労働者通信
介護職場の補助パートで働く日々、つれづれ思うこと
戦争準備で高齢者がスケープゴートに


高齢者に「集団自決」、若者に「貧乏になる自由」

 わたしの一日の仕事の始まりは、出勤してすぐに夜勤者から、バケツに放り込まれた大量の便失禁で汚れた衣類の洗濯を頼まれたり、朝食の下膳を手伝いながら、食べこぼしや涎、飲み残しのお茶を認知症の老人が無造作に捨てたり、手づかみしたデザートを擦り付けたテーブル・床、飛沫防止の透明アクリル板などを清掃したりする。下膳するだけでも想定外の労力と時間が費やされる。わたしの職場は、老人ホームで、パート労働者として身体介護以外の補助的(洗濯・リネン交換・掃除その他雑用)業務を行なっている。老人に認知症による健忘や失語などがある場合、意思疎通が困難なため、注意喚起が難しく、たった今、掃除したり洗濯したり修理したばかりのものをまたすぐ汚されたり壊されたりを延々と繰り返す場面がしばしば起きる。だが、すぐに対策も講じられず、消耗するだけの作業にうんざりする(これがブルース‐ウィリス[ハリウッドのアクション映画スターで最近認知症を公表]の仕業であったならわたしは全然OKかも? という一瞬の妄想もあったりするが……)。「そこまでして老人を介護すべきか」という『日経ビジネス』の記事タイトルの言葉のごとくテンションが急降下していくのを感じる。
 そんな時「髪のみだれに手をやれば 赤いけだしが風に舞う~」と、美空ひばりの歌(「みだれ髪」)が館内放送のスピーカーから流れてきた。入居者が亡くなられると、お見送りの際に生前好きだった曲を、普通は、見送る玄関ロビーのある一階フロアーだけで放送する。「見えぬ心を 照らしておくれ ひとりぽっちに しないでおくれ」というサビの歌詞が、ひばりの、むせぶように切なく哀しい声の響きにのせられて、コロナ禍で三年近くも家族と対面かなわず亡くなられた方の魂が無念の別れを惜しんでいるように聞こえた。放送担当者は手違いを装って意図的に全館放送にしたのではなかろうか。わたしは、故人が口ずさんでいたであろうひばりの歌の数々も頭に浮かべつつしばし時代を遡りながらその老人の長い人生の苦労や喜び、悲しみに思いを馳せてみた。
 過去には作家の曽野綾子が、「高齢者は適当な時に死ぬ義務あり」などと発言し、最近も、成田悠輔という社会学者が、「高齢者は集団自決すれば良い」といった発言をして物議を醸している。「少子高齢化」は、以前から社会問題のトップスリーに入っていた(「少子」については政府があわてて最近「異次元」の対策を講じるようだが)。「高齢化」については、二〇年以上前から「介護保険制度」が施行されているのだが、それが現在「崩壊」の危機に瀕している。そこでこの社会学者が政府に忖度して考えたのが「集団自決」だろう。敗戦間際の沖縄戦において、日本軍が沖縄を捨て石にしようとした差別構造や死の覚悟を共通認識として醸成していったやり方というものが、今再び、戦争準備のために、高齢者をスケープゴートに仕立てて、追い詰め切り捨てを行なって繰り返されようとしている。そして日本の政治家はそれによって経済の落ち込みや政権の失敗を誤魔化し拭い去ろうとしているようだ。
 わたしは、職場の同僚(四〇歳女性)に、成田悠輔の発言をどう思うか? と聞いたところ、「最近メディアが使いたがっているだけ(ブラックジョークよ)。」との答えだった。そうだろうか? わたしは、別の時に、パソナの竹中平蔵が、「若者は貧乏になる自由がある」って言ってたけど酷くない? と尋ねたこともあるが、「竹中はパソナ辞めたでしょ?」と、話題が古いことを指摘されただけだった。「この国は、高齢者の年金や医療・介護に国のリソースをつぎ込む状態」と言われているが、年金は年々減らされても、医療・介護従事者の給料は上がらない。それは、若者が貧乏になる自由を行使しているからとか、長生きしている高齢者が原因なのだろうか?

ロスジェネ世代を介護業界に充当する政府の政策

 コロナ禍が長引き、介護サービスの利用控えや物価高騰によるコスト増で、わたしの働いている「老人福祉・介護事業」分野においては、倒産が過去最多となった。施設によっては、「クラスター地獄」に陥ったところもあった。わたしの勤務先でも感染が広がり、一か月近くの間、防護服を着用し、フェイスシールドを付け衛生不織布キャップを被り、プラスチックグローブを二重にして(よくテレビなどで放映されていた、コロナ対応の医療現場のスタッフによく似たスタイル)業務を行なった。
 介護労働は、「4K」と言われ、3K(キツイ・汚い・危険)プラス1K(給料安い)、となっているので、人手不足が慢性化している。介護は、家事や育児とともに、「ケア」労働と呼ばれ、昔から女性が無償で担ってきたことにより差別的賃金が適用されてきた背景もあり、コロナ禍で介護保険制度の矛盾が一気に露呈した感がある。たとえば、「介護業界はロスジェネ世代の掃き溜め」というTwitter投稿では、政府が姑息な手段として、介護人材不足の対策と就職氷河期世代の支援策を都合よく合体させ相乗効果が期待できるとして、ロスジェネ世代を介護業界に誘導する目的で「キャリアアップ」プログラム等を作成しハローワークなどを通じて行なうことが示されていた。これは、バブル崩壊の失政を就職氷河期世代に負わせ、四〇、五〇代になっても年収の低いままの世代を個々の適性も考慮せずにご都合主義で介護業界に充当させる政策だ。
 それはまた「2025年問題」といわれる、団塊の世代がすべて後期高齢者となり、その高齢の親を不安定雇用で低所得の団塊世代ジュニアが介護しなければならなくなる悲惨な事態への対処策として提案した、というアリバイ工作だ。介護業界においては、約半数が非正規雇用労働者だ。経済のグローバル化にともない、安価な労働力を求めて製造業などの海外進出が盛んになり、国内工場の閉鎖に伴う労働力移動がサービス産業へシフトした影響で従来、女性雇用者の多かった介護分野でも男性の労働者は増えている(三割)。
 介護保険料の徴収額を当初の約三倍にしたが、介護報酬は一定の低いままに抑えざるを得ないので、政府は、一律に賃金を上げることはせず、介護労働のうち身体介護(排泄・食事・入浴・喀痰など)の業務の専門性を高めスキルアップした正社員が、資格に応じて給料がある程度レベルアップするように計る(資格制度の階層化)などして、生産性向上と効率化を推進している。つまり時間やお金に余裕がなく自分でスキルアップできない条件の悪い労働者(家事や育児の責任のある女性や体力的に夜勤のできない高齢者など)は、パートなどの最低賃金で雇用し、分業化の徹底によって少ないパイの切り分けを行なうのだ。離職率は、以前(二〇一〇年一七・八%)に比べ低く(二〇二〇年一四・九%)なってはいる。

入居者から不満訴えられても対応できない現実

 男性が入浴介助を行なったりするのは、高齢女性でも裸を見られるのに抵抗はあるとはいえ、体の不自由な老人の入浴にはかなりの力が必要なのに、配置基準やシフトの関係上、二人で介助できないことが多く、男性が一人で入浴介助を行なえば効率が良いのだ。「男なのにこういう(介護の)仕事をやるなんて偉いね」と老人に褒められた男性介護士が、「ほかにいい仕事があればこの仕事はやっていませんよ」と正直に答えているのを聞いたことがある。
 新型コロナ感染拡大が始まってから、三度目の正月も過ぎたが、特養ではまだ面会制限が続いており、入居老人は家族と会えずじまい(Zoom面会などはある)で、もう家族の名前も忘れた人が大勢になっているし、ストレスも限界を超えている。
 この前、洗濯を終えた衣類を持って入室したら、「わたしは(介護士に)意地悪をされた。オムツを替えたら布団をぞんざいに掛けて、寒いのに窓を開けっぱなしで、話も聞かないでさっさと出て行ってしまった。こんなところにはもういたくない」などと訴えられた。
 部屋にはまだ便臭がこもっていた。自費で空気清浄器を買ってもらわない限り、消臭のため窓をしばらく開けておかざるを得ない。自分の業務に直接関係のないクレーム対応で時間を取って長居すると後から、部屋のものが無くなったと、認知症のある老人に、「窃盗犯」にされてしまった経験もあるし、感染対策上も、耳の遠い老人と大声で会話を続けたくなかったので、「善処します」と言って部屋を後にした。
 介護の「社会化」(民営化)を目指して二〇〇〇年に創設された介護保険制度は、年々財源確保が難しくなり、特にコロナ禍では営利企業にとってはコストの上昇などで利益率が低下し、介護事業から撤退するケースも増えている。厚生労働省は、(二〇五〇年には類を見ない少子高齢化を迎える予想で、介護保険の危機的状況を踏まえ)次の介護保険改定案(現代の〝姥捨て山〟と呼ぶ人もいる)で、人手不足解消のため、見守りセンサーや介護ロボットといったICT(情報通信技術)の活用などを条件に、職員の配置基準を緩和したりする方向だ(つまるところ人減らしだ)。そうしたことで老人の不満解消につながるのかどうか、疑問に思う。

軍拡進めてアジア人介護士と信頼関係築けるのか

 わたしは、東北地方出身なので、例年三月が近づくと、東日本大震災のことが思い浮かぶのだが、この時、避難誘導中の介護職員の犠牲は数百名に上った、と言われている。いま、政府が軍事費を増大させ、社会保障費の抑制をはかるなかで、介護人材に占める外国人労働者や非正規労働者の比率は高まっているが、差別的待遇がありながら、いざというときには犠牲を強いられる状況になっているのではないだろうか。
 わたしの勤めている施設でもEPA(経済連携協定)に基づくインドネシアからの介護福祉士やそのほかアジアの国々からの外国人ケアワーカーが働いていて、ヒジャブ(ブルカと呼ぶのかもしれない)を巻いた女性が職場に来ているのを見かけたりする。汚物室でゴミ袋を片付けていたらフィリピン出身のケアワーカーが、まだ日本にきて間がないのか、こなれない日本語で「あさ、しごとくるまえ、ドキドキです。よる、しごとおもいだす、ドキドキします」と言っていた。なぜ「ドキドキする」のかを聞くことはできないでいる。そして、戦前生まれの老人たちに、かつて植民地政策や侵略戦争で犠牲を強いた国々から現在も安い労働力として介護人材を受け入れ、自分たちの下の世話までさせることや、命を預けて人生の最期を看取ってもらうことをどのように考えるか聞いてみたいと思うが、多くは認知症で答えは得られない。
 世界第三位となるような軍事費倍増で、「敵基地攻撃能力」を保有することは、アジア諸国に脅威を与え、不信感を招くだろう。また途上国では食糧不足が懸念され、国内でも物価高で貧困家庭の子どもが満足に食べられないということがあるが、老人ホームではさまざまな要因で廃棄される残飯が多い。外国人ケアワーカーと日本人正規介護士・非正規雇用の介護職員と介護される高齢者のあいだにはお互いに生きてきた環境の違いや待遇の格差もあり、信頼関係を築くことは難しい。しかし、相手の人権を守らずに自分の人権だけが尊ばれることはない。
 また、介護の「社会化」ということが、家事労働の社会化の一領域として、真に女性を解放するかたちで行なわれなければならないと実感している。わたしが、若い人に、間もなく自分が六五歳になり、年金が全額支給になるのでリタイアするつもりだったが、今の物価高では「最低限の質素な生活プラン」さえ狂ってしまいそうだ、と愚痴をこぼすと、「もらえるだけでもいいんじゃないですか」と冷たくあしらわれてしまった。わたしは日ごろ下剤投与で失禁した老人の、便秘で溜めた四、五日分の大量便が付着した下着を汚物室の水道で手もみで洗い落す「生産性の低い」仕事をしながら、たまに、遠くのフランスでは最近、年金開始年齢の引き上げ法案に反対するデモが一〇〇万人以上の規模で行なわれているんだなあ、と考えてみたりもする。そしてすぐに、それは遥か遠い彼方の国での出来事なのだと思い直す。
 日本では、「高齢者には、死ぬ自由がある」とでも言われて、自己負担増に耐えられなくなれば老人ホームから追い出されるだけだ。働いていてもスキルが低く効率が悪ければ貧困という選択肢が、高齢になれば生産性がないとして排除される選択肢が、望みもしないのに用意されて競争を煽り、日常の中で生存権が脅かされる社会を、平和な状態と呼べるのだろうか? 日々の自分の労働の中で、そのことを問い続けることが、いつかフランスやイギリスでも闘っている労働者・人民との連帯につながるのではないか。若者から怨嗟を込めて、「もらえるだけでもいい」と言われたわずかな年金をもらって逃げ切る道は、すでに行き止まりなのだ。
【田口ケイ】
(『思想運動』1086号 2023年3月1日号)