テオドラキスを偲ぶ
音楽家であり共産主義運動の戦士
ギリシャの音楽家ミキス‐テオドラキス(一九二五・七・二十九〜二〇二一・九・二)が日本で知られているのは、一九六〇年代から七〇年代にかけての映画音楽(『その男ゾルバ』、『Z』、『セルピコ』、『戒厳令』)と民族楽器ブズーキの音色によってではないだろうか。
なかでも映画『Z』は、民主左派連合(EDA)の国会議員ランブラキスが一九六三年に暗殺された事件を描いていて、実際の葬儀デモで「ランブラスキは生きている」というシュプレヒコールが上がり、「生きている(ジー)」という音をタイトルにしているのだが、その実際の抗議行動のなかでうたわれたのがテオドラキスが作曲した「エピタフィオス(墓碑銘)」(詩=リツィオス、一九三六年のテッサロニキでのストライキで殺された息子を嘆き悲しむ母親をうたったもので一九五八年に曲が発表されるとたちまちヨーロッパ中で評判となった)であった。政府は反政府闘争の拡大をおそれ、以後テオドラキスのうたをうたうことも聴くことも禁じることにした。殺されたランブラキスの意思を継承する政治組織ランブラスキ青年同盟がただちにつくられ、テオドラキスはそのリーダーになる。一九六四年にはEDAより出馬して当選、国会議員に。一九六七年の軍部によるクーデタがおきて地下に潜るも逮捕されたが一九七〇年にヨーロッパ各国の救援運動の力で釈放、そのときの獄中メモを整理したものが『抵抗の日記』(一九七五年 写真)としてまとめられ、日本でも出版。
テオドラキスは一九四三年アテネ音楽院(〜五〇年)で、一九五四年パリ音楽院で音楽を学んでいる。しかし音楽だけで生涯が彩られてはいないことは前述の事柄でもわかるだろう。テオドラキスは激動のギリシャ現代史の中心で生きた。一九三六年からはじまる軍部独裁に反対して作曲した「ザカリアス隊長の歌」(一九三九年)はレジスタンスのうたとして広まる。一九四〇年イタリア・ドイツの枢軸国の侵略と戦う民族解放戦線(EAM)の武装組織である民族解放人民軍(ELAS)が結成され、参加。そして共産党に入党。一九四四年、共産党主導のパルチザンは全国土四分の三以上を解放したが、連合国側の利害調整によってイギリスの支配下に。内戦(〜四九)がはじまり、共産党は非合法化(〜一九七四年)。レジスタンス活動を始めるが幾度も生命の危機にさらされ、右眼失明。軍隊に召集され再教育という名の拷問を受ける。音楽劇『死んだ兄弟の歌』(一九六〇年)は、内戦時に対立した人民の「和解」(やがて帝国主義者との闘争へ向かうだろう)をうたったものである。
テオドラキスの手がける音楽は多彩で、オーケストラや室内楽をはじめバレエ音楽(『ゾルバ』など)、オペラ(『アンティゴネ』など)、ネルーダの詩に曲をつけたカンタータ『大いなる歌』(一九八〇年)やバルセロナ・オリンピックのためにつくられた『オリンピックの歌』、そして数多くのレベティコ(民衆歌曲)があり、マリア‐ファラントゥーリやミルバをはじめ多くのヨーロッパの歌手が競ってうたっている。
テオドラキスにとって政治と音楽は(パブロ‐ネルーダの詩業のように)分けられるものではなかった。時代を切り開こうとするギリシャ人民とともに生まれ育まれてきた音楽は、われわれ日本人民の音楽でもあるべきだろう。テオドラキスの闘ってきた隊列に加われるよう努めることで、われわれはテオドラキスを偲びたい。
【井野茂雄】 |
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