前面に出てきた憲法改悪攻撃
サ条約体制打破! 安保条約破棄を!
連日、国民投票法「改正」案の廃案を求める国会前行動が行なわれているさなかの六月九日、「国民投票法「改正」案を廃案に! 自民党の改憲発議を『STOP』させよう! 6・9労働者・市民集会」が連合会館で開催された。集会では、壊憲NO! 96条改悪反対連絡会議共同代表の内田雅敏弁護士が、「改憲をめぐる情勢はいま、どうなっているのか? そして、わたしたちはいま、なにをなすべきか?」と題し、概略以下のような報告を行なった。
二〇一四年七月一日、国会閉会中に集団的自衛権容認が閣議決定された。翌一五年九月十五日、「安保」関連法制が強行採決された。事実上の憲法九条改悪である。五次にわたるアーミテージ報告に応えたもので、まさにこの一連の動きは、「クーデター」だ。
秘密保護法、共謀罪の制定、国策として経団連が求めた武器輸出などが併せて推進された。対中国「安保」のための環境変化を言い募り、米軍需産業の要求にも応えて軍事予算は増加し続けた。
続けて、日弁連が二〇〇九年十一月十八日に出した「憲法改正手続法の見直しを求める意見書」に沿って、公務員・教育者に対する運動規制、国民投票広報協議会の不公平性、権力・財力を持つ者に有利な有料意見広告放送の在り方、発議後国民投票までの期間の短さ、最低投票率が定められていないこと等の問題点を明らかにした。
この後、日本国憲法について、奥平康弘氏が「未完の憲法」と言った意味を問うた。「未完」の意味は、戦争責任や植民地支配の責任、歴史認識の問題等である。憲法制定のための一九四六年四月の選挙においても、沖縄の住民には選挙権はなかった。一九五一年九月に調印されたサンフランシスコ講和条約は、沖縄・奄美の切り捨てを決定づけた。
討論では、司会の土松克典から、植民地支配の問題について補足意見があった。日本国憲法施行前日の一九四七年五月二日、大日本帝国憲法下の最後の勅令として、外国人登録令が出され、日本在住の朝鮮人・台湾人は日本人だが「三国人」扱いされ、サ条約調印後は外国人登録法が施行され、日本国憲法の対象から除外されて、管理・弾圧の対象にされた。
「改正国民投票法」は、六月十一日に成立した。賛成は、自民・公明・維新・立憲民主・国民民主各党、反対は、共産・れいわの各党である。日弁連が指摘した法案の問題点は、すべて無視された。主な修正点は、駅や商業施設への「共同投票所」の設置のみ。立憲民主党が賛成の条件とした三年後を目途とした政党の広告や資金の規制の検討についても、与党はこの期間の改憲発議の可能性を否定していない。
「クーデター」後の実質改憲策動は、ついに運動を直接に弾圧する法律を誕生させた。六月十六日、「重要土地調査規制法」が成立した。この法律は、日本中どこに住んでいる人民も調査・監視・弾圧の対象とすることができる、とんでもない治安立法である。
実質改憲と明文改憲が、車の両輪のように進んでいる。労働運動が後退を余儀なくされるなか、まっ先に在日朝鮮人や沖縄の人びと、外国人労働者や障碍者に対する差別・抑圧・人権無視が強まった。さらにこの攻撃は日本国憲法がすべての日本人に保障する権利を根こそぎ奪おうとしている。労働者人民は運動を再建し、政府・独占の攻撃と真っ向から対決することなしに抑圧から逃れるすべはない。
アジアの平和を脅かしている根源は、米帝国主義と日本が一九五一年に締結したサンフランシスコ講和条約と安全保障条約にある。当時ソ連は、米の単独講和政策はポツダム協定違反だと強く非難し、対日講和条約をソ中米英四か国外相会談で起草し、日本の非軍事化・民主化・軍備の制限・経済の平和的発展・貿易の制限の撤廃・対日戦に参加したいかなる国の同盟にも参加しない中立条項などの内容を提示した。単独講和が戦争への道、ファッショ的な反動支配への道であることは、当時の労働者にも理解されており、総評は実際に全面講和の要求を突きつけて闘った。
いま日本の運動に欠けているものは、当時は存在した強力な労働運動とそれと結びついた社会主義をめざす政治勢力である。運動全体の活性化のためには労働運動の再構築は欠くことのできない課題だ。
日米帝国主義は、労働者人民を戦争体制の構築に動員することを狙って憲法改悪を押し進めようとしている。これに対抗するメインスローガンは、サンフランシスコ体制打破! 「安保条約」破棄! である。
【阪上みつ子】