都知事選に何を見るか
未来は現在のなかにしか芽生えない

小池3選はなぜ

 都知事選の前、自民党の「裏金事件」を追い風にして、立憲は4月の衆院3補欠選挙、5月の静岡県知事選などで連勝し、反自民の勢いが目に見えていた。都知事選では現職に新人が勝った先例がない。自公が支援する現職の小池が続けて負ければ、やりたい放題の現状に一石を投じることになるかもしれないという期待もあった。
 7月7日の投開票の結果は、現職の小池百合子(71)が約291万票で3選。前広島県安芸高田市長の石丸伸二(41)が約165万票で2位、元参院議員の蓮舫(56)が約128万票で3位と大方の予想を裏切った。新聞社などの調査では、無党派層の4割が小池、3割が石丸、2割弱が蓮舫にそれぞれ投票したという。しかし、小池都政を「あまり評価しない」「まったく評価しない」と答えた人の4割弱が石丸に投票したというから、「小池都政をリセットする」と主張した蓮舫と合わせれば、現状に不満を持つ反自公・反小池の票を集めて小池を落とせるという当初の読みは、あながち間違ってはいなかった。何が起こったかといえば、単純な話で石丸が出て反小池票を割ることで、小池の3選が作り出されたのだ。

若年世代の顔

 新聞各社の都知事選分析は石丸の得票に、とりわけ若年層(20代、30代)の投票行動に集中している。今後の10年、20年の期間で展望を持とうとするならば、われわれも若年層の置かれている状況を把握しないわけにはいかない。
 ある出口調査によると、30歳未満の若者の4割以上が石丸に票を投じたという。それはなぜか。
 今の若年層のもっとも切実な関心事は、将来不安の大きい日本社会で、いかに稼いで暮らしていくかである。変化の激しいこれからの社会を「生きる力」(1996年中教審答申)を身につけろ、さもなければ生きていけないぞと小学生の頃から脅され、それが親や教師の「期待」となって背負わされてきた。首都圏では多くの子どもが小学生から受験競争に晒されている。「1軍・2軍」「陽キャ・陰キャ」という差別が当たり前に口にのぼり、それが将来の「勝ち組・負け組」を裏うちする。大学生になっても国家政策で自治活動スペースの撤去や立て看板の禁止など、すでに自主活動は抑圧されている。学生生活は「まじめ化」し、大学のサークル活動まで就活に有利になることが目的となっている。しかも学費は年々上がり続け、多くが卒業までに数百万以上の「奨学金」という名の借金を背負わされている。そのたびに聞かされてきた理屈は「受益者負担」、つまり学習も研究も私的な利益のためだった。「何のために学ぶのか」という自問も、「社会に還元するため」という素朴な正義すらも奪われた。このように人民保護を剥ぎ取られた資本主義社会のなかで「自己責任論」を血肉化するまで浴びせられてきた世代なのである。そんなかれらにとって、格差是正、平等、人権、少子化対策、反戦・平和という訴えは、目下の悩みとは、あまりにかけ離れていて「ささらない」のも当然ではないだろうか。
 しかし、それらの社会的不安と不満の鬱積は社会変革への希求の要素にもなり得る。だからこそ多くの若年層は、「恥を知れ!」と怒鳴りつける石丸の姿を肌身離さず持ち歩くスマホのなかに観て、「既得権益を持つ議員らがふんぞり返る市議会で1人闘うヒーロー」という物語を見出した。合わせて、今の閉塞社会を作り出した現政権の自公も、統一教会だの裏金だのと信用できない。それに真っ向から抵抗できない野党も、真実を伝えない既成メディアもすべてが不信の対象になっている。そこに来て「行動を起こそう」「政治を変えよう」とトリッキーな候補が訴えれば、爽快感と絡まりながら街頭演説ではコンサート会場さながらの歓声が上がり、団扇を振られるのには何の不思議もない。
 そして支配階級は石丸に目をつけた。小池には自民の推薦は出さず、むしろ対立構図さえ演出した。石丸は「完全な無所属」イメージを押し出した。 しかし石丸の選挙を仕切ったのは選挙戦に長けた東京維新の会・事務局長の藤川晋之介、選対本部長は「TOKYO自民党政経塾」塾長代行の小田全宏。自民党政務調査会会長室長などを歴任した田村重信も陣営に加わっていた。このようにして有権者の不満と反小池・反自公の機運を、ビッグデータと熟知した宣伝方法で石丸票として回収することにまんまと成功した。つまり使用される道具は変わってきてはいるが敵階級のポピュリズム戦略に簡単にやられているのである。
しかしこのようなポピュリズムの利用はこれまでも何度となく繰り返されている。たとえば、ホリエモンこと実業家の堀江貴文や、ネット掲示板「2ちゃんねる」(現5ちゃんねる)開設者で「ひろゆき」の名で知られる西村博之においても、大阪の橋下や維新の人気にも、少し前では小林よしのりや百田尚樹でも既存の政治勢力やメディアを攻撃する構図を作り出し、喝采を浴びている。これらが右翼的排外主義的主張に共感しているというよりは、社会的不安と不満を排外主義、ナショナリズム、新自由主義へと向けさせ、爽快感とともにそれらを解消してくれそうなリーダーを求めざるを得ない、そんな不幸な状況の現われなのだ。
 一方でこの状況は鬱積した社会変革への欲求の現われでもあるのだ。
その証拠に排外主義的、新自由主義的な主張を展開する参政党はそれとは相容れないはずの反原発や反ワクチンを全面に出して票を集めている。さらに、それらとは真逆のスタンスである前明石市長の泉房穂が首長権限を逆手に取ったドラスティックな社会保障拡充政策で圧倒的な支持を得てもいる。

ただ「手段」と「旗」を

 ではわれわれも、敵と同様にICTを活用したポピュリズム戦略で対抗することが可能だろうか。都知事選の反省のなかからはそういう声も聞こえてくる。しかし、ポピュリズムでは、民衆がみずからを変革する機会すら作り出すことはできない。強いリーダーの登場と、それによる変革をガチャガチャポンで期待する、「水戸黄門」的な世界を克服することはできはしない。
 若年層は本質的には右翼排外主義でもなければ、新自由主義でもない。ただ、眼の前の不条理をもたらす真の敵と、抵抗のための有効な手立てを見出し得ていないだけなのだ。そしてそんな不幸な現実を許してしまった責任は既存の運動体の指導部が負うところが大きい。とりわけ共産主義・社会主義を標榜する政治組織の責任だ。つまり大衆運動をつくり出し、そのなかで明確な階級闘争の旗を掲げ続けることに最大の力量をそそいでこなかったことの責任である。
 この不幸な現状のなかでわれわれがやるべきことは、みずからの生活と職業を守りながら、階級学説の正確さを確認し続けることである。持たざる者であるわれわれは個人では弱いことの自覚に立って、組織を作り抵抗しないわけにはいかない。そのためには集団的な共通の利害を見出さざるを得ない。組織がなくても、どんな日常のどんな些細なことでもいい、納得のできない現実を目の前にしたら、個人でも発言しよう。それで遠ざかる者もあるが、近づく者も必ずいる。近づいてくる者こそが重要なのだ。そして多数者として、サボタージュやストライキなど、もっとも平和的な実力行使をめざそう。
 そんな大衆運動を作り出せずして、敵のポピュリズムに、勝つことなどできはしない。

【藤原晃
(『思想運動』1103号 2024年8月1日号)