関係ではなく、資本の蓄積・拡大の条件となる生産手段の私的所有という生産関係そのものの変革を志向する社会主義革命への要請は、単なる革命的決意の問題ではなく、資本主義的制度の維持不可能性の産物なのだ。つまり、「ブルジョワジーがこのたたかいに勝利を収めるか敗北を喫するか、そのいずれにせよ、ブルジョワジーはその発展の流れのなかで致命的な様相をおびてきた内的矛盾によって、すでに没落を定められているのである。問題はただ、かれらがみずから破滅するか、プロレタリアートによって破滅させられるか、ということだけだ。3000年にわたる文化の発展が存続するか、あるいは断ち切られてしまうかも、この問いに対する答えによって決定される。真の政治家は、つねに時機を考えるものである。もしも、ブルジョワジーの排除が、この経済的、技術的発展のなかのある程度まで予想しうる一定の地点までに実現しなければ、すべては手遅れである。火がダイナマイトに達するまでに、燃えている火縄をひきちぎらねばならない」(ヴァルター‐ベンヤミン『一方通行路』、1928年)。資本主義が、その内的矛盾から崩壊に至ることもなく、その崩壊への足掻きが全人類をひとまとめに死刑にしてしまうようなバーバリズムを招くこともなく、無限に拡大し延長していくであろう、というベルンシュタイン流の改良主義にあるような非現実的想定にひたることはできないのである。当然、それは第三世界諸国も同様で、資本主義的発展はその現実的条件を先行者がほとんど食いつぶしている以上、早々に行き詰るほかなく、必然的に別の発展形態を求めざるをえない。
 しかし、より重要なのは、アメリカ・西ヨーロッパ・日本のプロレタリアートおよび人民諸階層が、自国帝国主義の断末魔の足掻きによる現代世界全体の破局の増大をまえにしていかなる針路をとるか、そもそもコミュニストが「社会主義への移行か、野蛮への逆転か」という現代史の中心課題をとらえて「社会主義への移行」というもう一つの天秤の皿を支えつつ人民のまえに提示しえているか、という点にあるだろう。第三世界の諸国にいかなる発展が可能であるかも、これらの問いへの答えにかかっているといっていい。現存社会主義国家を含めてそこに理念と現実の深刻な不一致があるのだとしても、それは、「ロシアで起こっているいっさいの出来事は理解のつくものであって、ドイツ・プロレタリアートの無気力とドイツ帝国主義によるロシアの占領とを出発点および終着点とする原因結果の不可避的連鎖である」(『ロシア革命論』、1918年)というローザの言葉にかつてあらわされたような、真に世界革命の観点に徹する革命運動の意識からとらえてゆく必要がある。
 「革命のアクチュアリティ」は、客観的なものであると同時に主観的につかみとらねばならないものであり、客観的情勢に対する先進資本主義諸国プロレタリアートの主観的情勢の関係が問われねばならない。そこで、この時評では、欧米の政治情勢を中心にとりあげ、現代の「先進国革命」の課題を照らしだすとともに、そこから日本のコミュニズム運動の展望をもとらえかえしていきたい。

極右ファシスト勢力台頭との対決の視点

 北アメリカおよび西ヨーロッパにおける極右・ファシスト勢力(トランプのアメリカ共和党、イギリスのリフォームUK、ルペンのフランス国民連合、「ドイツのための選択肢」、スペインのVOX、メローニの「イタリアの同胞」、オランダ自由党、ポルトガルのシエーダ)の台頭は、ベトナム革命後の1970年代後半以降に生じた交易条件の変化に伴う超過利潤の低下によって導入され、1990年代のソ連倒壊以後にいっそう強化された「新自由主義」政策によって没落(いわゆる「中間層」幻想の解体)に瀕した先進資本主義諸国における大衆の不満のエネルギーを、極右・ファシスト勢力が吸収しつつあることの徴候である。現在、その不満は、社会的所得総体の労働所得ではなくブルジョワジーの資本所得への極端に不平等な分割を「1%と99%の格差」と表現する大衆意識、あるいは新自由主義イデオロギー攻勢下で「企業家」意識をもたされながらその「1%」になりえなかった賃労働者の一定層の意識に広範にあらわれており、極右・ファシスト勢力は、そうした不満を「反新自由主義」「反グローバリゼーション」「反エスタブリッシュメント」といった半面の真理の要素をもつ宣伝、あるいは「移民」を標的にする完全なデマゴギーによって回収しようとしている。とくに西ヨーロッパでは、「新自由主義」政策がユーゴスラビアなどへの軍事介入主義を伴いつつ、ブレアのイギリス労働党やシュレーダーのドイツ社会民主党といった諸々の社会民主主義政党によって推進されたこともあって、社会民主主義者の瞞着に対する、「パンと平和」を願う人びとのそれ自体は非常に正当な不満を、「人民の側に立つ」という外観をまとった極右・ファシスト勢力が吸収しつくそうとしているのである。
 もちろん、極右・ファシストに現実的代替案があるわけではない。たとえば2016~20年に政権を握ったトランプは、「反新自由主義」「反グローバリゼーション」「反エスタブリッシュメント」、あるいは一見して共和党ネオコンや民主党リベラルの軍事介入政策に対立するかのような「戦争反対」の言辞を駆使しながらも、中東諸国に対する爆撃をますます激化させると同時に自国の労働者階級に対する締め上げをより強化したのである。もしトランプのような極右・ファシストによる「反新自由主義」政策が実現するとしても、国際的な拡がりにおいていっそう残忍な収奪をくりひろげつつ帝国主義ブルジョワジーが手にする植民地超過利潤を「分配」するというかたちでしか実現しないだろう。シリアでの石油略奪を自慢していたのは、ほかならぬトランプである。その立場は、ある意味で、第二次世界大戦後の新植民地主義的な繁栄からの没落を受け入れられないという以上の意味をもたない「先進国」全体に蔓延するノスタルジー的「不満」にも見合っているのだが。加えて「反グローバリゼーション」宣伝に人種差別的「反移民」のデマゴギーが伴うのにいたっては、まさにグローバリゼーションの完全な犠牲者である世界中の難民を標的にする以上、欺瞞以外の何ものでもない。極右・ファシストはけっして帝国主義的近代の終焉を完成するものではなく、伝統的保守主義者や社会民主主義者に代わる現体制の予備軍として、崩壊の危機をまえにますます狂暴になる帝国主義的近代の側に、人びとの不定形な不満のエネルギーをペテンにかけて回収するだけである。
 しかし、問題は、現代の左派が、何にしても現体制への不満の発露としては認めなければならない先進資本主義諸国の大衆の右傾化へのエネルギーを、「過去への回帰」ではないオルタナティブを提示しつつ真の現状変革のエネルギーに転じる方向をもちえているのかどうか、あるいは、その運動が現代史の総連関の把握に基づいて「社会主義への移行か、野蛮への逆転か」という現代の根本課題を担うものたりえているのかどうか、にあるだろう。こんにちのコミュニストが新しい野蛮への逆転の道を遮断しうるかどうかはそこにかかっているのであって、いかなるものであっても大衆の自然発生的な不満のエネルギーをとらえてこれに方向性を与えられないような現状変革の運動は現状変革の運動として成立しえず、また、現代の世界資本主義の危機そのものに対峙できないようないかなる左派運動も現実的意味をもちえないのである。もしコミュニストが現代の諸矛盾のなかから抜けだす道をあざやかに提示しえないようであれば、外が赤くて中が白い二十日大根のような社会民主主義の中身を知る人びとは、褐色の、新品のペテン師どものあとへと続くだろう。
 こうした観点からみたときに、「マクロン与党に厳しい審判を下すとともに、極右内閣誕生の危機を阻止した歴史的選挙」(『赤旗』7月9日号)に勝利したと言われる、フランス新人民戦線をどのようにみるべきであろうか。(以下次号)

杉林佑樹】
(『思想運動』1103号 2024年8月1日号)