大衆文化時評
岡林信康のニューアルバム『復活の朝』
「夜明け」は来ないのか? -「友よ」から「友よ、この旅を」へ                       

 「フォークの神様」岡林信康(一九四六年生まれ)が今年三月、二三年ぶりにアルバム『復活の朝』(ディスクユニオン)を出した。新聞記事によると、「友よ」(一九六八年)のアンサーソング「友よ、この旅を」が収録されているという。聴いてみた。
 「友よ」は「夜明け前の闇の中で 戦いの炎をもやせ」「夜明けは近い この闇の向こうには 輝くあしたがある」とうたい、一九六〇年代後半の、時代を変えたいという心情とよりよい社会にしたいという願いと重なって岡林を「神様」に祀り上げた曲である。ところがアンサーソングでは、「陽は沈み陽は昇る」「この旅を行こう友よ 終わりの日まで」といい、「戦いの炎」はすでになく、あがいてみたけど社会は変わらなかったと諦念が滲み出ている。どうしてだろう?
 その理由を岡林は、「夜明けが来れば全て解決するという幻想を歌っていた」けれど、朝から夜になってまた朝がくるという繰り返しなのが分かったので「真逆の内容を歌った」といって、変わることのできなかった自分を丸ごと肯定している。
 この「変化」には五〇年の歳月が横たわる。どう思うかは人それぞれだが、わたしは、岡林は早くから自分が偶像視されるのに違和感を感じ、抵抗し続けてきたことはみておくべきだと思っている。たとえば映画『日本の悪霊』(一九七〇年)に登場した岡林は、映画のラストで「夜明けは来ない」と歌詞をかえてうたっていたことも、わたしにはその一例のように受け止めてきた。
 「夜明け」をうたう歌ならば、数えきれないくらいあった。岸洋子、由紀さおり、浅川マキ、松田聖子…。しかし、時代精神と向き合ったうたは滅多にはみあたらない。わたしが思い浮かべるのはベルトルト︲ブレヒトのソング「モルダウ河の歌」(『第二次大戦中のシュヴェイク』(一九四三年)の劇中歌)くらいか。リフレインで「大きなものは大きなままでいない/小さなものは小さなままでいない/夜は十二時間で、それから朝がくる」(長谷川四郎訳)とうたうのだ。闘いつづけるものに「夜明け」は必ず来る。それと同じ思いを共有していたからこそ、「友よ」はうたわれたのだ。
 日本のフォークソングは、一九六〇年代のヴェトナム反戦運動の機運の高まりの中で、アメリカ合衆国の反戦運動と結びついたフォークソング運動が関西に持ち込まれて始まったのだが、今からみれば、市民主義的なラディカリズムに依拠していて、労働者の運動を基盤としていた「うたごえ」運動との「断絶」があったように思う。それと商業主義的な音楽市場との親和性があり、大手レコード会社から出せなくなったときにはURC(アングラ・レコード・クラブ)という自主製作・流通という試みもあったが、「叛乱」者の多くが企業戦士に変貌していくなかで運動的側面が薄れると、「反戦」や「変革」は商品にはならず、市場から消えていった。
 とはいえ岡林は、一九七〇年代に登場してきた吉田拓郎や井上陽水のように音楽の商品市場にドップリつかろうとしたわけではない。むしろ押しつけられた「神様」の称号を真正面から振り払おうと考えて日本の伝統音楽に想を得ようとしたり、美空ひばりと共演したり、もがき続けていた。ボブ︲ディランの背中を追いかけもした。それが成功しなかったのは、同時代にラテンアメリカで生まれた「ヌエバカンシオン(新しい歌)運動」のように「自分たちの時代をつくり出そうとする人民、うたとともに歩む人民」と岡林(たち)が出会えなかったためではないのだろうか。岡林に「幻想」だと思わせたのは、岡林の問題というよりもわれわれ日本の労働者階級の闘いの弱さであり、貧しさの反映だとわたしは考える。
 でも、岡林は勝手に「自滅」すればいいんだとわたしは思っていない。むしろ岡林のもう一つの側面、物語をうたで紡ぐことを「復活」してほしいと思っている。たとえば「チューリップのアップリケ」と「手紙」(ともに一九六九年発表)。これらのうたには一九六〇年代の部落問題が映し出されているが、いま聴いても、その物語から紡ぎ出されるかなしみと怒り(いずれ変革の意思にまで高まるだろう)はいまはじめて聴くものにも十分共有できるものだと思う。それはネット発で今年バズったうた「うっせぇわ」のようなキャッチーなリフレインとオトナの社会を感覚的に拒絶して自分の殻に安住する他者不在が「心地よい」うたとは根本的に異なる。
 われわれに必要なうたならば、岡林がどう変化しようとうたい継がれていく。生きている限りわれわれは「できっこない」とはいわず、新しい時代にむかって歩くのではないのか、なぁ「友よ」。
 【井野茂雄】