状況 2021・政治
衆院選・野党共闘をめぐる思想状況
あらゆる手段を講じて階級意識の形成を
職場や地域を基礎に闘いを組んでいく意味を再確認しよう
選挙が近づくと商業メディアのみならず各左翼党派の機関紙までもがすべて「選挙」の票取り合戦に波長を合わせる。左右関係なく選挙の結果がすべてで、それなくしては闘いも何も前進しないかのごときだ。
「選挙」が無駄と言いたいのではない。「投票行動は?」と聞かれれば、わたしは「自・公・維新の議席を減らす投票行動を!」と答える。しかし、選挙運動は大衆的運動・政治行動の一つの手段であり、目的ではないのに、現状はこの命題が逆転している。このことを今次の選挙戦を通じても、問題提起し議論すべきだ、とわたしは言いたいのだ。
われわれは労働者階級の階級意識の形成を一途に主張してきたし、今回も主張する。
「野党共闘」への反応
いま手元に各党派の機関紙誌がある。それを手がかりに「避」階級意識の不可能性と階級意識の可能性を主張したい。
「戦争法反対闘争以来、実績を重ねてきた『野党共闘』の真価を発揮するときだ。」(『新社会9/21』)
「来る衆院選に希望が見えてきた」(『I 女のしんぶん』 9/25』)
「安倍・菅政治打倒・政権交代へ、まずは一歩を踏み出そう!」(『コモンズ』9/10)
「候補一本化を求め、自公を打倒しよう!」(『プロレタリア』9/1)
「党の99年の歴史で、政権協力の合意を得て総選挙をたたかうのは初めて」(『しんぶん赤旗』10/7)……
わたしが見たほとんどの左翼諸団体の新聞類は手放しで「野党共闘」賛成といい、共産に至っては「党史上初の挑戦!」とはしゃいでいる。コロナ対応への不満を追い風として「安倍・菅政治打倒!」「命とくらしを守れ!」「政権交代だ!」と大合唱の様相である。
しかし、戦略と呼べるようなものは小選挙区の「候補者調整」ぐらいである。たしかに、純粋な既存票数の有効分配とそれへの期待感から議席数は伸びるだろう。しかし、選挙とは生活に結びついた運動の一環であるべきで、ただ投票所に向かい名前を書いて通り過ぎることではない。そして活動的な人や諸集団の間に本当の連帯を作るには、それを繋ぐ運動の実践と議論が不可欠だ。
選挙となれば、集票を最優先するために、自らの主張を取り下げ、あるいは曖昧にしてしまうオポチュニズムに陥ってしまう。これをもっとも警戒するべきだ。自らの主張や立場を明確にしないところに議論は起こりえないからである。大衆運動を背景にもたない「共闘」ではそれが顕著になる。個別課題を列挙するだけでは残念ながら本質的な前進は勝ちえないだろう。
たとえば本紙前号三面の横浜市長選の報告にもその警戒すべき事例が読み取れる。
市内各地で取り組まれた情宣活動では地域に根差した課題に地道に取り組んできた住民組織がある区では立民や共産が肩を並べて行動したが、そうでない地域ではそれぞれの政党や住民団体が個別バラバラに情宣していたし、新市長候補も運動経験の無い人物を立てるということも起こった。
現在の状況認識
では運動の方向を決定づけることになる各紙の現状認識はどうだろうか。
たとえば、「菅退陣」については「運動が追い込んだ結果」が大方の評価だ。果たしてそうだろうか? 四月の長野、広島、北海道の国政選挙に続いて七月の東京都議選、八月の横浜市長選と自公が敗れ不振が続いた。各地での運動がなければ「野党共闘」の動きは作りえなかっただろうし、自公推薦候補を敗ることもかなわなかっただろう。また、こうした動きが菅の「退陣」に影響しなかったわけではないこともたしかだ。しかし「追い込んだ」のであろうか?
菅に限らずここ十数年の(麻生あたりからは特に顕著に)自民党政権は、かつてならば、一発退陣を余儀なくされていたような不正や犯罪をものともせず、一時的に「支持率」が下がっても、ほぼ予定どおりに役目を全うして次にバトンタッチ(党内の総裁選挙)している。これを「政権を投げ出した」あるいは「追い詰められた」と解釈するのは間違いだ。本当の敵、支配階級への不支持ではない以上、与党内の「アバター」を変えてしまえば「支持率」も元どおりとなることが繰り返されている。
支配階級は「強制労働」だ「人権問題だ」と中国や朝鮮たたきに必死になっている。では日本の左翼諸党派の見方はどうだろうか。「アメリカと中国双方に等距離の位置から」(共同テーブル)といった「アメリカも中国もどっちもどっち論」や、「アメリカにより対中国の最前線に立たせられている」(『労働新聞』9/15)といったナショナリズム的立場のもの。酷いものになると「中国の覇権主義と人権侵害を面とむかってきびしく批判している」(共産)、と自公に「先んじ」ていると、誇らしげに語る混乱ぶりである。
いずれにも「アヘン戦争」や「黒船来航」以来から今日の中国包囲網にまでつづく帝国主義国列強による一貫した極東支配戦略と、それに抵抗する民族独立運動や国際共産主義運動という階級的歴史的視点が無視されている。
「新自由主義」の書き方についても「行き過ぎた資本主義」という意味でつかわれ、「健全な資本主義」「ルールある資本主義」を呼びかけている。すなわち資本主義を前提としつつ、その中で起こる悲惨を救済する方針しか導き出されない。このような優柔不断な主張であるからその弱点を突かれ岸田や経団連などの「新自由主義の転換=新しい資本主義」といった逆張り宣伝を許している。
共通する弱点――階級対立の無視
以上のように、日本の左翼党派の主張に、共通していることは、「階級対立の無視」である。
しかし現実には、人民の日常生活はますます困難に直面し、階級対立の矛盾に投げ込まれている。
労働は年々過密で職場は息苦しくなるのに賃金は下げられ、消費税は上げられる。健康な食品をあきらめても新しいスマホを買わされる。学校も減らされ、子どもたちはいっそうの学校歴競争の中に追い立てられている。何万円もするゲーム機を買わされ中毒患者を増やしている。大学の授業料は高くなり続け、併せて高価なパソコンまでが必需品とされる。その子育てから解放されたと思ったら今度は親の介護と仕事の板挟みで離職を考えるほどに疲弊している。
その一方で巨大資本には金が溜り、税金を一円も払わない巨大企業まで現われている。その大量に余った金が金融市場に流しこまれ、「カジノ」的金融市場を作り出す。そしてその金を引き寄せようといっそうの競争的環境が作られる。
いま人民の眼前にあるものは階級対立以外の何物でもない。階級対立学説を無視して正確に現在の社会矛盾を分析し未来を予想することはできない。したがって説得力を持たず、人民に訴えかけ組織する力を持ちえない。「野党共闘」が「六項目の共通政策」を掲げても人民に響かないのはそのためではないのか。
それはまるでエネルギーや運動方程式、エントロピー、あるいは原子や分子の存在といった学説を無視すると自然現象を説明できないのと同じだ。今日の科学的概念を無視すればたちまち何百年も前の迷信に逆戻りする。
近年の得票率
二〇〇九年の政権交代選挙ですら六九%だった投票率は最近では五〇%たらずになり、とくに二〇代では四割に満たない。その中で自民も絶対得票率を減らしている。共産はほぼ横ばいから下降しているが、野党全体はもっと減らし、そして投票に向かう層の中でも「無党派層」が増加している。つまり、〇九年の民主党政権のときにはなんらかの変化に期待した層が、「投票しても結局変わらない」と、投票にすら行かない人たちと、行っても既成政党に期待できないと「無党派層」になった人たちとになったように見える。そんな状況が、自公に六割以上の議席を獲得させ、絶対得票率が二割たらずであるにもかかわらずブルジョワ支配階級の意図を着実に実現し続けている。
低投票率と言えば、十月二十四日の参院山口県補選では、投票率は、三六・五四%で前回参院選を一〇・七八%下回り、参院選としては戦後二番目の低さとなった。
しかし、与野党を問わず、選挙でこの「無党派層」を取り込むことに活路を見出し、この層に取り入るような感情的宣伝が繰り返えされる。そして選挙戦がこの「無党派層」の情動性に依拠すればするほど、人気投票化が加速される。そして与党の自公がかれらの都合に合わせて解散し、巨大広告代理店ともタイアップして集票する。
このような選挙の在り様を前提とし集票を最優先する行き方に未来はない。
「階級」の意識化から組織化へ
その一方で「集会、デモ、スタンディング、街宣、署名を絶やさず繰り返す街頭運動」(『人民の力』10/1)そして「…そうした運動を巻き起こし、繰り返し繰り返し、世論を動かすことによって、野党の結束を促し、崩壊寸前の政権を打倒しよう」(『コミュニスト・デモクラット』8/10)との主張もある。
大衆運動を繰り返すことには賛成である。しかし運動の場は「街頭」だけではない。「街頭」に赴く人たちも総じて高年齢化の一途をたどる現実を見ると、問題は運動を求める思想がどうして無くなったのか、特に若い世代にそれが受け継がれず失われたのか、である。それは、職場での労働運動や、地域での住民運動、それと結びつく「街頭行動」とその階級的意識化が構想されてこなかったからではないだろうか。職場の鬱憤や閉塞感を「街頭」という非日常で発散させて終わらせるのではなく、そこで共有された闘いの経験や社会矛盾の暴露が職場、地域という局所に持ち帰えられ、逆に職場、地域という局所が全体状況と結びつけられるという往復運動が可能性を作るのではないだろうか。しかしそのためにも階級対立の視点がどうしても必要になる。多くの職場、地域にこそ「階級対立」が実在するからだ。いまはまず職場や地域に運動の基礎を作り出さなければならない。
職場・地域と階級意識とは
「職場」「地域」と書いたが、それはどういうことか。学校労働者であれば、たとえば校長が昨年度にはなかった仕事を増やそうとする。そのとき、待ったをかけ、理由を求め、恣意的運営の禁止、常態化した違法超過勤務の実態を盾に職員会議で覆すことを目指ざすことだ。一人だけで口うるさく発言したところで覆すことはできないが、事前に組合の分会会議や立ち話ででも意見の共有をはかり、一割の職員がそれぞれの労働を担うからこそ見える問題点をそれぞれの言葉で述べれば校長も撤回せざるを得ない。なぜなら職員の合意を得られないところでは「円滑な学校運営」もままならないからである。
職員会議での挙手投票が禁止されて久しいが、この程度のことは可能だ。到底無理だと思ってあきらめて何もしなかったことを、自分たちで抵抗して覆すことができた経験は貴重な学習になる。「職場はそこで働く者のものであり、校長や教育委員会のものではないという自覚に繋がる。いや意識的に繋げるのだ。それは「階級意識」形成への必要条件だ。それが自己の抵抗の正しさを確信させもするのだ。
駿台予備校に対し自民党の山田宏参院議員らが圧力をかけ、「独島(竹島)編入」や「南京虐殺」の記述を削除させようとした問題で、同校の講師有志約六〇人が学校側に研究・教育の自由の保障、執筆者や講師の同意のない改編・削除は認めないなどを内容とする要望書を学校側に提出、記述の削除を撤回させた。こういう闘いもあるのだ。
「地域」であれば、たとえば自治会の行事や、PTAでも可能だろう。自分の子どもが通う学校にもっと税金を使えという主張は、受け止められやすい。しかし既存のPTAはほとんどの場合、戦前の学校後援会(=保護者の労働力や募金集め集団)となっている。まずはそれを覆し、行政にものを言う組織へと変える行動から始めることになる。その過程では「義務教育」の意味や階級的性格を学習する必要もでてくる。これも無理なように思えるかもしれないが、同様な問題意識を持つ人は必ずいる。しかし声をあげ正直に主張しないことにはかれらとは繋がれない。
さきほどから「階級対立学説」と繰り返しているが、何も小難しい哲学や経済学の理論をふりかざそうと言っているのではない。
どんな職場であれ、そこで扱うあらゆる商品やサービスはわれわれの労働によって作られた(提供された)ものだ。しかし作った物や成果は職場の所有者の物にされてしまう。「すべての価値の源泉は労働である」。いっぽう「生産手段を所有する者が所有しない者を搾取する」。資本主義的生産関係のこの矛盾(豊かな者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなる)を明確に指摘すれば、このことこそが、われわれの労働・生活・勉学の状況を困難にしている社会問題の根本にあることが認識できるはずだ。しかし当たり前とも言えるこの矛盾も、ブルジョワ虚偽意識がまん延する資本主義社会の中では、意識的に口に出さなければこれは認識されない。いま、職場に労組があるところですらこういった話が意識的に避けられているのが現状ではないだろうか。あらゆる機会をとらえてこの事実を指摘しなければならない、とわたしは思う。この当たり前の認識こそが階級意識へつながるからである。
職場や地域を基礎にもう一度闘いを組んでいく意味を、周りにいる活動的な人と共有し、広げていこう。各「点」での運動を組織し、統一的な動きを目指そう。そこでは国、そして世界規模の連帯の必要が求められる。
たしかに、現状ではそれがない。したがって、われわれの運動は困難を極め、多くの場合負けもするだろう。しかし敗北すらせず、そこからの模索を積み重ねることすらできないのでは、本当の意味での労働者階級の前衛党の再建も望めはしない。
「社会は階段を一歩一歩上るように変わる」(『しんぶん赤旗』)といえども、その「階段」を上がってどの目的地に行くのかが明示されなければ、それは無駄足だ。
「プロレタリアは、自分の鎖よりほかに失うべきものは何も持たない。そして、かれらは獲得すべき全世界を持っている。万国の労働者団結せよ!」一六〇年以上前に書きつけられたこの言葉は、いぜんとして全世界の労働者人民の合言葉だ。遠回りに見えようともこれが真の意味での「政権交代」、つまりプロレタリア独裁を準備する「階段」なのである。
【藤原晃・学校労働者】