被爆地長崎の侵略責任を問う
田上富久長崎市長批判

大村歳一(長崎県在住)                        

侵略責任に触れない「平和宣言」

 八月九日に長崎市長が読む「平和宣言」では一九九二年から一九九九年までの一時期、アジア・太平洋諸国に対する日本・日本人の侵略責任が言及されていた。すなわち、一九九二年の平和宣言での本島等の「私たちは、日本のアジア・太平洋への侵略・加害の歴史を振り返り、犠牲となった内外二千数百万人のご冥福をお祈りし、心からの反省とその償いを果たさなければなりません」という言葉に始まり、後任の伊藤一長も引き継いで、一九九五年には「私たちは、アジア太平洋諸国への侵略と加害の歴史を直視し、厳しい反省をしなければなりません」という一節を組み込むなど、一九九九年まではアジア・太平洋諸国に対する侵略責任について触れていたのである。しかし、一九九七年の宣言では侵略被害国に向けられた市長自身のものとしての謝罪の言葉がなくなり(本島等は『論座』一九九七年十一月号掲載の「なぜ私は「謝罪」を言うか・民衆にも加害責任がある」で伊藤を批判)、二〇〇〇年以後の宣言では侵略責任に関わる言葉がすっかり消えてしまった。そして、伊藤の次の市長に就任した田上富久は二〇〇七年から今年二〇二一年に至るまでただの一度も侵略責任について触れていない。そのような「平和宣言」は決して褒められるべきではない。
 それに、また、一九四五年以前についての侵略被害国の人々の観点に立った倫理的なものであるべき反省を欠く以上、よりわかりにくい現在の侵略責任にまで考えがおよぶはずもなく、「特等参戦国」(朝鮮歴史学学会)として参加した朝鮮戦争以降の、現在の侵略責任についても無反省になり、朝鮮の核政策に対して「被爆地の心情を踏みにじる暴挙」(長崎市HPに掲載された二〇一六年一月六日の田上市長コメント)とまで言い出すのである。

長崎は過去も現在も侵略政策の根拠地

 その「被爆地」長崎は、一八七四年の中国・台湾地区への侵攻の拠点となって以来、日本帝国主義者による朝鮮、中国をはじめとするアジア諸国への侵略政策の根拠地であり、敗戦後もアメリカによる国連憲章違反の朝鮮戦争に加担し、「国連軍」佐世保地区司令部が一九五〇年七月二十五日に設置され朝鮮人民を殺傷するための軍隊の出撃・兵站の拠点になるなど、アジア侵略の拠点であり続けた。日本が「朝鮮特需」で再び朝鮮人民の犠牲を享受したのは周知だが、その中心にあったのが長崎なのである。
 現在も日本国憲法第九条第二項前段の「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」という規定に違反した「自衛隊」の基地が長崎県全体で陸海空軍合わせて二〇以上存在していて、二〇一八年三月二十七日には、朝鮮再侵略戦争を見据えた日本版海兵隊こと陸上自衛隊「水陸機動隊」が佐世保に設置された。二〇二〇年初頭から行なわれている日本政府の中東派兵政策では佐世保から二〇二〇年五月と今年四月と二回にわたって護衛艦が派遣されている。長崎市では長崎港の三菱長崎造船所において護衛艦の建造・修理作業が行なわれており、軍需都市としての役割は一九四五年以前とほとんど違いはない。ちなみに、二〇〇〇年代に石原慎太郎が先導した在日朝鮮人弾圧政策である朝鮮総連関連施設に対する固定資産税減免措置撤廃の動きに長崎市もまた例外なく加担しており、田上市長期の二〇〇八年に長崎朝鮮会館に対してそれを行なっている。
 こうした「被爆地」の言い分が、今も昔もその喉元に銃剣を向けられているかつての植民地支配の被害国に無視されるのは当然だろう。

端島をめぐる言動は「歴史修正主義」

 それだけではなく、田上富久は長崎市市長として侵略責任に関わる歴史的事実を抹消する事業を推し進めてもいた。現在、端島(軍艦島)で、第二次世界大戦中の朝鮮・中国人民に対する三菱炭坑での強制連行・強制労働をなかったこととして観光事業が行なわれていることはよく知られているが、その事業に積極的に関わっているのがほかならぬ田上富久なのである。「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製銅、造船、石炭産業」公式サイトに二〇一七年十一月、「世界とつながる町~〝長崎のたから〟を〝世界のたから〟へ~」と題して掲載された田上富久のインタビューはあけすけに語っている。このインタビューによれば、端島の観光地化計画が始まったのは二〇〇三年であり、田上富久(当時長崎市観光課主幹)が野母崎で開催された「軍艦島フォーラム二〇〇三夏」で加藤康子と会合したのがきっかけである。そのときのことについて田上は「幕末から明治にかけて、わずか五〇年でアジアの経済大国日本の礎を築いた産業遺産群を世界遺産にしたい」と語る加藤に対して「素晴らしい構想だと心を揺さぶられた」と回想している。そして、市長就任以降の二〇〇八年に田上は長崎市・文化観光部に「世界遺産推進室」を立ち上げ、この動きを本格化させた。加藤康子は第二次安倍政権において二〇一五年七月二日から二〇一九年七月三十一日まで内閣官房参与として「産業遺産」関連事業に関して中心的役割を担っており、その加藤との共犯関係はずっと続いていた。世界遺産認定後も、炭坑の保全といった基本的な業務はすべて長崎市が担当している。端島の歴史についての認識も加藤と共有しており、たとえば田上は二〇一七年三月の長崎市議会「平成二九年度第一回定例会(五日目)」において、「決して地獄島と表現されるような状況ではなかったと考えています」と述べ、このインタビューでも同旨の発言をしている。田上の言動はまさに「歴史修正主義」としか呼びようがない。二〇一一年には、長崎在日朝鮮人の人権を守る会が『軍艦島に耳を澄ませば 端島に強制連行された朝鮮人・中国人の記録』初版を出版していた以上、二〇一七年段階で田上には、端島で朝鮮・中国人民の味わった苦しみを知ることができる条件が十分あったはずである。
 こうしたことを長崎市長・田上富久は八月九日に「平和宣言」を読む裏で隠れて行なっているわけではない。その両立が可能であるという点にこそ驚くべきではないだろうか。