労働者通信
労働者が発言する意味
ある学校の些細な抵抗から

 勤務校の文化祭は、例年土日に公開、月曜日の午前に後片付けをするのが恒例だった。午後は授業なしのため、教職員も年休が取りやすい。しかし今年は、その午後に三時間の授業が予定されていた。
文化祭担当の教員に聞くと、例年通りの時間割の予定としていたが、校長から反対されたとのこと。今年はコロナの関係で一日だけの公開とはいえ、この話を聞いた誰もが「あんまりだ」と不満を口にした。
実はこれまでにも、会議の時間外延長や、職員の意見を反映せずに学校運営をしようとする校長の態度は問題であると、教職員の中で共有されていた。それらに対し、一昨年から口頭での申し入れ、校長交渉、文書での改善要求、という段階を踏んで是正を求めてきていた。しかしその場では「善処します」と回答するものの具体的な動きはほぼ無く、誠意を感じられないまま、教職員の不満はつのっていた。
職員会議の数日前に分会総会を開催し、文化祭後の月曜日の時間割について対応を検討した。いろいろな意見が出された末、職員会議ではそれぞれが「片付け後の授業」に反対発言をすることを確認した。職員会議では分会総会で確認したとおり問題を指摘した。そしてコロナの感染状況が不透明なこともあって再提案されることとなった。しかしこの時に発言したのはわたし一人だった。
文化祭が迫る朝の打ち合わせで、片付け後に三時間の授業を行なうとの計画が再度提案された。これまでの校長の不誠実な態度への不満も重なり、打ち合わせが終わるや否やわたしは、校長に全職員の前で議論するべきであると詰め寄り、再度職員会議でとり上げることを確約させた。
そして次の職員会議。
わたしは挙手して反対理由を一通り述べると、校長は「生徒の学習時間を職員都合で削るわけにはいかない」と同じ理由を繰り返すばかりだった。「生徒も連日の疲れが溜まり授業にならない」とわたしが言うと、「既に職員会議で決まったことであり、いまさら変更できない」と言う。「職員会議で決定されたというのならば、今この職員会議で覆せるはずだ」「職員の理解を得ようともせず、合理的理由なく強行するのは恣意的運営だ」「片付け後に授業をしてもしなくても、他になんの影響もないため問題はない」というやりとりが続いた。
すると校長は、「ほかの先生方の意見を聞きたい」と発言を求めた。一〇秒ほどの沈黙。反対意見の発言とは、それほどまでに厚い壁なのか、とわたしはあきらめかけたとき、「休校や分散登校、さらに発熱やワクチン接種理由の出席停止が今年は異常に多い。その影響で実習が未受講の生徒が多く、その補習に連日超過勤務が続いている。午後に授業がなければ補習に充てられる。それは校長も十分承知のはずだ」「三学年の担任としては、丁度就職試験期間の只中であり、そのための指導に少しでも時間が欲しい」などの意見が数人から続いた。そしてついに校長は「……生徒の補習が理由であれば、最終日の午後は授業なしとしたい」と言った。
今回は労働条件を理由に真正面から覆すことができたわけではないし、学校を取り巻く多くの矛盾や困難に比べれば些細なことに違いない。
しかし無理だとあきらめていたことを自分たちで覆すことができた意義は大きい。
一〇年ほど前なら事前に申し合わせるでもなく、いい加減な提案は多くの反論に会い、紛糾は免れなかった。
長年教育現場において職員会議は、学校内の最高議決機関として慣行的に機能していた。しかし、最近はどの学校でも職員会議での発言が無くなり、ただ管理職や企画会議からの「報告」を聞くだけの場となっている場合がほとんどだ。その理由として、二〇〇〇年に『学校教育法施行規則』が変えられて職員会議は「校長が主宰」し、「校長の職務の円滑な執行に資するため」のものだと規定されたこと。そして二〇一四年には「議長団の互選」や「挙手や投票等」までが不適切との文科省「通知」が出されたから、と言われる。
もちろん法律が変えられた影響は大きい。とはいえ、教職員が学校を動かしている事実は変わりようがない。つまり労働者としての主体性の問題と捉えるべきなのだ。
その主体性を作るのはストライキだ、とわたしはいつも主張している。おかしいと思っても黙っているのは、われわれの職場をわれわれが管理することを放棄することにほかならない。職場はそこで働く者のものである、という自覚が無ければストライキは成功しないだろうし、またストライキがその自覚を作る。さらにその自覚が階級対立を認識させるのだ。
校長が撤回を発言した直後、誰かがパチパチパチと手を叩いた。隣席の教員がやめさせてしまったらしいが、みんな心の中では大きな拍手を送っていた。すべての労働者が本当に手を叩けるような職場をたたかいとりたい。
【藤原晃・学校労働者】