追悼 卞宰洙さん
朝鮮の人と朝鮮人


 「おととい卞さんが亡くなった」。知らせてくれたのは土松さんだった。十月六日に逝去、享年八八という。突然の訃報に、「あぁ」と力のない高い声が漏れ出た。そして、出さずにしまった手紙のことを思った。
 卞宰洙さんとは個人的なお付き合いと呼べるものがあったわけではない。卞さんの『朝鮮半島と日本の詩人たち』(スペース伽耶、二〇一六年)の書評をわたしが書いたのは二〇一六年の夏。著者からお礼のはがきが届いたときには恐縮した。的外れな批評をしたのではなかったようで安堵した。お目にかかったのは一度きり。今年五月に卞さんを講師に迎えたHOWS講座「小林勝と日朝連帯の思想」の席上であった。それで全てである。しかし追悼とは、いつも感情的にのみあるとは限らないし、死によって、その人が生者から奪い去られるわけでもない。現に、卞さんはあの日と変わらずわたしを見据え射抜いている。
 はじめて目にする卞さんは、『祖国と青春と』(朝鮮青年社新書、一九八五年)や『ロシア文学史』(新読書社、二〇〇五年)から受ける、あの徹底性に貫かれた仕事を思わせる人の風貌をしていた。歴史の先駆者イエスも狭き門より入れと命じている。そういう烈しい個性が、小林勝を語りながら、引きちぎるようにして発せられる言葉の端々に窺えた。
 「(一九四五年の解放まで)日本人であったんですよ、朝鮮人は。皇国臣民ですから。」「(小林を除いて)日本の作家で、在日朝鮮人の民族教育の問題を取り上げた作家は一人もいません。」「わたしの故郷は名古屋ですよ、朝鮮じゃない。……」それらの言葉は、到底容認できない事実を無理にも通過するときの呻きだ。だからこそ、それは事実に耐えて生きねばならなかった朝鮮人への共感と、事実を突き破る反発力を同時に備え、その人をして真に人間肯定の文学を成させた。
 講座は卞さんの話を終えて討論へ移った。わたしはあらまし次のような感想を述べた。朝鮮の人から見て、どのように日本人は、「わたし」は、見られる存在か。そのことを日本文学は総体としては考えてこなかった。『朝鮮半島と日本の詩人たち』では九〇もの詩人の朝鮮観が紹介されている。朝鮮の風物や風景の中の朝鮮の人を好意的に詠った、そういう詩人は日本にたくさんいた。しかしあくまで見る側の立場であって、その反対は滅多には成立していない。
 卞さんはわたしを見てから静かに話し始めた。「些細なことかもしれませんけれども、かれはねえ、朝鮮人と言わなかったよね。『朝鮮の人』と言った。なぜ朝鮮人と言わないで、『朝鮮の』と言えるか。これは朝鮮人に対する何かの引け目、つまり、朝鮮人という言葉自体が差別語になっているんですよ、日本では」。
 いまや口調は激していた。その眼は鋭く、わたしからは離れてくれなかった。わたしも眼を逸らさなかった。それとも逸らせなかったのか。わたしは恐ろしかったけれども、いま眼を逸らせば重大な何かから背を向けることになる、それだけを一途に自分に言い聞かせて励ましていた。
 「在日朝鮮人にとってはねえ、『朝鮮人』と素直に言ってほしい」。再び抑制された落ち着いた声が、虚けたわたしの脳髄に入ってきて、わたしは震えた。
【伊藤龍哉】