労働者通信 「君が代」不起立への「指導」に対して
不起立の根拠は「えこひいきしない」                       

五月の初めころ校長室に呼ばれた。高校教育課(教育委員会)が「指導」しに来るので予定しておいてほしいとのことだった。職員室に戻ると若手同僚たちが何があったのかと興味深げに聞いてきた。先日の入学式で「君が代」が流された際、着席したので「適切な対応」をするように「指導」されるのだと伝えると、「高校教育課は何を言いにくるのか?」「なぜ立たないのか?」とさらにかれらの興味をそそったようだった。もちろん「絶滅危惧種」への好奇心も手伝ってのことだろうが、チャンスとも思い、分会ニュースであらためて書くことにした。

教育課との攻防

「指導」では例年次のようなやりとりをする。高校教育課の職員が二人で来て一方が以下のようなことを読み上げる。
「国際化が進展する中で、将来、国際社会のなかで生きる日本人として、信頼される人間としての資質を身につけさせることが求められている。そのために、わが国および諸外国の国旗・国歌に対して正しい認識をもたしたうえそれらを尊重することができるよう基本的な態度やマナーを身に着けさせることが重要だ。
入学式・卒業式では学習指導要領に基づき、国旗・国歌の意義やそれへの態度を身につけさせるべきだ。教育公務員は生徒に対してみずからが積極的に範を示すべきであることは言うまでもない。
にもかかわらず起立をしないということはあってはならないことで、きわめて不適切な行動だ。今後は自身の責務を自覚して校長の指導に従って起立してほしい。」
この後なんとなく発言を促されるので、わたしも以下のようなことを述べることにしている。
「神奈川県の教員として採用されるに際しては、教育委員会が作成した『宣誓書』に署名捺印をした。そこには日本国憲法を尊重すると書かれていた。憲法の前文には『……政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し……』と日本人民としての決意が明確に述べられている。九九条には『公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』、さらに九八条には『(憲法の)条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない』ともある。
したがって指導要領の言う『国旗・国歌の意義』も憲法と矛盾しないように解釈するのなら、そこには『政府の行為による戦争の惨禍』において『日の丸』や『君が代』が果たした『意義』が含まれる。
したがって『教育公務員』として『国際社会のなかで……信頼される人間としての資質を身につけさせる』ためには、人権や平等思想を否定する天皇制国家と、その侵略行為を象徴する旗や歌が国家権力によって強制されているからこそ『不起立』という行為によって反意をしめすことが必要であり、それが生徒に対して示すべき『範』だと結論せざるをえない。
にもかからずそれが『極めて不適切な行動』として認識されているということは国旗・国歌の『意義』だとか、それへの『適切な態度』の解釈が教育行政を担うはずの教育委員会とは現状では違っているとということであり、たいへん残念なことだ。」
これに対して高校教育課の人たちは何も反応しない。そう決められている。
数十秒間の「歌」に、教育委員会―文科省―日本政府―支配階級はなぜここまでこだわるのか。それは惰性などではなく、かれらにとっては欠くべからざる「教育的効果」が存在するからだ。

不起立の根拠

わたしは担任として卒入学式に出たときに座ることにしている。最近では一八年度の入学式、二〇年度の卒業式と今年度の入学式だ。神奈川県のホームページには「不起立教職員」の数が公表されているのだが、わたしが座った年だけ「1」であとは「0」となっている。それほど後退を余儀なくされているわけだが、ここから前進するためには何が必要か。
まずは理論上の弱点を見ないわけにはいかない。「日の丸」・「君が代」反対運動における理論は「天皇制の象徴」「侵略戦争の旗印」から「思想・良心の自由」の侵害へと軸足が移ったように見えるがそれは後退か、それとも前進なのか。
わたしは理由を問われれば「えこひいきはしない」つまり「特別な存在をゆるさない」という原則を、まず答えることにしている。天皇制も、侵略の歴史も、人権侵害も、この原則から矛盾が導き出せるし、日々の教育活動とも連続するからである。
「特別な存在」=「神」を人民それぞれの内心に注入することで支配階級は人民の反抗を抑え込んできた。キリスト教が欧州の労働者階級の闘争を抑え込んでいたのを観て伊藤博文は日本で「天皇制」を作った。それ以来、一枚の布、数十秒の歌に日本の支配階級はあらゆる手段を講じてこだわってきた。だからそれへの抵抗の理論も本質的には「天皇制」反対でなければならないはずだ。しかし「思想と良心の自由」としての主張へと曖昧になってきた。

労働組合が必要だ

そのいっぽうで、不起立であっても「人事評価」で低い査定をつけられることもなく、同僚から煙たがられたり、遠くに異動させられることもなく、県教委も「粘り強く指導していく」という線に留めている。ほぼ一〇〇%が起立しているとはいえ、歌う職員はいないし、「不起立」も同僚の多くから支持されている。これらは労働組合を抜きにはありえない。各個人の抵抗闘争に見えるものも歴史的に見れば、組織があるからにほかならず決して英雄的個人の成果ではない。この点は労働組合不要論がしばしば聴かれる最近の風潮にあって強調されなければならない。
そこで考えなければならないことは今日の状況においても組織を残せているのは個人的自由権へと主張を後退させたからなのか、それとも主張を後退させたから思想状況が、すなわち闘争が後退したのであろうか。この矛盾するかに見える両面を矛盾なく統一しようとする不断の闘争が前進を可能とするのだと、わたしは信じている。
【藤原晃・学校労働者】
(『思想運動』1078号 2022年7月1日号)