パリ・コミューン一五〇年にあたって
武井昭夫「パリ・コンミューンの教訓」再読
労働者階級の思想主体形成こそが未来をこじ開ける鍵
井野茂雄(文化活動家)                         

 「この地上にはじめてパリの労働者たちによって資本制の軛を打ち破り創出された自治国家(それはもはや本来の意味の国家を超えたものであった)」(武井昭夫)であるパリ・コミューンが誕生したのは、今から一五〇年前の三月十八日のことであった。第一インターナショナル総務委員会書記カール‐マルクスは、七二日間存在したパリ・コミューン最後の戦士たちがペール・ラシューズ墓地で虐殺された二日後、「フランスにおける内乱(国際労働者協会総評議会の呼びかけ)」(一八七一年五月三十日)を発表し、次のように讃えた。「コミューンがさまざまな解釈を受けたこと、またさまざまな利害集団がコミューンを自分の都合のよいように解釈したことは、従来のすべての政府形態が断然抑圧的なものであったのにたいして、コミューンがあくまで発展性のある政治形態であったことを示している。コミューンのほんとうの秘密はこうであった。それは、本質的に労働者階級の政府であり、横領者階級にたいする生産者階級の闘争の所産であり、労働の経済的解放をなしとげるための、ついに発見された政治形態であった。」「労働者のパリとそのコミューンとは、新社会の光栄ある先駆者として、永久にたたえられるであろう」。
 そして一〇四年前の一九一七年八月、レーニンは「一般的にはブルジョワジーの影響から、勤労大衆を解放するための闘争は、『国家』にかんする日和見主義的偏見にたいして闘争することなしには不可能である」という観点からパリ・コミューンの経験とマルクスやエンゲルスの分析から学び、「権力を奪取しようとするロシア労働者階級が、ブルジョア国家機構を打ち砕き、いかにプロレタリア独裁の国家を形成し維持してゆくか」(武井)という「戦術上の教訓をひきだす」ことを主眼にしてパンフレット『国家と革命─―マルクス主義の国家学説と革命におけるプロレタリアートの任務』を書きあげた。

パリ・コミューンのアクチュアリティ

 さてパリ・コミューン一〇〇年目にあたる五〇年前、日本でもパリ・コミューンについて、労働者階級による国家権力奪取のあり方や掌握手段についてあれやこれやと論じられていた。当時の革新自治体論やさまざまなコミューン(共同体)の実践的試みなどもその一つといえよう。背景には一九六〇年にモスクワで開催された八一か国共産党・労働者党代表者会議の声明があり、キューバ危機があり、中ソ論争があり、ヴェトナム戦争の最中だった。しかし、一九七三年チリで合法的に社会主義をめざしていたアジェンデ人民連合政権がピノチェトひきいる軍部による反革命クーデターでつぶされたあと、あまり議論がされなくなったように思われる。それはユーロコミュニズムに象徴されるインターナショナルな思考を放棄した社会主義思想の「歪み」とブルジョワ的自由主義思想の「浸食」、そのゆきつく先にあった社会主義世界体制の崩壊のためとも考えるのだが、それは稿を改めて考えることだろう。
 パリ・コミューンが何であったのかについてはマルクス、エンゲルス、レーニンの古典文献を前提として、たとえばリサガレーや大佛次郎などのドキュメントや、稲葉三千男、桂圭男の通史、高橋則雄らの仕事を手がかりに研究してほしいと思うのだが、本稿で考えようとするのは、マルクスが未来の社会のありようを垣間見、レーニンがプロレタリアートによる国家権力の独裁(ブルジョワジーの抑圧)の戦術的必要性を導き出してきたような、パリ・コミューンを考えるにあたっての同時代としてのアクチュアリティをどう発見するかということである。それの手がかりとして、武井昭夫「パリ‐コンミューンの教訓」(一九六六年、『演劇の弁証法』所収)と、そこで扱われているベルトルト‐ブレヒトの戯曲『コミューンの日々』(一九四九年)をとりあげてみたい。

プロレタリア独裁は労働者人民の事業

 武井の「パリ‐コンミューンの教訓」は、劇団三期会によるブレヒト劇「コミューンの日々」再演(一九六六年)に対する劇評として、劇団民藝の公演パンフレット「民藝の仲間」に発表されたものである。武井は、ブレヒト劇が、ドイツ民主共和国(DDR)の人民が社会主義建設をめざすにあたって、パリ・コミューンの理想と困難をみずからの課題として現実に考えることを提案しているのだと捉える。モンマルトルのカフェでの労働者や市民のあいだでの会話、コミューン議場での評議員同士が時には対立しつつも試行錯誤しながらおこなわれる討論、そして自分たちの代表の発言を傍聴するために参加している市民との思想的かつ同志的つながり。コミューンの決定は、対立する議論のそれぞれの根拠をあきらかにしつつも、どちらの意見が正しいとは劇中で(意図的に)明示されていない。それはブレヒトが一九三〇年以降に教材劇として考えてきたこととつながるもので、観るものが(自分たちがコミューンをつくりだすなら)どう考え行動するのか、という考えをめぐらすことを促すことになる。これは、「プロレタリア独裁」というひとつの主軸に、「評議会」という労働者階級の意思決定とその実行のプロセス─―別の言葉でいえばそのプロセスの根底にある被支配階級の抵抗と革命の原理─―をブレヒトが戯曲を書いた一九四九年のDDRの課題としてアクチュアルにとらえ返すこと、武井の言い方をまねれば、労働者階級の階級意識形成の課題とむすびついたものとしてあるともいえるのではないのか。つまりブレヒトは、社会主義建設をめざして三〇年がたつソ連、そしてソ連の多大な犠牲を生じさせながらもナチス・ドイツを打ち破った後の東ヨーロッパや中国などの社会主義国家の出現によって生じた二つの世界体制の深刻な対立のなかで、新しい社会体制を創出していく(そこには一国社会主義によって生じた歪みを匡すことも含む)DDRをはじめとする労働者人民に、一国社会主義の「歪み」を克服する原理も含めて、プロレタリアート権力の獲得とその維持を考えてもらおうとした(素材を提供した)。言わずもがなであるが、社会主義国家体制は、宣言ひとつ決議ひとつで社会機構や生活の隅々まで完璧に整備されるものではない。たとえばブレヒトは、一九三〇年前後のドイツ労働者階級の組織力と戦闘力がある程度は残っていることを期待して、DDRが成立したタイミングで上演しようと考えていた。だが、社会主義建設の主力部隊である労働者階級の戦闘態勢が不十分であったので、演目をさしかえたということがあった。
 武井はブレヒトの企図を明確に把握し、その志向と提案に共感していた。なぜなら、武井が自らの仕事の主戦場としてきた文学・芸術運動の領域では、一九六〇年の安保改定闘争以降の高度経済成長期には労働運動退潮の兆しがはっきりみえはじめ、労働者のなかに小市民意識(たとえばマイホーム主義)が広がって、国家権力を掌握する中核部隊である労働者階級の階級意識を形成する主体(本来ならその任務を担うべき日本共産党も含めて)の意識があいまいで、なおかつそのことが自覚できておらず、労働者階級の闘争力解体に歯止めがかからない状況だという認識があった。それに歯止めをかけよう、つまりは労働者階級の階級意識を形成しなければならないというのが、武井のえがいていた六〇年代を通じての社会主義革命への避けて通れない道筋であった。
 さらに武井の劇評は、プロレタリアが権力を握ってブルジョワを抑圧すること(プロレタリア独裁)をふまえながら、パリ・コミューンから中国革命にいたるまで、武装蜂起が現実的な解決の道筋だったことに改めて目を向けた。
 そして、一九六六年の日本において、われわれはどのような現実的道筋を通るのか、ということを観客(そして時評の読者)に問いかける。「現代の抵抗と革命をめざす階級闘争が、非暴力の思想と行動をおのれの階級的文脈のなかでもう一度とらえかえすべき必須がある。戦争に対して平和を、暴力に対しては非暴力を原理としつつ、革命の理論も発展させねばならない。逆にいえば、革命の思想に裏づけられた平和主義と非暴力主義が、いま求められているのである。」といい、ブレヒト劇に強く描かれているパリ・コミューン内部での諸課題をめぐる対立(対話)のプロセスが同時代におけるアクチュアリティになっているというのだ。ナチスと日本軍国主義の軍事的敗北でより顕在化した資本主義体制と社会主義体制の対立は熱核戦争による両者共滅の危機を深めながら進行していた時代である。パリ・コミューンの経験は、プロレタリア独裁という言葉だけに収れんされるのではなく、コミューンを支え、生き、闘った市民たちの「事業」であり、意思決定のプロセスまで含めて(今日から見れば不十分であったり間違った判断であったりしても)われわれの作り出すべき社会のありようの一端を垣間見させてくれているものとしてわれわれは受け継ぐのだ、ということなのだとわたしは思う。

今日におけるパリ・コミューンの教訓

 普仏戦争でのナポレオン三世の敗北、そしてただちに第三共和政を宣言した中心人物のひとりであるティエールのパリ労働者・市民に対する裏切りという「偶発的」出来事の連鎖で誕生したパリ・コミューンは、ブランキストやプルードン主義者、ジャコバン主義者、インターナショナル派など、さまざまな考えをもつひとたちが活躍していたが、このような事態を想定して準備していたわけではない。それにもかかわらず、コミューン評議会メンバーだけでなく、労働者・市民とが試行錯誤しながらも協働して矢継ぎ早にさまざまな布告を出すことができたのは、一七八九年以降、階級闘争をとことん闘い抜いた経験があるからだと考えるのが妥当ではないのか。
 このようなコミューンの原像は、ロシアの労農兵ソヴィエト(評議会)、一九一八年ドイツ革命におけるレーテ(評議会)などに受け継がれていく。さらに、チリのアジェンデ政権下でブルジョワジー側のストライキとサボタージュがおこったとき、サンチャゴの労働者・市民は自発的に産業調整連絡会(CORDON)をつくり、トラック業者・小売業者にかわって運送や配送そして分配の新しい流通組織(反革命直前にはサンチャアゴ市内の過半を統制下においていた)をつくりだしていた。このような労働者・市民の自発的・能動的な階級闘争への参加をつくりだしていくことができなければ、われわれは「生存条件のつらさを軽減させること」などできはしない。
 このような階級意識のある労働者階級を組織すること、そして自覚した労働者階級が資本家たちの反革命策動を抑え込む権力を行使すること、そのありかたをもう一度考え、共有することが大事なのではないか。革命は大衆参加ではじめて成りたつ事業なのだ。なにしろブルジョワ側が、労働者階級の闘争を弾圧するために暴力の行使をいとわなかった歴史上の実例には事欠かない。ブルジョワの暴力を行使させない最大の力は労働者階級の力であり、その発現はゼネラル・ストライキであると思う。
 パリ・コミューンから一五〇年という区切りがこういう問題を考え始める契機になってくれれば、このような隙間だらけの文章でも書いた甲斐があるというものである。

 *コミューンとはフランス語で基礎自治体をあらわす言葉だが、「パリ・コミューン」という場合は自治体における三権を掌握した(しかし質的にはまったく新しい)コミューン議会(評議会)という意味で使われている。