〔世界と日本――2023〕
ウクライナ戦争一年、イラク戦争二〇年
平和擁護の統一戦線はどうあるべきか

イラク戦争から二〇年、暗く沈んだ世界


 ちょうど二〇年前にあたる二〇〇三年三月、アメリカを中心とする多国籍軍はイラクに対する侵略戦争を開始した。アメリカのブッシュ・ジュニア大統領は、開戦演説でこの戦争を「イラクの人びとの解放」のためと述べ、日本政府の小泉純一郎首相も「イラク国民に自由を与える、将来豊かな生活を築き上げるための作戦」として支持した。
 しかし、二〇〇三年以降の戦争によるイラク人の死者数を記録しているNGOイラク・ボディ・カウントが発表しているように、この戦争によって殺害されたイラク人は少なくとも約五〇万人である。そもそも一九九一年の湾岸戦争以来、非人道的な経済制裁によって五〇万人以上ものイラクの子どもたちを殺害してきた国が、イラクの人びとの生活と生命を真面目に考えているはずがなかったのである。アメリカ軍のファルージャ包囲攻撃による多数の子どもを含む民間人虐殺ひとつとってみても、この戦争の残忍さは明らかだろう。それは文字通り野蛮であり、国連憲章を中心とする既存の国際法の諸原則に対する著しい侵害でもあった。開戦当時、ペンタゴンの諮問機関である国防政策委員会委員長であったリチャード‐パールは国連の死を、「神に感謝」までしたのだ。
 「フセイン政権の大量破壊兵器保有」疑惑も含めたあからさまなウソに基づく開戦に対しては一時的に起こった世界の反戦運動で、「石油のために血を流すな」(〝No! Blood for Oil〟)と叫ばれていたように、この戦争の目的が、世界第二位の貯蔵量をもつイラクの石油資源にあることは明らかだった。イラク戦争は典型的な新植民地主義戦争であった。
 帝国主義者は、資源や労働力の収奪のための現地保証人(主に極右ファシストや宗教的原理主義者が利用される)の政権を打ち立てるために、脅迫・制裁・封鎖・包囲・干渉・侵略を繰り返すのである。それは第二次世界大戦後に朝鮮で、キューバで、ベトナムで、コンゴで、イランで、ブラジルで、インドネシアで、チリで、アフガニスタンで、ニカラグアで、その他の多くの場所で繰り返された政策だった。そしてこの政策は、いまなお続いている。アジア・アフリカ・ラテンアメリカ三大陸における反帝民族解放闘争の心強い擁護者であったソ連の倒壊後、世界の一元支配を「実現」した西側帝国主義諸国は、「人道的介入」「保護する責任」といった「人権」を逆手にとって国際法の原則をよりいっそう蹂躙する一見すると「新しい」戦争イデオロギーをつくりだし、ユーゴスラビアからリビア、シリアに至るまでの永続戦争に突き進んだ。イラク戦争はその野蛮の環のひとつだったのである。
 この「新しい」戦争イデオロギーは、一九四九年にフランス・パリで開催された「平和擁護世界大会」以来の、伝統ある、反帝国主義の観点をもった第二次世界大戦後の世界諸人民の平和運動をつぶすのに、完璧な役割を果たした。イラク戦争に反対していた人たちの運動も、その多くがブッシュが勝利宣言するや否やすっかり静まり込んでしまい、ファルージャの虐殺には沈黙し、のちに戦争勢力がリビアやシリアで巧妙に「人道目的」を掲げてしまえば、戦争に反対できなかったのである。
 マンデラとともにアフリカの真の解放を希求したリビアのカダフィの抹殺において二一世紀の野蛮は頂点に達した。しかし、この戦争を推進する国々に住む人びとは、抑圧された者たちの希望の抹殺を目的とする戦争の野蛮と対決するどころか、野蛮を野蛮と認識することさえなかった。
 帝国主義の一元的支配の実現、そして世界諸人民の平和擁護運動の崩壊によって、一九九〇年代以降、世界は光も届かないほどの暗い淵に沈んでしまったのである。

ウクライナ戦争一年 野蛮の連続を断とう

 わたしたちが確認すべきなのは、一年前の昨年二月二十四日以降の、核戦争の危機をはらみつつ、多くの犠牲者を出しながら続いているウクライナの受け入れがたい事態も、一九九〇年代以降に世界が落ち込んだ野蛮状態の延長線上にあるという事実である。
 いまの野蛮は、世界の、とりわけ西側の「平和勢力」が平和勢力として成立しなかったがゆえに、ユーゴスラビアへの「人道的介入」に反対できず一九九〇年代初頭の約束に反するNATOの東方拡大を許してしまい、ウクライナに対するIMF経由の資本投下を目的に公然と行なわれた二〇一三年末から二〇一四年以降の新植民地主義的干渉を拒めず、それによるマイダン・クーデターが原因で生じたドンバス戦争をミンスク合意によって平和的に解決するように促進できず、ロシア西部の国境沿いへのNATOの兵器システム・兵站基地・先遣隊・特殊部隊の脅迫的な配置と軍事演習の展開を食い止められず、帝国主義の戦争政策によって空洞化され続ける諸国・諸民族間の平和的共存のための国際法・国連憲章の諸原則やさまざまな国際的な合意を擁護することができなかった、その結果なのである。
 ベトナム戦争におけるソンミ虐殺の告発でも知られるアメリカの代表的なジャーナリスト・シーモア‐ハーシュによる、昨年九月二十六日のノルドストリーム爆破事件に関する最近の報告(二月八日にサブスタック上で公表)でもっともおどろくべきなのは、アメリカによるこの爆破計画が実行の「九か月以上前」から企てられていたという指摘である。つまり、二月二十四日の前なのだ。二月十六日から二十二日にかけて激化したドンバス側に対するウクライナ軍の砲撃(欧州安全保障協力機構〔OSCE〕の監視員はとりわけ十八日以降に毎日一〇〇〇件以上の大部分が停戦ラインの東側での爆発を記録した)へのロシアの反応いかんにかかわらず、アメリカにはよりいっそうロシアを挑発する用意があったのである。
 昨年末にはドイツのメルケル元首相が『ディー・ツァイト』十二月七日付のインタビューで、ミンスク合意がウクライナ軍強化の時間稼ぎのためのものだったと述べたように、そもそも伝統的な帝国主義陣営の為政者たちはみずからが点火した緊張状態を軟着陸させるつもりがまるでなかった。ウクライナの人びとも、ドンバスの人びとも、ロシアの人びとも、これらの野蛮な戦争放火政策が激化させた世界の緊張状態の犠牲者なのだ。
 わたしたちは、以上のような問題の歴史的文脈も踏まえながら先月二月二十四日に発表されている、「ウクライナ危機の政治的解決に関する中国の立場」における事態収拾のための中華人民共和国による提起(国連憲章の擁護、脅迫的な軍事ブロックの解消、エスカレーションを回避するための停戦、和平交渉の開始、一方的制裁の停止、核兵器の使用に対する全面的な反対ほか)を支持する。
 そして、そのうえでわたしたちは、昨年、ドイツ共産党(DKP)のメリーナ‐デイマンの主張を引用しつつわたしたち述べたことを何度でも繰り返そうと思う。
 すなわち、ウクライナでの戦争は一九九〇年代以降の野蛮を野蛮として指さし、これに対決できなかった世界の平和勢力、とりわけ西側帝国主義諸国のなかで生きる「われわれ」の敗北なのである、と。わたしたちが眼にしているのはみずからが許してきた野蛮がもたらした結果の野蛮なのである。そしてこの敗北はいまなお続いており、日本も含む西側諸国の戦争政策はますます苛烈になり、かつてないほど残虐な現代の兵器を次から次にウクライナに送り込んで現在の戦争を長引かせると同時に、東アジアをはじめとする地球全体をもひとつの火薬庫にしようとしている。当の事態の要因である帝国主義の戦争政策が、その事態を口実として、いっそう推し進められているのだ。地球の存続さえも危うくするこれ以上のエスカレーションはなんとしても回避されなければならなず、そのためにも、ウクライナ事態以降も依然として「われわれ」の側の為政者たちの戦争政策を押しとどめることこそが、いまの、そしてこれからの悲劇を断ち切るための、世界の、そして何よりも「われわれ」の平和運動のもっとも重要な役割なのである。

世界の平和擁護運動 その反撃のありかは

 ソ連倒壊後の二〇世紀末から二一世紀にかけて、勝ち誇ったものたちの暴力と残虐性こそが行動規範になったかのような野蛮な世界が出現した。しかし、これに抵抗する動きがなかったわけではない。
 反撃の試みは主に、社会主義を維持しえた国々とグローバル・サウスの自律的な発展への道を諦めない国々を中心になされた。二〇〇〇年四月にキューバのハバナで開催された「G77プラス中国」の史上初の首脳会議である第一回サウス・サミットは、帝国主義の戦争政策に対抗しうる適切な同盟関係を築こうとする最初の試みであった。そのサミットの最終宣言「G77宣言」が「国際法と国連憲章の一般原則に法的根拠をもたぬ人道的介入のいわゆる『権利』を拒否する」と宣言したことは重要である。二〇〇三年二月にマレーシアのクアラルンプールで開催の第一三回非同盟諸国首脳会議でも同様の項目をもつ最終文書が発表された。また、キューバのフィデル‐カストロ、ベネズエラのウーゴ‐チャベス、そしてのちにみずからがその犠牲者となったリビアのカダフィは、帝国主義による永続戦争を予見し、これに対抗するための協力関係の構築を三大陸各地で訴え、そのために尽力していた。
 しかし、これらの動きも二〇一一年のNATOによるリビアの破壊をとめることができなかった。つまり、敗北したのである。ベネズエラのチャベスは、「国際的な権利はどこに行ったのか。これでは石器時代と同じではないか」と、現代の野蛮を嘆いた。
 カストロやチャベスとは異なり、サウス・サミットや非同盟の会議に参加した国々の指導者の多くが西側の戦争政策に公然とは反対できなかったのは事実である。だが、この敗北の最大の要因は、世界諸人民の運動、とりわけ伝統的な帝国主義諸国で生きていて自国政府の新植民地主義的な戦争政策を押しとどめる責任をもつ諸人民が、実際に現代の野蛮の犠牲になっている国々の平和を求める取り組みに対して圧倒的に無関心であり、また立ち遅れていたという事実にこそある。日本も含む西側諸国の人びとは、ほんの一部の人びとを除いて、国際法擁護の観点も、反帝国主義の観点も失っていた。それどころか、あらゆる形態の戦争プロパガンダをとおして理性を蝕まれた人びとは、無限の爆撃によって人権が促進されるかのような夢想にひたってしまっていたのだ。
 帝国主義の脅迫・制裁・封鎖・包囲・干渉・侵略に苦しめられながらも、社会主義ないしは自律的な発展への道を堅持する国々が防衛政策をとりつつ互いに協力してゆくことは重要であり、それ自体が帝国主義の戦争政策に抗する力になりうる。しかし、実際にその戦争政策を遂行する国々のなかで、反帝国主義の観点につらぬかれた反戦平和運動がなければ、真にその戦争政策を阻止することはできないのである。前者にできることはあくまでも帝国主義の戦争政策が存在する前提でそれに対応することであり、戦争政策の存在それ自体を解消しうるのは、潜在的に後者の運動だけだからである。したがって、わたしたちが求めるべきものは、その双方が連帯し協力する、社会主義世界体制倒壊後の現代における新しい平和擁護の統一戦線である。
 二〇二一年七月には、キューバ、ベネズエラ、ニカラグア、朝鮮、中国、エリトリア、ラオス、パレスチナ、シリアなどの国々が帝国主義の政策に国際法の観点から抗する「国連憲章を守るための友の会」の事実上の発足式を行ない、二一世紀の野蛮を脱するための取り組みをふたたび開始している。これは国土は小さくとも誇り高い朝鮮やキューバが社会主義の道を堅持し、中南米でベネズエラやニカラグアがキューバとの連帯の道を進み、中東においてシリアが帝国主義者とそれに支援された宗教的原理主義者の侵略に対して持ちこたえ、中国が矜持ある平和政策を施行するといった現在の世界史の展開ゆえに可能になった動きである。反アパルトヘイト闘争以来のリビアという反帝の砦を失い、いまも各地にアメリカ軍やフランス軍が割拠するアフリカの悲惨を考えれば、グローバル・サウスの全面反攻がはじまっているという見方には懐疑的にならざるをえない。しかし、それでもなお、自律的発展をめざす国々の独自の試みは続いている。
 そして、いま、世界諸人民の平和運動側の立ち遅れを取り戻そうとする試みも、世界では新たに生まれている。
 もちろん、戦後の世界の平和擁護運動を中心的に担ってきた世界平和評議会(WPC)の活動が続いていることも忘れてはならない。WPCは昨年十一月二十一日から二十六日にかけてベトナム・ハノイで第二二回総会を開催した。そこには五七か国の支部の平和運動団体が集結して、現代世界の平和運動の参照点となりうる包括的な情勢分析と運動課題を提起した「政治宣言」を発表している。この総会および宣言は、日本、フランス、アメリカの帝国主義を打ち破ったベトナムという地で開催されることに特別な意味を見出しており、反帝国主義の伝統を維持することを誓っているのだ。事実、世界平和評議会は影響力が縮小していくなかでも、「人道的介入」や「保護する責任」のイデオロギーに飲み込まれず、反帝国主義の観点と国際法擁護の観点をつらぬき続けているのである。また、キューバ・朝鮮・中国といった現存社会主義国の党とも連帯しつつ各国のコミュニストの国際的な連帯をめざして開催される共産党・労働者党国際会議(IMCWP)も、昨年の十月二十七日から二十九日にかけてキューバ・ハバナで第二二回会議を開催して、キューバのミゲル‐ディアス=カネルの尽力もあって、そのなかにさまざまな対立がありながらも各国の党が共同で「最終宣言」を発表して、反帝国主義の立場での連帯を維持している。そして、WPCとWPC加盟の大衆運動団体およびIMCWPに参加している党もともに参加した行動として、昨年六月にスペイン・マドリードで行なわれたNATO首脳会議に反対し、その現地で開催された、国際的な抗議集会があった。
 ただ、これらの動向を念頭に置きつつも、ここで紹介するのはあまり知られていない世界の独特な取り組みである。

アメリカ帝国主義に関する国際人民法廷

 今年の、一月二十八日から開会した「アメリカ帝国主義に関する国際人民法廷――制裁と封鎖、強制的経済措置」は、世界の平和擁護・反帝勢力が力を合わせて、帝国主義の戦争政策を縛ろうとする現代の取り組みのひとつである(最終判決は公聴会を重ねたのちに今年の夏にベネズエラのカラカスで予定されている)。
 そこには平和のための黒人同盟、ANSWER、コードピンク、DSA国際委員会、サンクション・キル、トリコンチネンタル社会調査研究所、チャオ・コレクティブ、国際民主法律家協会、シモン・ボリバル平和連帯研究所、ピープルズフォーラム、フランツ‐ファノン財団、レイシズムと戦争に反対する米国労働者(USLARW)、全米反戦連合、イエメン国際連帯委員会、朝鮮共同発展のためのNODUTDOL、カナダ共産党、ケニア共産党、汎アフリカ社会主義者ジンバブエ運動といった、困難に直面しながらも粘り強く反帝国主義の観点を維持して反戦的個別諸課題に取り組み続けていたり、諸々の帝国主義イデオロギーや戦争プロパガンダに抗して独立のジャーナリズムを展開してきたアメリカやカナダを中心とする世界の大衆的諸運動体が、共有しうる課題の下に結集しつつ、帝国主義の「制裁」政策(キューバ、エチオピア、エリトリア、ハイチ、イラン、パレスチナ、ニカラグア、朝鮮、スーダン、シリア、ベネズエラ、イエメンなどを対象とするもの)を法的・歴史的観点から告発し、帝国主義・新植民地主義への現在と将来における抵抗線を構築するために必要なビジョンを世界の諸人民に提示することを目的に活動を開始している。
 この人民法廷の取り組みは、開会セッションにキューバの国連代表部のファン‐ゴンザレス一等書記官やベネズエラのカルロス‐ロン北米外務副大臣が参加したことからも理解できるように、アメリカとカナダを中心に広範な大衆的諸団体を結集すると同時に社会主義・反帝自主の国々とも連帯することによって、現代の平和勢力を反帝国主義の方向で結集する統一戦線的構想の実質を持っているのである。
 「制裁」の問題はけっして些末なことではなく、世界の平和・反帝勢力の共通の課題として、結集軸となりうる問題である。そもそも「制裁」以上に濫用されている帝国主義の戦争政策はないのであって、この政治的犯罪への完全な無関心が支配する「世論」の静けさに立ち向かい、反対運動を展開していくことは、世界諸人民の平和擁護運動にとって不可欠の課題なのだ。

対朝鮮「制裁」は現代日本の翼賛体制だ

 しかし、他方で、日本の「平和勢力」のなかでは、「制裁」の問題にはほとんど注意が払われていない。何も「制裁」はアメリカの専売特許ではなく、現在進行形で日本政府も「我が国独自の対北朝鮮措置」として、朝鮮民主主義人民共和国に対する「制裁」政策を十数年間にわたり展開しているのにもかかわらずである。
 アメリカの朝鮮に対する「制裁」の本質を知るうえで参考になるのは、先月の二月十七日に開催された「アメリカ帝国主義に関する国際人民法廷――制裁と封鎖、強制的経済措置」第二回公聴会であり、この日の主題は、朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)に対する「制裁」の問題だった。ちなみに公聴会の冒頭では、平壌の朝鮮民主法律家協会から寄せられた連帯のための公開書簡が読み上げられていた。この書簡の最後のほうでは、要約すれば「今回の裁判が平和を愛する世界の諸人民の団結と連帯を強化するための良い機会になることを願います。……わたしたちはこの法廷の成功を祈るとともに、すべての参加者が朝鮮半島の情勢につねに注意を払いながら、朝鮮に対するアメリカの制裁の解除を求め、朝鮮民族の正義のために援護を提供することを期待しています」と寄せられているのだが、ここではまさに、一九九〇年代以降停滞した世界の反帝・平和勢力の連帯が、平壌からも呼びかけられているのである。
 この日の公聴会で最初に報告したのは、ニューヨークを拠点に朝鮮統一支持とDPRK擁護の立場で活動する在アメリカ朝鮮人たちの大衆運動団体「朝鮮共同発展のためのNODUTDOL」のメンバーであった。報告者は、アメリカによる朝鮮「制裁」(国連安保理を国連憲章に反するかたちで利用しつつ行なわれる)の本質について、「朝鮮に対する制裁は、アメリカが朝鮮民族全体に対して行なっている戦争の重要な柱である。これらの制裁の目的は朝鮮の社会主義プロジェクトと主権を破壊し、朝鮮全土をその支配下に置くことである」「全朝鮮民族に対する帝国主義戦争の継続だ」と確認した。そしてその報告によれば、現在のアメリカが行なっている朝鮮「制裁」はオバマ政権のときに強化された「包括的制裁」と呼ばれるものであり、これをエスカレートさせたのがトランプ政権である。それは朝鮮の経済をほぼ全面的に封鎖する措置にまで至っており、朝鮮に対する圧殺政策を形成すると同時に、帝国主義の介入による朝鮮半島の分断と朝鮮戦争のために離散し、朝鮮に家族や親族をもつ何千人もの在アメリカ朝鮮人の往来の権利をも侵害しているのだ。
 日本政府の行なっている「制裁」政策も、その帝国主義的な本質はまったく変わらない。二〇一八年四月十七日から十八日にかけて行なわれた日米首脳会談に関する外務省のレポートは、トランプと安倍晋三が朝鮮民主主義人民共和国の「勤勉な労働力」と「天然資源」への関心で一致したことを報告しているが、アメリカのジュニアパートナーとしてその利害を分有する日本帝国主義者も、新植民地主義的な収奪というその後の展望までアメリカとともに共有し構想しつつ、朝鮮に対する「制裁」政策を展開しているのだ。
 数年前、「わたしは思うのですが、北朝鮮くらいポテンシャルに恵まれた国はありません。銅や金、鉄鉱石や豊富なミネラル資源が北朝鮮にはあります。二五〇〇万人の人口は世界有数の勤勉な労働力となるに違いありません」(二〇一八年の東方経済フォーラム)と述べたのは、日本帝国主義の再侵略防止措置である憲法第九条を空洞化させ続けた、ほかならぬあの安倍晋三なのである。朝鮮植民地支配において朝鮮・朝鮮人民の「資源と労働力」に対する途方もなく残酷な略奪を行なってきた日本・日本人が、ふたたびこれを繰り返さないためにも、日本の反動的支配層が朝鮮の「資源と労働力」に並々ならぬ関心をもっているという事実を抑えておくことは、けっして無駄ではないだろう。
 そればかりか、アメリカのもの以上に邪悪なのが、日本の「対北朝鮮制裁」政策である。長さという点でもそうであり、日本の「独自制裁」は二〇〇四年に成立した「経済制裁二法」(外為法、特定船舶入港禁止法)に基づき二〇〇六年に発動して以来、数年のうちに完全全面封鎖政策にまで至ったが、これが十数年にわたり続いているのである。だが、何よりも問題なのは、日本政府の「制裁」政策が、日本の侵略とその後の植民地支配政策によって生み出された在日朝鮮人を最大の標的とし、祖国との往来の自由をはじめとする諸権利を侵害する一種の「人質化」政策であるという事実である。それゆえに日本政府の「制裁」はその邪悪さにおいて際立っているのだ。
 在日本朝鮮人人権協会が、二〇一七年十月三十日に発表した「在日朝鮮人の人権を侵害する制裁措置の廃止を求める意見書」は、実際に起こったさまざまな具体的被害に言及しつつ、「本国政府〔朝鮮民主主義人民共和国政府〕に対して政治・外交上の圧力を加えることを目的として日本国内の永住市民の人権を侵害するもの」と、日本による「制裁」政策の本質を指摘している。しかも、「意見書」で指摘されるとおり、事実上「制裁」の一環として、朝鮮学校の高校無償化法からの適用除外といった、在日朝鮮人の子どもたちを標的にした差別・民族排外主義政策までもが行なわれているのである。
 こうした状況はどう考えても間違っている。しかし、この誤った社会では、「制裁」延長の閣議決定はほぼ何らの反対も受けずに行なわれ、議会ではその決定が一〇年以上つねに全会一致で承認され続けるのである。そして、それを黙認し続けているのが日本の「平和勢力」なのだ。延長され続けるこの「制裁」は、最近では二年間の延長が二〇二一年四月に閣議決定され、六月に国会で承認された。しかし、日本の人びとは、またしてもおどろくべき沈黙でもってこれを受け入れたのである。これを「翼賛体制」と言わず、なんと呼ぶべきだろうか。
 今年、日本政府はふたたび「我が国独自の対北朝鮮措置」の「延長」を行なおうとするだろうし、自民党から日本共産党まであらゆる議会政党は、何の抵抗も感じずにそれを承認・追認しようとするだろう。そのとき、この日本という国において、平和勢力たらんとする者たちはどうすべきか。
 わたしたちはこの現代日本の「制裁」翼賛体制を突破するための運動をなんとしても展開・強化していかなければならない。そして、まさにそのことによって、世界の平和擁護勢力・反帝勢力が形成しようとする反帝国主義の方向での平和擁護の統一戦線に連なり、これに合流していかなければならないのだ。

戦争プロパガンダと対決し平和擁護を!

 テレビ、新聞、インターネット、ラジオ、映画、書籍、広告などあらゆるメディアをとおして、帝国主義者の「敵」は悪魔化される。西側諸国の情報システムが織りなす戦争プロパガンダは、人びとが、それによって悪魔化された国や人民を「煮て食おうが焼いて食おうが何をしてもいい」存在であるかのように思い込むように誘導し、それらの国を破壊し殺人を行なうことに喜びさえ感じるように変えてしまう。こうしたプロパガンダは帝国主義による戦争政策への共謀の一部分であり、また、「人道に対する罪」だろう。なぜならそれは人びとの好戦性をかきたて、戦争を誘発し、戦争を継続させると同時に、「敵」であると宣言された他者を「殺してもいい」存在に変えて抹殺するために行なわれるからである。実際に、ニュルンベルク裁判では、ユダヤ人憎悪を扇動したユリウス‐シュトライヒャーがプロパガンダの専門家として「人道に対する罪」で裁かれた。
 現代日本の、朝鮮「制裁」の「翼賛体制」も、戦争プロパガンダの産物である。二〇〇〇年代以降の日本において在日朝鮮人に対する攻撃をともないながら強化された「北朝鮮」バッシングは、「北朝鮮がやっていることは暴力団と同じ」「万景峰号は工作船」といったさまざまな嘘・妄言を繰り返す安倍晋三や石原慎太郎をはじめとする極右政治家に先導されつつ、これに右派のものから「リベラル」の媒体も含む各種メディアが追随することによって展開された。二〇〇〇年代以降、各メディアで宣伝された現実の朝鮮とは異なる「邪悪な北朝鮮」像は、多くの「護憲派」をも巻き込み、安倍・菅・岸田政権の戦争政策を批判する際に、「北朝鮮のようだ」「日本を北朝鮮化するのか」という倒錯した言葉を発するようにもさせた。
 しかし、「邪悪な北朝鮮」像こそが、日本の憲法第九条空洞化政策を正当化する、現代日本の最大かつ最悪の戦争プロパガンダなのである。事実、昨年末に閣議決定され、「攻撃的兵器」保有を含む大規模軍拡路線を明らかにした改定安保三文書でも、日本政府は、「北朝鮮」のみを「従前よりも一層重大かつ差し迫った脅威」とまで表現し、徹底的に悪魔化しているのである。日本の「護憲派」の多くは、その「北朝鮮」像を受け入れた時点で、すでに敗北しているのだ。
 西側のプロパガンダ・システムにかかれば、どんなに平和的な国でも、即座に好戦的で邪悪な国であることになってしまう。わたしたちは、その情報の濁流の中でおぼれ、ほとんど呼吸もできず、見ることも、知ることもできない。
 ピカソは、自身の作品「ゲルニカ」について、あるドイツ人将校から「これはあなたが作ったのですか」と尋ねられた際に、「いや、あなたですよ」と言って答えたそうである。事実、ナチス・ドイツの空軍によるスペイン・ゲルニカの人民に対する無差別爆撃こそがピカソの作品に先行し、それを描かせたのであって、けっして逆ではない。このピカソの言葉は、いま、先行する帝国主義の軍事的諸計画や脅迫を見ずに、朝鮮の「核・ミサイル」に対して憤る人たちにも向けられるべきだろう。
 だが、戦争プロパガンダは、事態を大局的に見ても、現局面に限定して注意深く観察しても、必ずそれに先行している帝国主義の戦争政策の存在を見えなくするし、朝鮮の防衛政策ゆえに自分たちの戦争政策が必要なのだと事態の因果関係を捻じ曲げ伝え、人びとに信じ込ませるのである。
 日本も含む西側の人びとは、自分たちこそが世界でもっとも情報にめぐまれ、自由にものを考えることができると思い込んでいる。しかし、現在の「台湾有事」をめぐる東アジアの緊張状態に関しても、昨年で五〇周年の「日中共同声明」や今年で四五周年の「日中平和友好条約」の諸原則に照らして考えることさえできないのが実情なのだ。その結果、人びとには、中国が国連憲章を重視する平和外交政策を展開していても、まるで国際的なルールを破って戦争を求めているように見えるし、朝鮮がどれだけ平和を求め朝鮮半島の非核化のため譲歩し骨を折る用意があっても、東アジアの平和を脅かす存在であるかのように見えてしまう。
 現在、東アジアでは、以前からの「中国の脅威」論・「北朝鮮の脅威」論がウクライナの事態を奇貨としつつ「同様の深刻な事態が東アジアにおいて発生する可能性」(安保三文書・「国家安全保障戦略」四頁)という言葉でよりいっそう煽られることで、究極的にはアジア版のNATOを構想する帝国主義の戦争政策が推し進められている。一月から計画されていた(つまり二月の「ミサイル騒ぎ」の前から)最近の米韓・米韓日の合同軍事演習もその一環である。しかし、もし万が一にも、アメリカや日本が本当に戦争ではなく平和を考えているのだとしても、かれらは東ヨーロッパにおけるエスカレーションをもたらした戦争政策を、東アジアでそっくりそのままなぞろうとしているだけであって、二度目の歴史を無自覚に繰り返す喜劇役者なのだ。
 帝国主義の戦争プロパガンダが平和そのものを脅かすことは明らかである。わたしたちには、核兵器や軍隊をなくすためのたたかいだけではなく、プロパガンダ兵器とのたたかいもまた求められるのだ。
【大村歳一】
(『思想運動』1086号 2023年3月1日号)