映画時評 『オッペンハイマー』(クリストファー‐ノーラン監督)
原爆開発は物理学者の「原罪」か?


 映画『オッペンハイマー』(クリストファー‐ノーラン監督、米国、2023年、180分)は、原子爆弾を開発・製造するためのマンハッタン計画の一環として原子爆弾の開発を目的としてニューメキシコ州ロスアラモスに創設されたロスアラモス国立研究所の初代所長であったために「原爆の父」と称された理論物理学者ロバート‐オッペンハイマー(1904~67)の「栄光」と「挫折」の物語。3月に発表されたアカデミー賞では作品賞など7部門で受賞、大きな話題となり、題材のせいだろうが、商業紙誌だけでなく、運動紙にも評が掲載されている。お先棒を担ぐことになるのか尻馬に乗るのかわからないが、本稿もそのひとつ。
 第二次大戦後、オッペンハイマーは人類共滅を可能にした原爆の国際管理を主張し、原爆以上の威力を持つ水爆開発に反対したために、米原子力委員会から「追放」(顧問の職を解く)されたのだが、それを不服とするオッペンハイマーの申し立てにより聴聞会が開かれた(1954年、オッペンハイマー裁判と呼ばれる)。映画は、この聴聞会(異端審問)という場でのオッペンハイマーの発言を狂言回しにして、公的立場から蹴落とした側の原子力委員会委員長ルイス‐ストローズ(銀行家)や理論物理学者エドワード‐テラー(1908~2003、「水爆の父」と呼ばれる)たちの断罪発言をからませ、その是非を検証するかのようにオッペンハイマーの半生涯を公聴会での発言のあい間に挿入していく。描かれるのはオッペンハイマーという天才的な理論物理学者が米国の赤狩り(共産主義者と内通しているというレッテル)によって失脚(公職追放)させられた理不尽さ、そして、それにもかかわらず原爆という人類共滅が現実に可能とさせられる兵器を積極的に生みだしたオッペンハイマーに代表される科学者たちの「原罪」。
 映画はオッペンハイマーのよく知られた発言をていねいに拾っている。ロスアラモスで初めて核爆発の実験が成功したときに『今、われは死となれり。世界の破壊者とはなれり』(ヒンズー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』より)という言葉を想起したということ。第二次世界大戦後の米ソの軍事的緊張について、「われわれの状態は、一つのびんの中の二匹のさそりに似ていると言えよう。どちらも相手を殺すことができるが、自分も殺されることを覚悟しなければならない」。核開発を「技術的に甘美」(曲解され水爆開発に賛成と受け取られて物議をかもした)といったことなど、いくつもあった。
 また、広島に原爆が投下されたニュースを聞いたロスアラモスの人びとは歓声をあげたが、その直後、暗然とした気持ちに沈んでいったというエピソードを、わたしはいくつかの本で読んだが、オッペンハイマーはそのときのことを「物理学者は罪を知った」という言葉で表現している。これが「原罪」自覚の契機といわれているものなのだろう。
 だが、映画ではそのような「原罪」をオッペンハイマー個人のこととして描く。バイオリンが奏でる不協和音が通奏低音のようにすべての場面を支配し、主人公の焦燥感・孤立感・孤独を強調する。しかし、なんでもかんでもオッペンハイマー「個人」の問題として描くことには疑問がある。マンハッタン計画は、ナチス・ドイツに先がけて原爆を開発・製造することを至上命題として始まったもの。けれど、ナチス・ドイツが敗北(1945年5月9日)してもマンハッタン計画は中止にならなかった。ファシズムに対する勝利者がファシストになってしまった(1946年から顕在化するレッド・パージを想起せよ)からだが、そのことを理解するためには「敵国」ソ連にも言及しなくてはならない。ところが映画では、1930年代知識人の共産主義との親和性を「はしか」のように扱い、その時期からFBIが思想警察として活動していたことを描くものの、米ソ対立の激化という現代史の背景に切りこむことはない。そうなれば当然にもパグウォッシュ会議につながる科学者たちの考えや行動もオッペンハイマーの「受難」物語の外のことになる。核分裂の実験は、文字通り机上の設備で行なうことができたが、実用化するには当時の金額で2000億ドルがマンハッタン計画に注ぎ込まれている、つまり産軍学が一体となって初めて可能になった一大事業であり、原発の開発・製造の「原罪」を個人にかぶせるのはあまりにもバランスが悪いようにも思う。
 核分裂を人為的に起こすことができるということを物理学者たちが「発見」できたのは、国境を超えたオープンな討論と交流の場があったためだった。そして、そのような場が閉ざされたのは、爆弾(=兵器)に応用(実用化)できると認識されたからで、ただちに関連した論文が発表されなくなり、核分裂に関する知識(科学)は、それぞれの国の権力者たちが抱え込む重要秘密事項に(一夜にして)変貌したからだ。しかし、映画はこのことを指摘しない。
 今日、人類共滅の核兵器はわたしたちの生きている世界に存在しているが、それの開発・製造・使用・廃棄の(支配者たちによる)意思決定プロセスから排他的に除外させられている。それはオッペンハイマーの時代から変わっていない。核を廃絶するためにはこの意思決定プロセスに関われなければならない。この映画は、それの理不尽さとその克服を問題にしていないから賞賛を浴びることができたのではないだろうか。

【井野茂雄】
(『思想運動』1100号 2024年5月1日号)