生誕110年 栗原貞子の詩に寄せて
八月に思い出されるべき反戦詩人

ヒロシマというとき
栗原貞子
 
 
 <ヒロシマ>というとき
 <ああ ヒロシマ>と
 やさしくこたえてくれるだろうか
 <ヒロシマ>といえば<パール・ハーバー>
 <ヒロシマ>といえば<南京虐殺>
 <ヒロシマ>といえば 女や子供を
 壕のなかにとじこめ
 ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
 <ヒロシマ>といえば
 血と炎のこだまが 返って来るのだ

 <ヒロシマ>といえば
 <ああ ヒロシマ>とやさしくは
 返ってこない
 アジアの国々の死者たちや無告の民が
 いっせいに犯されたものの怒りを
 噴き出すのだ
 <ヒロシマ>といえば
 <ああ ヒロシマ>と
 やさしくかえってくるためには
 捨てた筈の武器を ほんとうに
 捨てねばならない
 異国の基地を撤去せねばならない
 その日までヒロシマは
 残酷と不信のにがい都市だ
 私たちは潜在する放射能に
 灼かれるパリアだ

 <ヒロシマ>といえば
 <ああ ヒロシマ>と
 やさしいこたえがかえって来るためには
 わたしたちは
 わたしたちの汚れた手を
 きよめねばならない

〔1091号1面に掲載〕

 本紙今号一面に掲載した「ヒロシマというとき」〔初出は『ヒロシマ・未来風景』、一九七四年。詩作は一九七二年〕の作者・栗原貞子(一九一三~二〇〇五年)は第二次世界大戦後を代表する日本の詩人であり、反原水爆運動やベトナム反戦運動に取り組んだ反核・平和運動家だった。広島県広島市生まれで、一九四五年八月六日の原爆投下に際しては、爆心地から四キロ北の自宅で被爆した。
 生誕一一〇年を迎える現在、栗原のことは一般に、死の支配する原爆の地獄のなかで死とは対照的な新しい生命を産み出す助産師についての詩「生ましめんかな」(初出は一九四五年十一月)の詩人としてしか知られていないが、近い時期の詩でもより重要なのは、「わたしはどんなに美しく装われた戦争からも/みにくい悪鬼の意図を見出す/……聖戦といい正義の戦いというところで/行われているのは何か/殺人。放火。強姦。強盗」(「戦争とは何か」、一九四二年、『黒い卵』所収)というように、第二次世界大戦中に書留めていた大日本帝国の虚偽や非人間性を告発する詩である。大戦中の詩にも見られる徹底した真理への要求、不正義への怒りという姿勢、これこそ六〇年間にわたる栗原の反核・平和運動への取り組みを支えてきたものだろう。この姿勢はベトナム反戦運動にもつながり、それが栗原も長い間そこから自由ではなかった「原爆体験」の個別化・特権化を乗り越え、「ヒロシマ」の前史をすっかり忘れてしまっている「戦後」日本のあり方総体に対する対決にもつながっていく。
 「ヒロシマというとき」で何よりも栗原は被爆者の一人として、広島への原爆投下が、アジア太平洋の何千万、何億もの人びとに比類のない残虐さで襲いかかった大日本帝国の歴史とけっして切り離せないこと、そして、その侵略・植民地支配の過去が清算されていないことを告発しているのだ。「やさしいこたえがかえって来るためには/わたしたちは/わたしたちの汚れた手を/きよめねばならない」という一節の論理においては、過去未清算状況の解決が「被害」の訴えに先行されなければならないものとされており、広島で製造された毒ガスによる虐殺が「ヒロシマ」の日本人の死に先行するというような、歴史上の先後関係も前提されているだろう。
 栗原のこの詩は、「ヒロシマ」から切り離された「ヒロシマ」の前史をシンプルな対置法の力によって突きつけ、抉りだすのである。
 アジア太平洋戦争末期以降、日本人の大多数は厭戦的になったが、それは自分たちの頭にも爆弾が落ちてきたからであって、一九世紀以来続いてきた侵略や植民地支配の歴史を反省したり後悔したりしたからではなかった。「戦後」日本の言う「戦争の反省」なるものは、南京大虐殺にも日本軍性奴隷制度にも触れない自国・自国民中心主義者たちによるただの茶番だった。平和や人道に対する罪という東京裁判の論理も省みられず、一八八四年の旅順大虐殺や一九二三年の関東朝鮮人大虐殺のような一九三一年以前の諸犯罪に至っては完全に視野の外に置かれた。結局、「戦争の反省」は想像に絶する苦しみをアジアの諸人民に与えたことへの「反省」ではなかったのだ。その結果、かつて侵略した朝鮮やベトナムに対するジェノサイド戦争への共犯による「特需経済」の享受があり、原爆の問題に限っても、強制連行・強制労働のために日本に連れてこられ、何重もの被害を被った朝鮮人被爆者の存在が一貫して無視・放置され続けるという残酷な状況が生まれたのである。
 しかし、他方、「ヒロシマというとき」以降の栗原にあっては、日本の侵略・植民地支配、そしてその継続する状態こそが最大の問題なのだ。いくつか詩の例をあげれば、「軍都広島」の変わらぬ現実への皮肉である「ニッポン・ヒロシマ」(『ヒロシマ・未来風景』所収、一九七四年)、ヒノマルの白と赤にアジア諸人民の骨と血を見る「旗」(『ヒロシマというとき』所収、一九七六年)、原爆を経ても壊れなかった朝鮮人差別・部落差別を指摘する「未来はここから始まる」(『未来はここから始まる――ヒロシマ詩集』所収、一九七九年)、「安全」と言いながら東京湾ではなく過去に植民地支配したパラオの海に放射能のゴミを廃棄しようとする日本の侵略者を告発する「ベラウの海の白い貝」(『核時代の童話』所収、一九八二年)、天皇の戦争責任が問われずその権威が復活した状況を批判する「王様の耳はろばの耳」(同上)、朝鮮やベトナムといったかつて日本が侵略したアジアの国々にふたたび死をまき散らす日米軍事同盟を現代のファシスト同盟とする「不沈空母の乗船を拒否しよう」(未刊詩篇として日本現代詩文庫『栗原貞子詩集』所収、一九八四年)といった作品がある。
 毎年、八月六日に広島市、九日に長崎市で読み上げられる「平和宣言」では、三〇年近くにわたりアジア諸国・諸人民への侵略・植民地支配にかかわる問題がまったく言及されない。過去清算をめぐる状況は、清算されるべき過去を無視するどころか抹殺しようとする者たちの跋扈で、より悪化しているのが実情である。
 ここにこそ栗原の詩がいまなおアクチュアリティをもつ理由があるだろう。わたしたちは、栗原がその詩作と反戦運動のなかでそうしてきたように、虚偽に対しては真理を、不正に対しては正義を、そして「ヒロシマ」に対してはその前史を対置し続けるほかない。「戦後」何十年にもわたって続き、いまなお続く暴力は、「ヒロシマ」の前史の忘却による暴力なのだ。


【大村歳一・長崎県出身】
(『思想運動』1091号 2023年8月1日号)