十月社会主義革命一〇四周年記念集会が開かれる
映画『世界の河はひとつの歌をうたう』上映
河はわたしたちのもの!
砂漠を河に変えよう!
                       

 十一月三日(水曜日)に東京・水道橋にある全水道会館四階大会議室にて、十月革命記念集会が六一名の参加で行なわれた。集会は、藤原晃さんが司会で、主催者を代表して土松克典さんが挨拶を行ない(要旨別掲)、本集会のメインイベントである映画『世界の河はひとつの歌をうたう』の上映をおこなった(映画解説は井野茂雄さん)。最後は、国際連帯メッセージ(今号付録に掲載)の紹介をして、インターナショナルを斉唱して集会を締めくくった。
 上映された映画は、ドキュメンタリー映画の巨匠ヨリス‐イヴェンスが監督を、クラシック音楽の大作曲家ショスタコーヴィッチが音楽を、ドイツの劇作家ヘルベルト‐ブレヒトが作詞を、フランスの著名な作家ウラジミール‐ポズネがナレーションの文章の執筆というように、労働者階級と社会主義の立場に立つ、各国の第一級の芸術家が制作に加わってつくられている。映画のなかで野太いバス・バリトンの声で高らかに歌いあげているポール‐ロブスンは、映画への出演を依頼されたとき、「(自分が歌う歌は)平和と自由の歌、万国の労働者の友愛の歌だった。もちろん喜んで歌おう」と応じたという。
 しかし、世界労連の大会への結集を呼びかけるこのドキュメンタリー映画を、メッセージ性の強さから、プロパガンダ映画だと受け取る向きもあるかもしれない。たしかに、「労働は尊い」というナレーションから始まるこの映画は、労働を賛美し、労働者の団結を説き、ブルジョワジーや植民地主義を糾弾するというように、映画製作者サイドの主義主張が前面に出てはいる。
 本紙一〇六九号(十月一日号)に掲載の、この映画の紹介記事で、筆者の井野さんは「労働者階級の闘いを懐古するための映画ではないのだ」と書いている。つまり、わたしたちがこの映画をどう観るのかが問われている。ボールは、一九五三年当時の製作者サイドから、約七〇年後のいまを生きるわたしたちに投げられている。単なるプロパガンダ映画だと切り捨ててしまっては、この映画に含まれている社会変革への契機を見落としてしまうとわたしは思わずにはいられない。
 集会当日、わたしは暗澹たる思いで会場に足を運んでいた。集会三日前の衆議院議員選挙で日本維新の会が躍進し、壊憲勢力が議会の三分の二を占めることが判明したからだ。そればかりではない。いまわたしたちが生きる社会は、残念ながら、資本主義が社会主義に「勝利」し、わが世の春を謳歌している。労働運動も低調を極め、階級闘争など夢のまた夢という現状のなか、ともすればわたしたち日本の労働者人民自身が、資本主義の跋扈を許さない社会を夢想することすら難しい苦境に追い込まれてしまっているからでもあった。土松さんが主催者挨拶で、生産手段の私的所有を廃止し、労働者自身が生産手段を握るという社会変革を提起しているが、いまの社会状況を考えると、その実現はあまりに困難だと思えてしまう。
 しかし、その社会変革は途方もなく無理難題であり、諦めるべきことなのだろうかと問わずにはいられない。「富をつくるのはわたしたち労働者である。もし労働者に生産が任されているならば、誰も寒さに震え、飢えに苦しみ、住む場所を追われることもなく、幸せであるはずだ」。映画はそう語りつつ世界各地の労働者たちの姿を紹介する。カメラは、依然として搾取労働に従事させられ、劣悪な衣食住環境に置かれている人民の現状を告発しつつも、治水灌漑工事、木綿農場、山林、炭鉱、穀物農場、造船所、製鉄所、紡績工場、自動車工場などにおける、さまざまな労働に共同して奮闘する労働者たちのいきいきとした表情を真正面から捉えている。この社会はわたしたち労働者階級によって現につくられているのだ、と教えられる。
 正直わたしは、その映像に圧倒された。たしかに、映画一本でこの社会を変えられるとは、わたしも思わない。しかし、映画で紹介されている七〇年前の実践をそのまま繰り返すことはできないにしても、社会変革のための小さな一歩を踏み出すための想像力をおおいに喚起させられた。「河はわたしたちのもの。河を思い通りにする。あらゆることを共同でおこなう。そして砂漠を河にかえよう」と映画は語りかける。本来、労働者人民が社会の主人公であり、資本による搾取のない社会は実現可能なのだと確信し、わたしは会場を後にした。
【安在郷史】