|
〈思想運動〉情勢討論会での報告・討論から
安倍・菅らを倒す力をどうつけていくのか
市民連合の「要望書」をめぐって
高梨晃嘉(神奈川・活動家)、安在郷史(図書館非常勤職員)、井野茂雄(元自治体労働者)、大山 歩(東京・自治体労働者)、高橋省二(文化活動家)、土松克典(韓国労働運動研究)、広野省三(活動家集団 思想運動)、藤原 晃(神奈川・学校労働者)、村上理恵子(元私立幼稚園労働者)
昨年初頭からの新型コロナウイルス感染症の全世界的拡大。
それは日本にも例外なく侵入・拡大した。そうしたなか九月に、七年八か月もの間政権の座に居座り、悪事のかぎりをつくした安倍ブルジョワ長期独裁政権が退いた。しかし後継政権は、その安倍政権を番頭として支えた菅が担当することとなり、菅は「安倍政治を継承する」を公言し、より強権的、傲岸不遜、弱者切り捨て・金持ち優遇のファッショ政権としての性格をあらわにしている。
「国民のために働く」などと言いつつ菅は、端から人民の命と生活は問題とせず、コロナ禍を悪用して独占の利潤獲得に資するデジタル化、労働政策の転換などを強硬に推進している。腐りきった資本主義体制を維持することを最大の使命とする、安倍・菅ブルジョワ独裁体制をどうやって打ち倒すのか。この理論的・実践的問いが、コロナ禍のなか、反安倍・反菅を掲げるすべての政治・運動勢力に突き付けられている。われわれ自身のあり方を含め、これまでの運動の点検が必要不可欠である。
こうした観点から、〈活動家集団 思想運動〉は十二月七日、長年神奈川で労働運動・市民運動を担い、現在も数多くの市民運動に携わっておられる高梨晃嘉氏に「安保法制の廃止と立憲主義の回復を求める市民連合」が九月十九日に発表した「立憲野党の政策に対する市民連合の要望書」をめぐって報告をお願いし、情勢討論会を開催した。討議は多岐にわたったが、ここでは、高梨氏の報告の要旨と論議の中で出た意見の一部を紹介する。
【編集部】
高梨報告―「要望書」で社会は変えられるか
(高梨)「立憲野党の政策に対する市民連合の要望書」は、「はじめに」と以下の四本の柱・一五項目から成っている。
〈4つの柱と15項目〉
Ⅰ 憲法に基づく政治と主権者に奉仕する政府の確立
(1)立憲主義の再構築
(2)民主主義の再生
(3)透明性のある公正な政府の確立
Ⅱ 生命、生活を尊重する社会経済システムの構築
(4)利益追求・効率至上主義(新自由主義)の経済からの転換
(5)自己責任社会から責任ある政府のもとで支えあう社会への転換
(6)いのちを最優先する政策の実現
(7)週40時間働けば人間らしい生活ができる社会の実現
(8)子ども・教育予算の大胆な充実
Ⅲ 地球的課題を解決する新たな社会経済システムの創造
(9)ジェンダー平等に基づく誰もが尊重される社会の実現
(10)分散ネットワーク型の産業構造と多様な地域社会の創造
(11)原発のない社会と自然エネルギーによるグリーンリカバリー
(12)持続可能な農林水産業の支援
Ⅳ 世界の中で生きる平和国家日本の道を再確認する
(13)平和国家として国際協調体制を積極的に推進し、実効性ある国際秩序の構築をめざす。
(14)沖縄県民の尊厳の尊重
(15)東アジアの共生、平和、非核化
わたしが所属する「かながわアクション」でもこれについて検討したが、「述べられていることは理解できるが周りに伝えていくには抽象的すぎる」「これで選挙はできるかもしれないが、地域や職場でどのような取り組みができるかは伝わらない」等の意見が出た。
「はじめに」では、「憲法に基づく政治」「法と道理に基づいて人間の生命と尊厳を守る政治の確立」、つまり「法と道理」の理念を取り戻すことが強調されているが、現実の諸問題がいかなる利害関係、すなわち支配層と被支配層との立場の違い・対立から生じているという点からの考察が希薄だ。現実の問題・課題解決が「政権」や「(社会)経済システム」の「選択」(=選挙)の問題として語られている。人間の尊厳などの普遍的価値(観)が前提として語られているが、闘いをとおしてこうした価値は実現されてきたし、これからも実現しうるという運動的観点がない。
闘いがなければ「政権」も「システム」も変えることはできないし、「選択」(=選挙)だけでは、社会をつくり支えていく個々人の成長(自覚・自立)は期待できない。もちろんこれでは現在のバックラッシュ攻撃(関生弾圧など)に対抗できない。
この「要望書」は、「政権交代をめざす市民と立憲野党の共同の取り組み」として提案されているが、「共同の取り組み」の中に労働組合との「共同」についての言及がほとんど見られない。労働者・労働組合の存在や闘いは視野の外(市民運動と労働者・労働運動との分断)に置かれる。
一本目の柱で「憲法に基づく政治と主権者に奉仕する政府の確立」が言われているが、人民の主権者(社会の主人公)としての自覚をどうつくっていくかという言及がない。
新自由主義を「利益追求・効率至上主義」と捉えるだけではきわめて不十分。新自由主義を「成果主義」と「自己責任」とがセットされた概念として捉え直すべきだ。多くの人が、「成果主義と自己責任・自己管理主義」でいわば「洗脳」されているがゆえに、働く者の団結や労働運動が後退させられている。この「洗脳」をときほぐし、働く者の団結・連帯をどう取り戻していくかが課題だ。
四本目の柱の「世界で生きる平和国家日本の道を再確認する」には、歴史的観点からの課題(戦争責任の清算・植民地主義の克服など)が抜け落ちており、平和の構築に向けた積極的な姿勢を感じとることは難しい。
「15項目」が現実に対するオルタナティブであろうことは理解できるが、それらは理念型のスローガンの域にとどまっている。闘いや取り組みは、要求や課題が自分の問題にならない限り人々を引きつけることにはならない。
最後に、「要望書」の問題点を踏まえて、めざすべき運動の方向性についてわたしなりの考えを整理したい。
(1)「要望書」には労働者、労働組合の具体的な声が、きわめてわずかしか反映されておらず、多くの人々が身近な課題として認識・共有できるような具体的な(改善)要求に高めていくことが必要。(実態からの要求づくり)。
(2)「政策・政権の選択」たる選挙で政治や社会を一時的に変えられるかもしれないが、社会に立場の違いがある下で、変えたことを覆されないように維持していくにはその改革を支え続ける力が必要。こうした力は、具体的には日常のたたかいの継続抜きにつくり上げることはできない。議会主義はこうした力の培養については関心の外だ。
(3)問題の解決は、常に利害関係者の力関係に依存している点をもっと重視しなくてはならない。この点で、支配権力はきわめて貪欲であることを肝に銘じて、わたしたち被支配者の団結形成とその拡大に全力を尽くすべきだ。
(4)利害関係者の力関係を軽視・無視した「選択のおしゃべり」こそが議会主義の核心であり、選挙への動員主義では個々人の主権者としての成長・発展を促すことはできない。大衆運動・大衆行動こそが個々人を鍛え、団結の必要性を自覚できる機会・場となる。
(5)相手から譲歩を引き出し、要求等の実現を闘いとるには生産点でのストライキなどの実力行使(非暴力)・争議行為を必要とする。この点で、敵の攻撃で弱体化が進む労働組合・労働運動の再生・再建が追求されなくてならない。どう相手を倒す力をつけるかということが、市民運動の中でも、労働運動でも、論議されていない。そういう状況をどうやって変えていくかが一番の課題だと思う。
報告後の討論から
人民の政治参加をどう実現していくか
(広野)たとえば、県民投票や国政選挙で示された、辺野古に新基地はいらないという沖縄県民の声。沖縄は基地経済で回っているのではない、
軟弱地盤があるし環境破壊がすさまじいことになる辺野古埋立てなんて無理だ、と事実に基づいて話をしても、政府はそれをぜんぜん聞こうとしない。玉城知事あての設計変更についての意見書は一万七八五七通と前回を大きく上回ったが、沖縄に新基地は造るべきでないという基本的認識は、本土では広がっていない。あるいは朝鮮学校を目の敵にした差別的教育行政がいまなお継続され、ヘイト発言が絶えない。さらに関生の弾圧もその危険性、ファシズム的本質がなかなか理解されない。
自分には関係ないと思って関心を示さない。そういう社会状況ができあがっている。歴史と現状、そして一人一人の「国民」の権利を教育で教えず、マスコミがある意味でこれらの問題をタブー視し、良くて「両論併記」で踏み込まない。この状況をどう壊していくのかが問題だ。
市民連合の「要望書」について言えば、日本共産党も大部分でこれに賛成しており、「市民と野党の共闘を発展させ次の総選挙で政権交代を実現し、野党連合政権を樹立する」ことを最大の目標としている。そしてその目指す社会は「ルールある(資本主義の)経済社会」だ。しかしわたしは、先に述べたような日本社会の現状を変えることは、選挙での勝利を目指す運動ではできないし、高梨さんが言われたように人民が主権者としての政治意識を獲得していくことが必要だと思う。自分たち自身の未来をどうやってつくっていくのかという意識を各人が持たなければ、社会を変え、それを維持・発展させることはできない。そのためには運動、人民がその中で自らを変革し成長できるような運動をつくっていかなくてはならないと思う。そのためには、自分たちの運動を常に捉えかえし、大衆運動の現場でそれをめぐる討論・論争を展開することが不可欠だ。
(高梨)多くの人が新自由主義のものの考え方に完全に毒されて、結局「今だけ、カネだけ、自分だけ」というようになっている。過去をかえりみて未来をどうつくっていくか、という発想に立つことができない。新自由主義の「成果主義と自己責任」に洗脳されてしまって、隣のやつは仲間じゃない、となっている。
働く仲間として手を取り合っていかなければならないという思想をどうしたら獲得できるのか、そこを明らかにしていかないと運動は進まない気がする。
(土松)われわれも参加している「壊憲NO! 96条改悪反対連絡会議」が主催した10・28労働者集会講演後の質疑応答で加藤晋介弁護士が「新自由主義的な考え方にみんな毒されている。競争とか、効率とかそういうことばかり言われて、労働者が朝から晩までキツキツで働かされ搾り取られているのが実情だ。そういう状況から脱却していかなければならない」と話されていたが、まったく同感だ。
十月革命記念集会の主催者あいさつで広野さんが「全人民の政治参加」の必要性を訴えていたが、そういう運動づくりを、運動の「受け皿」(=形態)のことも含めて構想し、実行に移していかなければならないと思う。ロシアでは一九〇五年革命の経験からソビエトという形態が生まれてきた。ベネズエラでもチャベス政権の時期にコムーナという地域共同体が創られ、それが政権を下支えしている。
運動の必要が形態を創りだす。もちろん、それを真似して器だけつくろうとしても、中身が盛り込まれなければ意味はないけれど。しかしわれわれは、選挙と国会前の行動にとどまらない、人民の政治参加の形態を、日本の前近代から現代にいたる歴史的経験を踏まえて構想するときではないか。
(広野)運動における知識人・著名人の役割という問題も大きいのではないか。かれらはいまでも、オピニオンリーダーとしての影響力を若干、とくに運動をやっている人びとの間に持っているが、「アベ・スガは良くない、いまの新自由主義的資本主義ではダメだ」とは言うが、その先にある現に抑圧され搾取されている人民が自分たちでどういう未来をつくり出すべきかを言わない。とくに社会主義についてはソ連型であれ、中国・朝鮮型であれ、「終わったこと」として口をつぐむか、冷笑すらしている。
山極壽一という元京大総長は、マスコミ等ではリベラリストの典型のように扱われているが、この人がインタビューに答えてコロナ後の世界について話しているのを読むと、資本家とあまり変わらないことばかり言っている。これからは国際的な大学間交流が盛んになる、このままでは情報通信技術やAIなどを担う人材を増やすことができず日本は取り残されるとか、留学生をもっと入れて日本の人材を作りかえろとか……。日本の「国難」を救えといった発想はブルジョワと同じだ。
新自由主義的思考に毒される若者たち
(藤原)学術会議の問題、「学問の自由」の問題については、具体的に言うと、「大学の授業料の無償化」ということをスローガンに掲げて闘う、このスローガンを出さない限り運動の可能性はまったくないだろうと思う。新自由主義の利益追求・効率至上主義がいま学生たちの間にどうやって浸透していっているかというと、体系的に新自由主義の思想を説かれて学生たちがその理論を受け入れているというのではない。
日々の生活の苦しさの中で、学生たちは授業料を工面するのにアルバイトをせざるを得ない状況にある。それができなければ大学を続けられない。大学に入ろうとする人は、奨学金という借金をして初年度の百数十万円の学費をねん出し、やっと大学に行って勉強や研究をする、そういう状況がある以上、学生には大学はより良い仕事を得るための足がかりとしか見えないし、そう見えた瞬間から、「学問の自由」なんてものは理屈として入ってこない。
自己責任と成果主義と受益者負担主義、卒業したら良いところに就職できる、おいしい汁をすえる、だからそうしたことも我慢しよう、となる。
借金をするのは当然、明日の生活がどうなるかわからない日常のなかで、新自由主義的価値観を飲み込まざるを得ないのが現実だ。この状況を変えようと思うのなら、「そうじゃない、大学の授業料があること自体がおかしい、しかもこんなに高いことがおかしいんだ」というスローガンを出すしかない。
(村上)授業料を返せという運動もおきていますね。
(藤原)ありますよ。だから可能性がないわけじゃない。対面授業がないんだもの。これじゃあ、放送大学でいいじゃないかと誰でも思うよ。
先ほど新自由主義に洗脳されているという話が出ていたが、洗脳というよりかは、日常の生活の中にそういうイデオロギーが組み込まれていてそれを受け入れざるを得ない、そういうイメージだ。
若い年齢層のことでいうと、この世代の内閣支持率が他にくらべて非常に高いという事実がある。それから学術会議問題についても、菅政権の対応を肯定する率が若い人ほど高い。おもしろいのは、トランプとバイデンの評価。社会調査研究センターが行なった調査によると、若い世代ほどトランプ支持が多くなっている。ご存知のとおりアメリカでは若者の方がバイデン支持だから、日本ではアメリカの選挙民の傾向とまったく逆の傾向が出ている。
元通産(経産)省官僚の古賀茂明という人が、﹁支持率高い菅政権のうさん臭さ﹂という記事の中で、ある大学生が次のようなことを言っていたと紹介している。
<「菅首相? それよりびっくりしたのは、安倍首相が突然辞めたこと。わぁ、辞めるんだ、って。病気だよね。それ聞いて、頑張ってんだなって思った。」「菅っていう人、全然知らなかったと思った」けど「令和おじさんだよね。どっか山の中から出てきて苦労した人だって親父が言ってた。パンケーキ好きとか、笑っちゃうよね。官房長官? よくわかんないけど、結構えらかったんだ!」「菅首相支持するかどうかって? うーん。わかんないけど。スマホ代下げるんでしょ。不妊治療とかは(中略)関係ないけど」「どっちか選べって言われたら、支持、かな」。>
実際本当にこんなふうに言ったかどうかは別として、いまの高校生、たとえば大学に進学すると言っている層を具体的に思い浮かべると、リアリティーがある。こういう感覚なのかもしれないと思う。
支配層は、令和おじさんとか、パンケーキ好きとか、そういうことを流せば若い層の支持を得られることをよく掴んでいると思う。日本の三〇代以下、とくに二〇代の若者向けにどういうキャッチを流せばどういう投票行動に出るのか。ネットなどの若者の情報網はすごい。それでポピュリズム的な世論ができやすい状況になっている。電通などは、『朝日』や『毎日』よりもその点をよく理解して世論誘導をしている。
(村上)若者は「保守」というより「保身」という新聞記事もあった。中西新太郎さんは、要するに若者は変化すると自分たちが置かれている厳しい現実がもっと悪くなると考えているから、触らずにこのまま置いておこうという意識が強いのではないか、と指摘している。
(安在)印象論だが、現在の学生は生まれた時から不況だったので、バブルとか景気がいい時を知らないわけで、自分の身は自分で助けなければいけないという意識が強い。
自己責任にせよ自助にせよ、「寄らば大樹の陰ではいけない」と言われつづけていると、ますます不安になって行動としては寄らば大樹の陰になってしまう。大きなものに頼っていかなければ、自分はふるい落とされるのではないか、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」じゃないが。不安になって、大きな力のある自民党とかを好意的に捉えるようになるのではないか。
(大山)学生の状況についてだが、わたしが関わっている児童福祉施設には都内の大学のボランティアサークルが日常的に来ていた。ところが今年度はコロナの影響で大学の授業がなくなり、キャンパスに入るなと言われていて、サークル活動もできない。ボランティア活動も禁止。だから、新しい一年生が入っていない。他のサークルのことも聞いたら、どこも活動ができないからどんどん潰れているという。授業はオンラインで学生は個々バラバラにされている。学生自治だとか、サークルによって人と人とが繋がるとかそういうことがもう危機的な状況になっている。
(高橋)学生など、若い人はまだネットでの繋がりがあるが、高齢者はもっとひどい。高齢者は、ほとんど会議もできない。集会もなくなり、かれらが担ってきた大衆運動がこの一年力を失ってきている。いろいろな文化運動のサークルもほとんどそうなっている。これほど支配者にとって楽なことはない。
(広野)「高齢者はもう死んでくださいよ。金もかかりますから。年金も死んでもらったら出さなくていいんだから」。
そういう政策なんだ。マスコミや運動体の機関紙などで、アベやスガの無為・無策という見出しが踊っているが、奴らはコロナ後を見据えている。支配階級としてやるべきことをやっている。人民に「自助」を押しつけ「公助」をしなければ高齢者は死んでいくし、運動も潰れていく。若い連中は、自己保身に固まっていて、社会変革を考える暇もない、と捉えているのだ。
社会主義の方向こそが状況を根本から変える
(高橋)コロナ禍の労働者の状況ということで言えば、JALやANAの社員が、家電量販店のノジマで、コールセンターや販売担当に出向させられている。東横インもそうだし、これらにあの竹中が会長をつとめている人材派遣会社のパソナがからんでいる。
(村上)JALでは初任給が一八万八〇〇〇円。そして一フライトいくらといった乗務手当が加算されるが、コロナの影響で国際便も国内便も激減してしまったので、フライトによるお金が入らない。生活できないという声が、いっぱい出てきているという。またこの間、女性、とくに非正規職の女性の自殺が急増しているとの報道もある。これが安倍・菅政治の現実だ。
(土松)この危機を利用して政府独占の方は労働法関係、雇用関係の制度をもっと悪くしようとしている。
テレワークの推進もその一つ。加藤晋介さんが10・28労働者集会で言っていたが、テレワークになると労働者が団結できない。集団的な労使関係が破壊され、自宅での労働でみんな個別に分断されて、上の方から会社がそれぞれの労働者を監視・統制する、そんな社会がつくられていく。
(井野)市民連合の「要望書」に戻るけど、この「要望書」に書かれていることを実現しようとすると、国家権力を握ってその権限を強め、反対者たちのサボタージュを許さないようにしなければならないだろう。それに対する資本家の強烈な反発にどう対処するのか、そうした観点がこれには抜けている。
たとえば法人税の引き上げだ。いま法人税率は平均三〇%を切っているといわれている。そのうえ資本が大きいほどさまざまな優遇措置を受けて二〇%、十数%という低い負担率になっている。野党共闘は負担を引き上げるといっているが、今日の日本独占の国際的競争力維持のための基幹部分に踏み込む修正を求めているわけで、法律さえできれば自動的に負担を増やせるというのは楽観的過ぎる。
かつて民主党が政権をとった時、公約した政策がコロコロと変わり後退していった。それはブルジョワジーの抵抗に対抗する政策の裏付けがなかったからだ。実現させる実力を見せることができなかったからだ。
その要求を実現する裏打ちは労働者階級の闘争力の誇示だろう。しかし運動主体の問題が相変わらず議論されていない。「総がかり行動」や「1000人委員会」の中心団体のひとつである「平和フォーラム」には自治労も名を連ねているが、都庁職の下部組織の組合役員だったわたしのところには運動の方針を討議せよとの指令は下りてこない。
だから労働現場で情勢認識・運動のすすめ方の論議がなされない。一部の幹事の間で議論してそれで終わってしまう。末端組合員の討議の裏打ちがない﹁要望書﹂がどんな力を持つというのか。十数年前、いやもっと前から職場を基礎にした組合運動がなおざりにされてきている。猿山のボスで満足している幹部が心を入れ替え、職場の組合運動を本気で立て直す、何十年か前のように職場の中で学習会をしたり話し合いをしたりして組合員の意識を変えていく、そういうボトムアップの努力を積み重ね、幹部や要望書を書いた連中をコントロールすることができて、はじめて「要望書」が力を持つことができるだろう。そのときはこんな内容ではないだろうけれど。
労働運動をはじめとした大衆運動の力こそが、人民の利益となる政策を実現していく裏打ちとなるわけで、運動を再建していかないことには現実の変革は見えてこない。
(藤原)「要望書」の中で「次期総選挙は、いのちと暮らしを軸に据えた新しい社会像についての国民的な合意、いわば新たな社会契約を結ぶ機会となる」との記述がある。「選挙」で「社会契約」を結ぶ、この発想にわたしは、いまひとたび驚いた。ルソーに先祖返りしているのか。そう言えば、二〇一五年の安保法制反対運動の時もしきりに「市民革命」が持ち上げられた。しかし、要望書ではその闘いの方法が「選挙」に切り縮められている。ルソーの思想の方がはるかに豊かな内容を有している。
(広野)この「要望書」をまとめた人たちが、いわゆる安保法制反対運動や野党共闘路線のブレインになっているわけでしょ。だからこれはある意味ではそうした運動の綱領的なものといってよい。
(土松)こんにちの日本の市民運動には社会主義を忌避する傾向が強くある。これを変えていく言論戦が問われている。いまの状況を根本から変革していくには社会主義の方向しかないのだから。社会主義イコール「全体主義」という捉え方に対する批判を『思想運動』はもっと系統的に展開すべきだろう。
たとえば資本主義国ではコロナの感染がまた急拡大しているが、中国やキューバ、朝鮮、ベトナムなどの社会主義国では抑え込みに成功している。これについても﹁全体主義だからできたんだ﹂と言った反共宣伝がなされているが、そうじゃない。生産手段の私的所有を前提とする資本主義では、人民の命や健康よりも資本の利潤追求=儲けを優先するから徹底した感染予防ができないのだ。またコロナ不況で資本主義国では大規模な首切りが行なわれ失業者が急増しているが、社会主義ではそんなことはおこらない。こうした点ももっと具体的に明らかにして社会主義の優位性を訴えていくべきだ。