女性労働者通信
コロナ禍、「普通」の生活について
田口ケイ(介護労働者)                          

 通勤ルートにある公園そばのバス停は、少し遠いが道中に植物の四季を感じながら歩くことができるが、途中の通路わきにある展望台の下の空間には先の尖った石がいくつも並べられている。その風景を以前は気にも留めなかったのだが、最近は、そこから目を背けて歩くようにしている。なぜなら、その尖った石が、近年、公共の場におけるホームレスの滞在や野宿を妨げる目的で置かれたり作り変えられたりしている、「排除の石」とか「排除ベンチ」などと呼称されているものの一種ではないかと疑うようになったからだ。

他人ごとでないホームレス女性殺害事件

 昨年、渋谷のバス停の座りにくい小さなベンチで寝ていたホームレス女性が頭を殴られ死亡する事件があった。間もなく一年になるが、彼女の年齢が自分に近いのと、新型コロナ感染拡大の影響で失業し、家賃滞納で野宿生活を送ることになった経緯を知り、他人ごとではないとの思いを抱いた。事件後、「彼女は私だ」と言って、菅政権の「自助」を重視する政策に強い懸念をもつ人たちが暴力と排除に抗議する追悼デモを企画して多数参加し、ツイッターにも共感の書き込みが多く見られた。それに対して、「社会のせいにして騒ぐより、ホームレス支援に力入れたり募金したりの方が意味不明なデモより建設的」「男性がホームレス狩りに遭っても抗議しないのに女性ホームレスの場合にだけ抗議するのはおかしい」「政治利用するな」などという無理解なツイートの多さにも驚かされた。生存権は憲法で保障されているものであって、個人的なホームレス支援や募金で賄うものではない。しかも、ただ生存のみではなく、最低賃金法や公営住宅法やホームレスの自立支援の法律などによって、人間たるに値する生存を保障する、ということのはずだ。
 殺害されたホームレス女性の場合、新型コロナ感染症の流行拡大前までは、スーパーで試食販売員として働いていたが、コロナの影響でスーパーでの試食販売が中止され、仕事を失った。「試食販売」の多くは「業務委託」という働き方で、労働者としての権利が保障されているわけではない不安定な働き方で、社会保険料も自己負担だ。当時、菅首相は、コロナによる生活困窮者に対する対策を聞かれ、「最終的には生活保護という仕組みがある」と言ったが、生活保護の内容を、動物的生存の維持から人間の尊厳を守る権利として朝日訴訟などで闘ってきたのは人民と労働者であって、自民党は、生活保護削減を狙い、バッシングを率先してきた。運用上も、扶養照会の問題や水際作戦によって受けにくいものとなっていることが指摘されている。ホームレスの女性も、コロナ禍で仕事を失ったとしても、感染拡大が収まるまで生活保護を受給していたら、コロナ収束後、また仕事について自活していくことが可能だったと思われるが、SOSを出しにくくしていた仕組みが彼女を路頭に迷わせ暴力が彼女の命を奪ったのだ。

年金の低さ・安い賃金、住宅喪失の危機

 事件の時、女性は六四歳だったが、わたしもあと二年で前期高齢者だ。わたしが、誕生日に唯一プレゼントとしてもらった、電子版「ねんきん定期便」についてのお知らせメールからログインして、二年後の六五歳からの受給予定年金見込額を試算してみると、月額一二万円余りという結果であった。それは東京都の単身者の実質的な生活保護のレベル(生活扶助+住宅扶助+社会保険料等免除)に満たないと思われた。もちろん、厚生労働省がいうところの、「日本の公的年金は『二階建て』」のうち、ホームレス女性のように「業務委託」等の働き方で厚生年金に加入していなかったりすると、一階部分(国民年金)しか受給できない人も多数いるので、少ないとはいえ二階部分まで受給できるだけでも恵まれているかもしれない。ずっと低賃金の非正規労働者や、収入が不安定なフリーランスなどの場合では、生活のために死ぬまで働き続けるしかない事態も予想されるというレポートもある。
 死ぬまで働こうとしても、現実は、わたしも定年退職後の再就職でハローワークに通ったが、高齢者となると、最低賃金で短時間の仕事でも採用されなかったり、最低生活費にも届きにくい。総務省によると関東圏の単身者の消費支出平均は一八万三五〇〇円/月となっているので、平均の半分程度に生活を切り詰めなくてはならない。コロナ禍では、収入が激減し、住宅ローン返済不能や家賃滞納で「住居喪失クライシス」が拡がったが、日本では公営住宅が圧倒的に少なく、低所得者の住宅困窮はリーマンショックの時、非正規労働者のホームレス化や貧困ビジネスの温床になっている。民間アパートを借りる場合、わたしのような単身高齢者は孤独死の問題や、認知症などによる火災の危険性が敬遠されるので入居制限があるといわれており、行き場を失う可能性がある。

コロナ禍による問題は一過性のものか

 新型コロナ感染拡大のさ中、希少な医療資源を割き、二兆円を超えると試算される赤字を残した東京オリンピック・パラリンピックは、「金のない国はメダルが取れない」とも言われ、テーマに「多様性と調和」を掲げていたが、その陰では、ホームレスを世間の目に触れないように追い出したり、国立競技場の建て替えでは都営住宅から退去を余儀なくさせるなど弱者に対する排除がまかり通っていた。また都市の再開発など土地が投機の対象となる中で、保有資産の価値を下げる路上生活者を「迷惑」と考えたりしている。そうやって弱者を排除していく社会は、ホームレス女性の殺害に加担していた、とも言えるのではないだろうか。
 新型コロナ感染者の数が減少してきて、「日常回復」とか「新しい資本主義」ということを新首相が述べている。しかし、かつて「日常」の中で行なわれてきた生活保護バッシングやホームレス排除は、ナショナルミニマム(国民最低限)の指標を低下させ、最低賃金の抑制や賃金水準低下による年金引き下げ、社会保障の後退をも許容している。労働条件が劣悪でも辞められない理由として転職の不安や収入減による生活の困窮を上げる人が多い。テレワーク・リモートワークが増え、柔軟な働き方ができるようになったと言われているが、労働時間が増加しても残業代が支払われなかったり給与削減になったという調査もある。労組の組織率が低下し労働権を守らせる闘いができない中で生き残り競争による労働者間の格差も拡大している。コロナパンデミックは、富裕層に恩恵をもたらしその資産を倍増させた一方、貧しい者は深刻な生活苦に陥っているなど、社会のさまざまな問題を顕在化させたが、それが一過性のものだとか自己責任だと考えることはできない。コロナ前を「普通」と思い、それを取り戻そうとしたとしても、公園バス停そばの「排除の石」は、そのするどい切角で、通るたびにわたしを脅かし続けるような気がする。
 政府は、「人生百年時代」とか「生涯現役」と言って、定年年齢を七〇歳まで延長する努力義務や、年金受給引き延ばしによって社会保障の「破綻」を防ごうとしている。継続雇用や再雇用で、給料は三分の一とか半分とかになる場合も多い。労働権を保障させる闘いによってしか排除をなくし、人間として健康で文化的な生活を送ることはできない。
(二〇二一年十月十九日)