小熊秀雄生誕一二〇年に寄せて
詩人小熊秀雄の今日的意義
生誕記念の催しが立て続けに開催

                  
 今夏から来春にかけて小熊秀雄(一九〇一〜一九四〇)生誕一二〇周年を記念した企画が、立て続けに催される。すでに先行して、『詩と思想』七月号(土曜美術社出版販売、特集「小熊秀雄」)発行や「印牧真一郎メモリアルコンサート『飛ぶ橇を歌う』」(十月十九日、企画・制作=歌のあつまり風)が好評裡に終わっている。続いて東京都内で「第三九回長長忌『時代に抗い、しゃべり捲れ〜小熊秀雄を唄い、語り、唸る〜』(十一月二十八日、主催=小熊秀雄協会)、「生誕一二〇周年小熊秀雄展 遊歩道のスケッチ(仮)」(二〇二二年二月一日〜三月十三日、東京・豊島区立郷土資料館企画展示室)が予定されている。
 わずか三九歳でこの世を去った小熊だが、実に六〇〇編近い作品を書き残している。戦前のプロレタリア文学運動の詩人の中でも、アヴァンギャルド精神に溢れた型破りな詩人として傑出している。旧来からの伝統的な短詩型の抒情詩ではなく叙事詩を。しかも長編叙事詩こそ、時代と労働者民衆を語るにふさわしい形式だ、と主張し実践した詩人であった。
 と同時に童話・小説・評論(美術、演劇、文学、時事)、絵画やデッサン、さらには漫画「火星探険」や人形劇の台本を書いたり、絵画展や詩の朗読会を企画するなど、ジャンルの垣根を越えて活躍した。

小熊が生きた時代〜革命と戦争の激動期

 小熊は、日本帝国主義が、日露戦争、韓国併合を目的とした日韓条約調印、第一次大戦等で、西欧列強の対外侵略と競合しながら、植民地主義的近代国家を目指した時代に、北海道小樽市で洋服仕立て人の子として生まれ、三歳で母を亡くし、一一歳の時に、父親と継母に連れられて樺太〔サハリン〕に渡った。
 そして高等小学校卒業(一五歳)後は、二〇歳になるまで養鶏場の番人、炭焼きや馬の飼育の手伝い、昆布採り、木材伐採人夫、呉服屋店員、さらには(作業中、中指二本失う破目となる)製紙パルプ工場の職工などの仕事に従事。樺太の寒さと厳しい労働環境の中で雑役労働者として働きながら、常に本だけは手放さなかったという。
 一五歳の時に、世界を震撼させたロシア革命が起き、その影響を受けて日本では米騒動や労働争議が各地で起き、朝鮮では日帝の植民地支配からの解放を求めて二〇〇万人が決起した三・一独立運動が起こった。さらには日本政府はシベリア出兵を宣言するなど、革命と反革命がせめぎ合う激動の時代に、小熊は多感な少年時代を過ごした。
 そして小熊が二一歳の時、父親違いの姉ハツの世話で旭川新聞(現在の「北海道新聞」)の見習い記者となり、翌年には早くも「水をえた魚」のごとく、文芸欄に童話や詩を次々と発表し、注目されはじめる。この頃から、東京に出てペンでもって生計を立てる志を立てるのである。小熊の才能が全面開花するのは、一九二八年(二七歳)に新聞社を退社して、妻つね子とともに三度目の上京をしてからである。
以来、病に伏してこの世を去るまでの一二年間、池袋周辺に住みついて活動を展開。この地域には、若き芸術家の卵たちがアトリエを作り、喫茶店や安酒屋にたむろし、夜遅くまで芸術談義に花を咲かせるなど、小熊が名付親と言われている「池袋モンパルナス」で多彩な活動を展開するのである。
 しかし世界的金融恐慌が始まり、日本は、満州事変を契機に、朝鮮、中国等アジアへの植民地支配をいっそう強める一方、国内では治安維持法が施行され、文化統制が日増しに強まっていった。
そうした状況に対抗して小熊は、「プロレタリア詩人会」(一九三一年)、「ナルプ(日本プロレタリア作家同盟)」(一九三二年)に参加するなど、プロレタリア文学運動の仲間たちと交流しながら、精力的に執筆活動を展開する。小林多喜二が築地署に検挙・虐殺されるなど露骨な権力の弾圧が強まり、多くの文学者が沈黙を強いられていく。そうした中で、小熊は、詩「しゃべり捲れ」の精神を貫き、沈黙をせずに抵抗を呼びかけるのである。
 小熊が亡くなって今年で八一年になる。今日の日本社会の閉塞的な文化、イデオロギー状況は、運動の内部にも波及している。小熊から今日のわれわれが学ぶべきことは、決して少なくない。紙面の都合で、四つの点に絞って紹介してみたい。

小熊から今日学ぶべき四つの点

 一つは、議論、論争の重要性についてである。別掲の詩「しゃべり捲くれ」とともに、詩「論争に就いて」では、「我々は何故このように議論し/何故このように口を尖らし/唇を、フリュートのように鳴らすのか/そのことを避けてはならない。/青年よ、議論を避けるとき/君は常識家になるだろう/東洋流に、議論を軽視してはいけない」「君が若し沈黙を愛するなら、/相手の、君に対する憶測と誤解とを警戒し給え」「夜を徹して語ることは悪くない」「我々はきょう中心的な問題に就いて争い/明日笑って握手しよう」「太い糞をするために/小さなケツの穴であるな」と。個々の活動家同士の間柄だけでなく、昨今、戦後の運動の対立・分裂の歴史を克服し、統一戦線の必要性が叫ばれているが、その内実を深め、確固としたものにするためにも、議論、論争は避けてはならないと思う。
 二つめは、異民族への連帯の眼差しである。小熊は、「大日本帝国」の下で強権的に同化させられたり理不尽に搾取され、人間としての存在や尊厳が否定されている人たちの立場に立って、作品を書きつづけた。それは異民族についても同様であった。
 「朝鮮人、支那人は日本人より劣る、アイヌは和人より愚か」と洗脳された時代に、ましてやプロレタリア文学が弾圧され、ほとんどの抵抗詩がつぶされた時代に書かれた長編叙事詩(朝鮮「長長秋夜」、中国「プラムバゴ中隊」、アイヌ「飛ぶ橇」)は傑出している。いずれも被抑圧民族の姿を、長所、短所も含めてきわめてリアルにその特徴を捉え、根底には小熊らしいユーモラスな明るさが読み取れる。
 朝鮮民族との連帯を歌った「長長秋夜(じゃんじゃんちゅうや)」では、朝鮮民族が古来から受け継いできた白衣着用の風習を抹殺しようと、「手に手に墨汁をたっぷり付けた/筆をふりあげて/肩から斜めに/墨汁をもって老婆の白衣にきりかかる」日本統治の非情な姿とそれに憤る老婆たちの悲哀が、と同時に生活を貫く力強さ、明るさが伝わってくる。読み手には、長い長い夜の先の向こうに見える民族解放の姿をも予感させる。
 「プラムバゴ中隊」(一九三四年)では、満州国樹立に対抗する朝鮮人パルチザンを、槇村浩の長編詩「間島パルチザンの歌」(一九三二年)のように直截にパルチザン闘争を讃える詩ではなく、パルチザンの内部に分け入って人間味あふれる形でユーモラスに描いている。
 「支那の兵隊は/戦争が終わると旗を捲いて四方に散る、/季節が来れば集まる、/そして満州の大舞台を出没自在、/まるで彼等はプラムバゴ(注 中国、満州に咲く丸い四斗樽に近いホオキ草に似た植物)のようだ。」。いろんな地域、工場、職場から応募してきたゲリラ兵を統率する中国軍は、日本軍同様に食料不足で苦しみ略奪や性暴力を行ないがちだが、堅くそれは禁止されており、その危惧があれば必ずその直前に上官が説得にやってくる。日本軍との比較でパルチザンの統率性がよく表現されている。
 中国人民との連帯という面では、広東の記者として来日していた詩人雷石楡と小熊との交流から生まれた「日中往復はがき詩集」も必見である。
 「アイヌ民族のために」と副題を付けた「飛ぶ橇」では、自然破壊と先住民族を弾圧する和人に対して、アイヌ民族は和人に対しても差別をせず、自然を大事にして、狩猟した山野の獣に対しても、神の恵みとして祈り、肉のみ切り取って残りは捨てる和人と違ってすべてを無駄にせず、自然の厳しさの中で生き延びる術をもつアイヌの文化を、見事に表現している。
 三つめは、風刺と笑い、ユーモアの重要性である。
 詩「現実の砥石」という作品の最後に「始末にをへない存在は/自由の意志だ、/手を切られたら足で書こうさ/足を切られたら口で書こうさ/口をふさがれたら/尻の穴で歌はうよ。」といったように、小熊の抵抗精神は、いかなる弾圧の下でも常にユーモアを失わなかった。
 満州事変を契機に国内のファッショ化・軍国主義化がいっそう露骨になる中で、風刺詩人・漫画家たちが共同して「サンチョ・クラブ」を結成する(一九三五年、小熊三四歳)。「泣くよりも笑え! 風刺的な笑いをもって相手を打ち倒せ!」と機関誌『太鼓』(三号で廃刊)を発行しながら、ジャンルの垣根を越えて風刺と笑いを武器にした総合的な表現活動を展開したのである。新聞連載「文壇風刺詩」では、志賀直哉や佐藤春夫など、読者に媚びて生ぬるい「微温な主体状況」にあった文壇小説家たちのみならず、プロレタリア文学の同志に至るまで、歯に衣を着せず批判したのであった。
 四つめは、「日本的精神」への批判である。詩「日本的精神」などの作品を通して、今日再び台頭しているナショナリズムの神髄をなす日本的精神に対する批判を行なっている点である。
 しかし日本は、盧溝橋事件勃発(一九三七年)を契機に、中国への全面的な侵略戦争に突入し、国家総動員法発令、産業報国会、大政翼賛会の結成、左翼・民主的な文学雑誌への弾圧が続く。街では戦争反対を唱えるものを異端視、排撃する「草の根ファシズム」が生活の隅々まで浸透する。そうした厳しい閉塞した時代の中で、小熊は肺結核を患いながらも薬代を満足に払えず、まともな治療も受けられなかったが、死の一週間前まで寝床につきながらペンだけは離さず、波乱万丈の人生に幕を下ろさざるをえなかったのである。
【高橋省二】