医療崩壊はコロナの前から
「医療」の在り方の根本的な問い直しを!                          

 新型コロナウイルス感染症が拡大し、一年以上が経過した。その間を振り返ると、新型コロナウイルス感染症拡大により、医療が崩壊したといわれているが、そうではない。今まで隠されていた「医療崩壊」が明るみになっただけだ、とわたしは考える。
 一月十二日の『毎日新聞』に「感染危険区域勤務、医師より長い7~8時間 拍手よりも、法整備で守って」との記事の中で川嶋みどり氏は、「コロナ専用のICUでは、重症患者に装着した人工心肺装置『ECMO(エクモ)』が安定して作動すると、医師は病床を離れるが、看護師はそばで容体を見守り続ける。レッドゾーン(感染リスクが高いエリア)では水も飲めない。防護服を脱いだり着たりするのに時間がかかるためトイレに行くのもままならない。通常は業者に委託している病室の清掃やシーツ交換、理学療法士らが行うリハビリまですべて看護師が行っている。また、PCR検査を行う外来の看護師も厳しい状況にある。交代要員はおらず、防護服を着て4時間以上立ちっぱなしで、トイレにも行けない」という実態を紹介し、そのうえで、勤務時間の短縮や交代要員の確保などの法整備が必要だと述べた。
 わたしが働く透析センターでも日常の業務が随分と煩雑になった。透析センター入室前に看護師が患者と送迎者の体温測定を行ない、三七・〇℃以上ある患者は検査の対象とし、帰国者接触者外来を受診させる、患者が使用した掛布団を毎日交換する、患者の更衣室とロッカーを一日二回拭き掃除するなど、看護師の人数はそのままで業務は増加した。
 実際に職員や通院患者の感染もおきた。職員が病気休暇中は少ない人数で業務を行なう必要があるため、看護師二人で対応するシフトを一人で、平日の日勤業務を休日体制で行なうこともあった。市内の公立病院が重症・中等症のコロナウイルス感染患者に対応するために、他の疾患の患者が入院できなくなり、わたしの働く病院に入院し病床が一杯となった。入院患者で透析を必要とする患者も多く、透析センターも満床となった。職員の感染により一病棟が二週間程度閉鎖され、かかりつけ患者が入院できず治療が受けられないということも起きた。
 医療現場では、厚労省の病床数削減を目的としたかのような診療報酬体制、医療のIT化、医療機器の複雑化などから、看護師が本来の看護業務に専念できなくなっていた。診療報酬の確保のため入院患者の平均在院日数の短縮が求められる。そのため患者の入退院が増え、看護業務は煩雑になる。患者との人間関係の構築などできるわけもない中で、患者に必要な看護は提供しなければならない。病院は診療報酬を減算されずに、かつ収益を上げることを優先して人員を配置する。高齢化が進むこんにち、自宅に戻れず、別の医療機関や介護施設への転院が必要な患者が多く、その調整に時間と労力が割かれる。診療報酬を満たして、かつぎりぎりの人数の看護師を雇う。常にぎりぎりのバランスの中で運営されている日本の医療体制が、脆弱であるのは当たり前である。コロナ感染拡大以前から、すでに崩壊に向かう国策がとられていたのである。
 今回のコロナ禍では、わたしの記憶ではかつてなかったと思えるほどに、大々的に看護師不足が報道されている。しかし看護師はずっと以前から不足し、十分だったことはない。看護師がなぜ不足しているのかといえば、労働力に見合った対価が保証されていない、あるいは対価に見合わない重労働が強いられているからだ。
 政府が、コロナ対応で派遣される医師には一時間約一万五〇〇〇円、看護師は約五五〇〇円を派遣元に補助すると発表したが、この期に及んでも、最前線で患者に対応する看護師の評価は医師の三分の一である。とはいえ、医師と看護師の評価を比較しても始まらない。人が暮らし生きていくために必要な医療とは、看護とは、と考えたとき、現在の医療の在り方は正しいのだろうか。誰でも同じように医療や看護、介護がうけられ、人としての尊厳が守られているだろうか。病院の収支に、赤字や黒字があることで、生存権の危機という不利益をこうむるのは医療を受けるわれわれ自身に他ならない。現在の「医療」の在り方そのものを問い直すことができるのは、現場で働く医療労働者自身以外にはない。
 【藤原和美・看護労働者】