国際婦人デー3・4東京集会 基調報告
わたしたちはどんな社会をめざすのか
たちあがって、変えよう つながって、かちとろう
本藤ひとみ(集会実行委員会)
国際婦人デーの歴史に学ぶ
国際婦人デーは、一九一〇年、第一次世界大戦に向かう時代背景のなか、ドイツの社会主義者クララ‐ツェトキンをはじめとする女性たちが提唱したものです。戦争に反対すること、女性の選挙権を確立すること、労働組合とつながり、世界の女性が連帯することを掲げた行動日として、こんにちまで受け継がれてきました。
日本で初めての国際婦人デー集会は、今からちょうど一〇〇年前、一九二三年に東京・神田で行なわれました。その六年前、一九一七年のロシア革命の成果が日本にもおよんで、女性たちは志高く変革の希望に燃えていました。しかし、当時はあらゆる民主的な運動が厳しい弾圧を受けました。右翼と警官の妨害によって、集会は四〇分で閉会させられてしまいました。当時の女性活動家たちの決死の覚悟をわたしたちは胸にきざまなければならないと思います。
いっぽう、同じ年の別の出来事にもふれないわけにはいきません。その年の九月一日に関東大震災が起こり、混乱に乗じたデマなどにより、多くの朝鮮人が虐殺されました。これをなかったことにするかのような動きを断じて許してはなりません。
わたしたちは過去に目を閉ざさず、歴史に学び、よりよい社会をめざしていかなくてはなりません。わたしたちは現在、自由に発言し、今日のような集会を行なうことができます。でもツェトキンや日本初の国際婦人デー集会の開催を指導した山川菊栄らが目指した女性解放・女性の地位向上は成し遂げられたのでしょうか、いいえ、まだ道半ばです。
男女の賃金格差はどこから生まれる
わたしがまだ学生の頃、ある年配の男性の先生が「公務員は男女平等だ、わたしも女の先生も給料はいっしょだ」と非常に不満そうに言っていたのを思い出します。公務員が男女平等だというのはやや正確性に欠けますが、いずれにせよ、昔も今も世間では、男性の方が女性より給料が多いのは当たり前なのです。同じだったら男性は不満なのです。
女性は生理休暇を取る、産前産後休暇を取る、子どもが熱を出したと言っては休む、残業を断る、親の介護が必要になれば仕事を辞める、これで男性といっしょの給料では、男性が不満を持つのは当たり前でしょうか。当たり前だという理屈が大手をふってまかりとおってしまうのは、今の日本が、利潤追求が第一目的の資本主義社会だからです。
わたしたちは労働を分単位で切り売りしているわけではありません。売っているのは労働力ですから、労働力の再生産も含みます。職場を離れた労働者は、家族やその他の助けを受けて消耗した労働力を回復させます。ここでいう家族は、多くの場合母親や妻などの女性です。そしてまた、労働力の再生産には、次世代の子どもを産み育てることも含まれていますが、これもその多くの部分を女性が担っています。社会全体はそうやって回っています。それがわかれば、子どももお年寄りも含めて、力の強い人も弱い人も、すべての人が社会で役割を果たしていることがわかり、お互いに尊重しあうことができます。しかし、重ねて言いますが、それは利益をあげることが至上命令の資本主義社会では無理な話なのです。
わたしが子どもを無認可保育園に預けて働いていたころ、行政からの補助金増額を求めて、保育士の先生たちが市議会に陳情をしたことがありました。そのとき、何人かの保護者が訴え文を書きました。わたしはその中でこう書きました。「子どもを産み育てるということはきわめて個人的なことですが、同時に社会的なことでもあります。子どもたちはやがて大きくなり、働いて税金や年金を納めることになるからです。」
陳情は趣旨採択に終わり、議員にどの程度伝わったかはわかりません。でも、ひとりのお母さんの胸には響きました。「そうだよね、ありがとう」と涙ぐまんばかりでした。彼女は自営業の夫の仕事を手伝いながらパート労働に従事していて、低賃金のパート収入はほとんど保育料で消えてしまうと嘆いていました。夫の仕事の手伝い、家事、育児はまったくの無償労働です。資本主義社会では収入が多い方が偉いので、場合によっては「誰に食わせてもらっていると思ってるんだ」などというようなモラルハラスメントにもあいます。女性の労働や頑張りは評価されません。彼女は「子育ては社会的に意義のある大事な仕事」と言われて喜んだのです。褒めてもらいたいわけではないけれど、自分も相応に役割を果たし、社会を担っているのだと認めてもらいたい女性はたくさんいると思います。
資本主義の土俵の上で闘うな
みなさんは、いまの賃金が自分の労働に見合ったものだと思いますか? あるいは、自分が果たしている役割を正当に評価されていると思いますか?
女性の労働が補助的なものと位置づけられたり、女性の従事者が多い保育や介護などのケア労働が軽んじられることで、多くの女性は男性より低賃金です。それは、もっぱら女性に家事や育児、介護などをおしつけ、それを無償労働としてきたことからきています。そしてさらに、女性労働者の半数以上が非正規労働者で、女性は、構造的に低賃金で働かされる仕組みにからめとられています。そしてさらに、二〇二〇年から続くコロナ禍で、女性非正規労働者はよりいっそうの打撃を受けました。特に女性の従事者が多い飲食・サービス・宿泊業などでは収入の大幅ダウンや仕事を失うことが相次ぎました。路上に出たり炊き出しの列に並ぶ女性が相次いだのです。二〇〇八年のリーマンショックと対比して、女性不況・シーセッション(She-Cession)という言葉も生まれました。
資本主義社会で作られる価値基準では、わたしたち女性は男性と競い合っても十中八九、勝てません。多くの場合、家事・育児・介護の負担を男性より多く担っているからです。そもそもの条件が違いすぎます。
わたしたちは資本主義という土俵で闘っても勝てません。そんな土俵では闘えないし、闘いたくもありません。労働者同士が競わなくてもいい、勝たなくてもいい社会が必要です。
わたしたちは、結婚してもいい、しなくてもいい、子どもを産んでもいい、産まなくてもいい、働いてもいい、働けない・働かないときがあってもいい、男のひとを好きになってもいい、女のひとを好きになってもいい、すべてを自分で選択できることを求めています。
日本の少子化、何が原因か
いま、少子化が問題になっています。岸田首相は「異次元の少子化対策」と言いますが、対策と言うからには原因の分析が必要です。「晩婚化」などと女性に責任転嫁をするようなことを言っているようではお話になりません。なぜ晩婚になるのか、なぜ生活基盤が安定しないのか、それが問題です。
これまでの政府の労働政策により、労働者は格差と貧困の中に喘いでいます。それを問う必要があるいっぽうでそれはまた、労働者階級がなぜ十分に闘ってこなかったのか、とわたしたち一人ひとりに突き付けられる問題でもあります。
少子化対策で予算措置を講じるのであれば、子ども手当の拡充よりもまず、安心して子どもを産み育てるために、出産費用や子どもの医療費を無料にすることが先決です。一部の自治体の先進的なとりくみを、国が責任をもって行なうべきです。
次に教育の無償化です。
いかなる条件もつけずに、日本で暮らすすべての子どもに対して、大学卒業までの費用を無償とすべきです。日本では、子どもの教育にかかる費用は常識を超えています。さらに、朝鮮学校は、高校無償化から除外され、各地で自治体からの補助金が減額・打ち切りになるなど、不当な差別を受けており、よりいっそうの負担を強いられています。
現在、大学生の半数以上が奨学金制度を利用しています。奨学金と言えば聞こえはいいですが、その多くが利子をつけて返す必要がある借金です。また、教育ローンも多くの金融機関が取り扱っています。子どもが借りるか親が借りるかの違いで、日本は、借金なしに大学を卒業するのが難しい国です。こんなに資源の乏しい国で、人を大事にしなくてどうするのでしょうか。政府が言う「少子化」は単なる統計の数字しか問題にしていません。わたしたち一人ひとりの生活が見えていないのです。だから有効な対策がとれません。子ども関連の予算を増やすといっても、財源を増税で賄うというのでは、タコが自分の足を食べているようなものです。
原発の推進は戦争のため
次に原発の問題です。原子炉は核兵器を作るための道具で、決して電気を作るためのものではありません。核分裂で発生する大量の熱でお湯を沸かして、その蒸気でタービンを回しているだけです。革新的な技術で発電しているかのように見せかけ、人をだまして「未来のエネルギー」などと言わせていたのです。
わたしは福島県出身です。高校を卒業するまで暮らしていました。なだらかな海岸線が連なる地域で、一二年前のあの日、都内で大きな揺れを感じても、津波の心配はしませんでした。ところが驚いたことに、いつも使っていた鉄道の駅や線路から海までの一帯の住宅地がすべて津波で流されてしまったのです。そしてさらに悲惨だったのは原発事故でした。住民全員が、家に帰れなくなったのです。わたしの母は、近所に住んでいた友だちやきょうだいたちと離れて暮らすことになりました。原発事故までは隣町に住んでいた伯母・母のお姉さんが、昨年亡くなりました。九一歳でした。棺に好きだったものを入れてあげました。お菓子と氷川きよしの写真集が入っていました。そして、それらといっしょに着古した割烹着が納められていました。従兄弟が、「これは母ちゃんが避難するときに着ていたものだ」と教えてくれました。本当に、一日二日で帰れると思って普段着で役場の用意したバスに乗り込んだのです。わたしは、原発は危ないし要らないとは思っていましたが、結局何もせずにきました。重大事故が起こるとは考えていなかったのです。わたしたち大人が始めたことで、何の責任もない子どもたちのいのちと健康が今も危険にさらされています。原発推進を許すことはできません。
原発は原子力技術を維持するためのもの、そして技術力の維持は、すべて戦争のためです。資本主義は戦争を欲します。大量に製造したミサイルや弾薬は定期的に使用して、軍需産業を繁栄させなければなりません。ですから、武器の大量消費と再生産を繰り返す武力紛争がやむことはありません。いま、ウクライナで起きていることも同じです。
戦争と搾取のない社会をめざそう
日本政府が軍事費を倍増しようとしているのは、日本に暮らすわたしたちの命と安全を守るためではなく、アメリカの国家戦略に追随し、高額な武器を買うためです。沖縄に米軍基地を集中させ辺野古に新基地を建設し、琉球弧の島じまに続々とミサイルシステムや自衛隊の部隊を増強しているのもそのためです。その方針を一番喜んでいるのはアメリカです。一月に岸田首相は日米首脳会談のために訪米し、手厚いもてなしをうけたと自慢していましたが、バイデン大統領が岸田首相の肩に手を置き親密そうにしている写真が「格下に見られている」とSNS上で話題になりました。もちろん、日本の右翼ナショナリズムからくるものでもありますが、日本が、すべてアメリカの言いなりであることを象徴しているとも言えます。
わたしたちは、戦争と武力の行使に反対します。権力者や資本家は安全な場所にいます。労働者、市民の命が粗末にされ、まっさきに殺し、殺されるのです。利潤追求を最大の目的とし、そのためには積極的に戦争を起こす資本主義のシステムを打ちこわすことこそが必要なのです。わたしたちは、戦争のない、誰もが搾取されることのない社会主義をめざします。
わたしたちは、昨年の国際婦人デー集会以降、有志によるツェトキン学習会を月一回のペースで行なってきました。ツェトキンの功績や当時の歴史だけでなく、幅広くジェンダー平等の問題点などを扱ってきました。今後も続ける予定ですので、ぜひご参加いただきたいと思います。
ツェトキンが、労働者階級の国際連帯、女性の連帯を強く訴えていたことを改めて学びなおさなければなりません。わたしたちはそれぞれの困難を抱えて、みな等しく重い荷物を背負わされています。でも、隣の人の荷物はきれいで軽いように見えたりもします。それが分断を生み、ヘイトクライムにつながることすらあります。労働現場では労働者同士が競争させられています。それは一番やってはいけないことです。団結してこそ要求を勝ち取ることができるのです。どんな場面でも連帯することが必要です。それ以外に勝ち目はありません。
本集会ではこのあと、それぞれの現場から女性たちに発言していただきます。ともに闘っていきましょう
(『思想運動』1087号 2023年4月1日号)
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