政治 2020・政治 「菅政権」誕生をどう捉えるか(下)
労働者の歴史観、階級観を研ぎ澄ませ
資本主義的「自由」と「民主主義」、「人権」と「平和主義」を問う 
                         

広野省三

安倍辞任・菅首相就任後の一か月をどうみるか

菅政権の誕生から一か月以上が過ぎたが、わたしの状況把握は、ブルジョワ独裁政権としてある「第五次安倍改造内閣」が、その悪質さをいよいよ増しているという認識だ。十月二十六日に開かれた第二〇三臨時国会での菅所信表明演説は、就任前から「安倍と二人三脚でやってきたことを継承する」と言いふらしているのだから、当然と言えば当然のことだが、反省もなければ中身もまったく新味がない。しかし、邪魔者は排除する、規制改革は徹底してやるゾ、という脅しだけは十分きかせている。
『週刊文春』十月十五日号が「学術会議で露呈した『人を見る目』/菅『恐怖人事』と怪ブレーン」を冒頭五ページの特集でやっている。菅のブレーンを分野別に五人ほどあげ、観光分野は元ゴールドマンサックスの英国人アナリストで国宝などの修復を手掛ける「小西美術工藝社」社長のデイビッド‐アトキンソン、もう一人は前号でも取り上げた竹中平蔵。竹中はテレビ番組で「月七万円支給で年金も生活保護も不要」とベーシックインカム論をぶち上げている。この二人は、菅が新しく設置した「成長戦略会議」の有識者委員にもなった。もう一人の国際政治アナリストの渡瀬裕哉は、前回の米大統領選でトランプ勝利を予測していた。幸福実現党とのつながりが指摘されている。残り二人は新型コロナウイルス対策での和泉洋人首相補佐官と大坪寛子厚労省審議官。菅はワクチンをコロナ対策の柱に据えようとしている。
「シンちゃん」は、『産経』十月十五日号に八段見開き二ページでインタビューに応えている(大小カラーの肖像写真三枚あり。そのうち一枚は腕を組み、いかにも宰相然とした格好で掲載)。大きな見出しを取り上げてみると「一斉休校は行動変容を促した」、新型コロナ対策では「死者抑制や治療薬開発支援に全力」、歴史認識では「70年談話『戦後』終わらせた」、「安保法制で日米同盟深まった」、外交・安保と拉致では「戦争に巻き込まれるリスク減らす」、自民党・憲法改正では「選挙勝利なら菅氏続投を」である。批判されても、責任を問われても、説明責任は果たさず(果たせない)、なにごとにも恬として恥じない、この無思想・無反省が、「シンちゃん」の強みなのだ。
十月二十四日付の『産経』は、安倍が会長を務める自民党保守系議員連盟「創生日本」が活動を再開し、自民党内での保守派再結集の動きを報じている。
日本学術会議から推薦された会員を任命拒否した件でマスコミと野党・市民の菅批判が盛り上がるなか、所信表明演説でこれに一言もふれないのも安倍・菅に共通する政治的体質だ。これについてわたしは、断言はできないが、モリカケ・桜などを逃げ切ったやり方に味を占め(モリカケなどの失敗をむしろ逆利用して問題の解明・解決をさまたげ、長期化・うやむやにし収束をはかる手口)、またぞろ自分たちで問題を作り出し(自分たちのミスのように見せかけながら)、裏では着々とブルジョワ権力の基盤強化を図っているとみている。河野の発言などをみると、学術会議を独立法人化する狙いが最初にあって、これをやっているのだ。菅は二十六日のNHKの番組で「わたしは前例踏襲をしないと言っている」と発言したが、「安倍政権を継承する」との発言との整合性もなにもあったもんじゃない。人を言いくるめる舌が、百枚も二百枚もあるのだろう。前述した安倍インタビューを読んでも、ほんとうに懲りない面々なのである。
菅政権による学術会議任命拒否問題については、わたしもそれが違法であると思う。創立以来三度出された戦争協力への反省と軍事目的のための科学研究協力拒否の声明も支持する。しかしこの拒否事件はいっぽうで、小中高の教職員会議、大学の教授会、労働組合、学生自治の破壊が極点にたっしている現実、政府・マスコミ・学界・企業一体となった「原発ムラ」や各種学会の産軍学共同の実態を受けて作り出されているのではないか、とも考える。

レーニンの著作を読む

話は変わるが、われわれは今年、「レーニン生誕一五〇周年に際しての共産党・労働者党の共同声明」に賛同した。これを機に、マルクス・エンゲルス・レーニンの思想と実践を、「教条ではなく行動の指針」として取り扱い、こんにちの世界と日本の情勢分析と具体的な闘争方針の基礎にすえる目的で、学習検討会を実施している。そこでは、一五〇年前のパリ・コミューン、一〇〇年前のロシア十月社会主義革命、そして第二次大戦後の東欧、アジア諸国での人民革命勝利の経験、さらに八九年から九一年にかけてのソ連東欧の社会主義体制倒壊の経験から導き出され、現代も追究されるべき教訓にくり返し遭遇する。
レーニンは一九一七年の十月革命の直前に「エス・エル(社会革命党)やメンシェヴィキ「左派」(どちらもロシアでの社会主義革命に反対した)の小ブルジョワ的おしゃべりたちに理解できないことを、ブルジョワジーは見事に理解している。それは、巨大な経済革命を行なわなければ、銀行を全人民の統制のもとに置かなければ、シンジケートを国有化しなければ、資本を抑える最も仮借ない一連の革命的方策をとらなければ、ロシアで土地の私有を廃止し、しかも無償で廃止することは不可能だということである」そして「ブルジョワジーが小ブルジョワジーと違う点は、ブルジョワジーが、自分の経済的および政治的な経験から学んで、資本主義制度のもとで「秩序」(すなわち、大衆の奴隷化)を維持するための条件を理解するに至った、ということにある。ブルジョワは実務家であり、商売の計算に長けた人間である。かれらは、政治問題をも厳密に実務的に取り扱うことに慣れており、言葉を信用せず、物ごとの急所を押さえるのに巧みである」(『立憲的幻想について』)と記している。
わたしはこれを、こんにち安倍・菅ブルジョワ政権と闘う上での、重要な警告として受け取っている。
階級対立の非和解性が国家発生の源であると説き、支配権力維持のための暴力装置としてある警察、軍隊、監獄、司法の存在を明らかにする『国家と革命』は、マルクス主義国家論の核心であるが、レーニンは「……エンゲルスの著作『家族・私有財産および国家の起源』をあげておいた。同著ではまさに次のように言っている。土地と生産手段の私的所有が存在しており、資本が支配している国家は、どんなに民主的であろうと、すべて資本主義国家であり、労働者階級と貧農を隷属させておくための資本家の手中にある機構である。そして、普通選挙権、憲法制定議会、国会――これらはただの形式であって、一種の約束手形にすぎず、けっして事態を本質的に変えるものではない」とも記している(「国家について」)。
わたしが言いたいのは、「違法だ」と叫ぶことは重要だ。その法を、たとえブルジョワ法であっても労働者人民のためになるものなら守らせる闘いは必要だ。しかしそれは、教育・学問研究の現場での闘い・実践の裏打ちがなければ空論になるということだ。

知識人と日本学術会議

マルクス主義者で文学者の花田清輝は、「わたしは、戦争中、日本の知識人が、抵抗らしい抵抗のできなかった最大の原因を、かれらの道義的な退廃にではなく、かれらのプロレタリアートとの組織的な連携の不足にもとめないわけにはいかないのだ。……今のような孤立した状態のままで、日本の知識人が、再び戦争に突入していったならば、かならずかれらは、もういちど、手も足も出ない状態におちいるのは火をみるよりもあきらかだ。そして、それは、かならずしもかれらに勇気がないためではないのである。」(『政治的動物について』)。「おそらくかれらは、知識人が、資本家のがわにもつかず、労働者のがわにもつかず、独自の道を歩き続けていきさえすれば、やがてその業績がものをいうと信じているのにちがいない。しかし、残念ながら、それは、かれらのイリュージョンにすぎない。」(『日本における知識人の役割』)。「そもそも……、知識人が、プロレタリアートとの共同戦線をはらないで、抵抗らしい抵抗ができるとでもおもっているのか。……精神的自慰を試みることをもって抵抗と心得ているのならいざ知らず、それは、まったく不可能事に属する。」(『日本における知識人の役割』)と書いている。
学術会議については、歴史学者の羽仁五郎が「日本学術会議にしても、占領軍最高司令部の勧告によって制定されたようにも考えられているが、じつはそうではない。近代の世界の各国で制定された学士院アカデミイは、現在どこの国でも特権的なものになってしまっているが、ぼくは一九四五年十二月一日、全日本教員組合創立宣言のなかに、帝国学士院の廃止およびアカデミイの改革を主張していたが、そのあと、ぼくの主張する方向において占領軍最高指令部の勧告による方法にもとづいて日本学術会議ができた。したがって、一九四八年十二月のその創立の当時には、その方向が認められていた」。「現に、日本学術会議の創立総会のときに、ぼくはまっさきに、日本学術会議が活動を開始する大前提として、これまでの日本の帝国主義の戦争政策に対する学者の追従の責任を根本的に反省する宣言を発表することを要求した。つまり、日本の学者が戦争責任に対する反省をしなければ、どんなに新しい制度を創立してもだめだと主張したのだ。このぼくの主張は、その段階ではみんな承服したのだ。/ただ『羽仁君の言ったことをそのまま宣言に書いたのではあまりに激しすぎるから、その提案は認めるが、宣言の起草委員会をつくる』というので、京都大学の末川博君がその委員長になり、ぼくはその起草委員会に入れなかった。/その委員会の起草した宣言のなかで、ぼくの主張した学者の戦争責任の点はどういかされたかといえば、『日本の学者は従来とり来たった態度を反省し……』という、あいまいなものになってしまった。まさにオブスキュランチズム(あいまい主義)の典型だ。どっちにでもとれるような日本語の最悪の特色をフルに発揮したものだ」と語っている(『自伝的戦後史』)。
先月号のわたしの時評についても引用が長いとの意見が聞かれたが、前号では支配階級の政治的方向性、政策の意図、敵の結びつき、配置図、内部対立などをできるだけ正確に捉えるために、ブルジョワ新聞などに現われるかれら自身の言葉に語らせる方法をとった。苦々しいことだらけだが、そこから目をそむけず、現実の彼我の力関係を直視することが、敵を倒す契機になると考えるからだ。「彼を知り己を知れば百戦殆(あやう)からず」とは、なかなかいかないだろうが……。今号では、マルクス主義の先人の発言を使う。新しい会員・読者を作り出し、われわれの活動をどう引き継いでもらうかは、われわれの運動の第一課題とも言える。その意味でわたしは、古い文章でも適切な引用は、それがたとえ長くても必要不可欠だと考えている。
こうしたことを考えるのは、安倍や菅らに反対する運動の指導部が、その情勢分析と闘争方針で、階級闘争の歴史、戦争と差別と貧困の根底にある資本主義の根本問題、生産手段の私的所有の問題、搾取の自由の問題、財産権の問題をはっきりと指摘しない状況がつづいていることに不満があるからだ。たぶんかれらは、これを言うと運動参加者の幅が狭まると考えているのだろう。
その運動のなかでは、安倍らに反対する概念として、自由、平等、民主主義、人権などが掲げられる。しかしわたしは、「われわれは自由、平等、多数者の意志というような聞こえの良いスローガンで自分を欺くものではない。民主主義者、純粋民主主義の支持者、徹底的な民主主義の支持者と自称して、民主主義を直接あるいは間接にプロレタリアートの独裁に対置する人々を、われわれはコルチャック(ロシア革命の後、反革命軍を率いて革命政権と戦った)の助力者として取り扱う」また「われわれはつぎのようにこたえる。そうだ、イギリス、フランス、アメリカの紳士諸君、君たちの自由が資本の抑圧からの労働の解放に矛盾するのであれば、君の自由は欺瞞である。文明的な紳士諸君、君たちは小さなことを忘れている。私的所有を法制化している憲法の中に諸君たちの自由は書かれているのだということを、君たちは忘れている。まさにこの点に問題の核心がある」というレーニンの言葉(「校外教育第一回全ロシア大会――自由と平等のスローガンによる人民の欺瞞について」)を考えの基本に置く。
わたしは、こうした考えを、ただちに安倍・菅政権反対運動の正面に掲げよ、と言っているのではない。しかし、資本主義の引き起こすあらゆる矛盾、桎梏からの労働者階級人民の解放を根底に踏まえて個別の闘いを展望しないと、階級闘争の観点に立ち、明確に危機を自覚して労働者攻撃をかけている資本家階級に対して有効な反撃はできないと考えているからだ。むろん、私的所有の問題に一歩でも踏み込めば、資本家階級は容赦しない。関西生コンの闘いをそうしたものとして、わたしは認識している。
COⅤID‐19の世界的拡大が止まらないなか、資本家階級はよりいっそう労働者攻撃を強めるだろう。新しい、しかし古い原則的闘いが求められている。資本の抑圧からの労働の解放を求めて闘った先人の経験、その歴史のなかには、われわれの闘いの武器が高く積まれている。

運動側の安倍辞任に対する評価と、今後の展望

いっぽう少し古くなるが、日本共産党の志位委員長は九月八日に新宿西口で街頭演説したが、それを要約すると、〈首相の辞任表明は直接は健康悪化が原因だが、おおもとに「安倍政治」の行き詰まりがある。「アベノミクス」で実質賃金は下がりっぱなし、「安倍外交」はトランプのいいなり。辺野古新基地をつくり、武器を爆買いし、「思いやり」予算を貢ぐ。新型コロナウイルスの対策の問題点、9条改憲ができなかったこと。辞任表明は、こういう「安倍政治」の行き詰まりの結果なんです〉。この安倍批判はわたしも大方同意する。
しかしわたしは、七年八か月も在任を許し、あまたの悪事を働いた安倍を引きずりおろせずに逃亡させたことの反省抜きに、「国民のみなさんの世論と運動が大きく追い詰めたことに自信をもって、新しい情勢にのぞもうではありませんか」。そしてその結論の「安倍政治との闘いの決着は、総選挙でつけよう」(拍手)に反対なのである。
共産党系の運動団体は、おおかた志位委員長の評価・行動提起に倣(なら)うものである。『新婦人しんぶん』は「声明 世論と運動に追いつめられ、安倍首相辞任――憲法が生きる、ジェンダー平等の新しい政治を」を九月一日、新日本婦人の会中央常任委員会名で出した。
いくつかの新旧左翼政治グループの見解を見てみよう。『週刊かけはし』は九月二十一日付で一面トップから二面の半分を使い「日本政治情勢とわれわれの課題(討論のために)上/安倍長期政権誕生の背景を問う/労働者・市民はいかに闘うべきか」を掲載。「持病の潰瘍性大腸炎の再発を『辞任の理由』としているが、歴代最長期政権の樹立をレガシーに、出口の見えないコロナ危機で火だるまになる前に政権を投げ出して逃げ出したというのが本当の理由だろう。……同時にそれは……官邸主導の『安倍一強』独裁政治の終焉を意味している」と書いている。
『コミュニスト デモクラット』編集局は九月七日「『安倍なき安倍政治』と闘おう――世論と運動を強め、菅=自公政権打倒へ進もう」を発表。「安倍政治は、広範な人民からの批判でことごとく行き詰まった。戦争法反対や森友・加計・桜などの暴露と追及をはじめとする一つひとつのねばり強い闘いが、政権の手足を縛り、辞任へと追い込んだのである。『任期内改憲』という安倍政治の最大の政治目標・野望を破綻させた」と書いた。
『長周新聞』は九月一日の「記者座談会 コロナ禍の敵前逃亡 あっけない放り投げの背景にあるもの」を掲載しているが、ここでも安倍政治の数々の失政が取り上げられ「新型コロナの感染拡大に歯止めがかからず、経済活動の低迷によってGDP成長率が戦後最大の落ち込みを見せるなか、まさに政治リーダーとして重責が問われる局面での『放り投げ辞任』となった」としている。
ほかにもわが事務所に送られてくる機関紙誌類を読んだが、安倍辞任に対する見解はおおよそ共通している。
これらを読むと、わたしは、やはり安倍・菅政権のやってきたこと、やろうとしていることに対する、反安倍・菅政権を標榜する政党・政治グループ・大衆団体指導部の階級意識、危機意識の弱さを感じざるを得ない。その思いは、なかなか伝わらないだろう。しかしこれらの集団の見解とわたしの考えの違いを、安倍・菅政治に反対する大衆運動に参加する者同士で討論すること、そこから新しい発想・運動をどう形成していくかを模索するべきだと考える。そこではわたし自身の力量が試され、論争で負けることもあるだろう。しかしそれを恐れていては運動・共同闘争の発展はない。だからこそこうした考えをわが新聞『思想運動』に執筆するのだ。

『思想運動』の読者対象

わたしは、われわれの新聞の読者対象と目的は、まず会員・読者・寄贈者であり、かれらとの共通の情勢認識の形成、情報の共有、行動提起にあると考えている。そのうえで他の集団に所属していても社会主義を目指して苦闘している人、マルクス主義を学ぼうとする人、労働運動の現場活動家、さらに労働者の闘いに協力する意志のある知識人の人びとに届けたいと思っている。そしてその先に、というか同時に、まだ出会ったことのない、マルクス主義の文献も用語も学んだことのない読者の問題が出てくる。この人たちに「ハイ、どうぞ」とわれわれの新聞を渡したところでチンプンカンプンということもあるだろう。それにどう対応するかは、書き手の問題もあるが、最初の読み手である会員・読者の問題もあると思う。つまりこの新聞に書いてある記事を、読者になってほしい人に、どうかみ砕いて説明できるかである(むろん、主張内容に疑問があったら自分でも研究し、議論する必要がある。マルクス主義は科学なのだから。それをしないでこの新聞の主張に反対なら、そもそもそれを広げることはできない)。
「社会主義」「国際主義」とお題目を掲げているだけでなく、労働者階級の先頭部隊の一員としての理論と自覚を持ち、それを職場や学園や地域の仲間にどうやって伝えていくか。こんにちの厳しい職場環境のなかで、いくら自分自身が『思想運動』の主張が正しいと思っても、なかなかそれを広げられない、と葛藤している仲間の声を聞く。もちろんそうだろう。労働者大衆は理論だけで政治に、社会主義に近づくのではなく、さまざまな経験をへて、それも稀にそうなる。われわれの大衆にとけこむ能力が試される。
『思想運動』に「労働者通信」を書くことや、職場新聞の発行やビラが、わが新聞と労働者を結ぶ糸となることもあるだろう。移住した先でコメをつくっている会員は、地域の大衆運動に参加し、その仲間とマルクス主義の文献を読む活動をしながら新聞を拡大している。さまざまな専門分野で活動する知識人との関係も、社会主義者か否かだけで判断するのではなく、ひろく協働の道を探らなければならない。HOWSの活動はそうした場としてもある。

社会主義こそが労働者階級人民がすすむべき道だ

わたしは、こんにちの日本社会の政治・イデオロギー状況は、わが会が発足した五〇年前と基本的に変わっていない(資本主義体制下)が、より悪化し、ファシズム体制へと転げ落ちていっている、と捉えている。
日本の労働者政党、政治グループ、安倍・菅政権に反対する市民運動(「リベラル」派も含めて)の多くは、さかのぼれば、少なくとも一九五〇年代後半からの反スターリン主義で既成の社会主義国を否定する新左翼の登場、ユーロコミュニズム、福祉国家論、「市民主義」主義、西欧から流れ込む「現代思想」、ジェンダー論、ベーシックインカム論、SDGs(持続可能な開発目標)論の台頭などと、理論的かつ批判的に対応できず、反社会主義イデオロギー注入のためにこれらを利用する支配権力とその手先のブルジョワマスコミに煽られ、多勢に無勢、大衆の歓心を買いつつこの流れに無批判に追随している。
それは、今年一月に開催された、野党と市民との連携で選挙によって政権獲得を夢想する日本共産党第二八回党大会の新綱領を読めば一目瞭然、労働者階級の階級的、歴史的、国際的視点、資本主義打倒、労働者権力樹立の理論と意志が決定的に欠落している。新綱領では、中国を「新しい覇権主義・大国主義」と非難し、一般論としての「国際社会」「市民社会」「人権」がそれと対置され、「発達した資本主義国での社会変革は、社会主義・共産主義への大道」としながらも、社会主義革命への道は実質上放棄され、「持続可能な開発目標(SDGs)、ジェンダー平等」などが掲げられている。そして中国、朝鮮敵視でアジア人民との連帯の道を閉じている。
資本主義体制が生みだす矛盾に対する反対・改良闘争すら大衆運動として十分展開できず、「選挙の票集めだけが党活動」といった状態が、五〇年以上続いている。日本共産党のナショナリズム・議会主義・大衆追随主義への決定的な転落のもとで、日本の労働者階級人民は、社会主義への展望を持ちえずにいる。

戦後日本の歴史の現実

敗戦直後から、そしてそれ以前からも、米国と日本の支配階級は、天皇制の堅持を含めて強烈な反共主義を、その根底に持っていた。敗戦後に存在した社会主義陣営との連携の道も、朝鮮戦争の勃発を契機に断ち切られ、一九五一年のサンフランシスコ講和条約と日米安保条約の成立によって日本国は明確に西側陣営に組み込まれた。朝鮮戦争特需で日本帝国主義は復活し、ベトナム戦争特需で高度経済成長を導き、八〇年代以降の東南アジアへの再侵略によって日本国は米国に代わるナンバーワンの座を脅かすという位置(夢)にまで登りつめた。
しかしその後バブルは破裂し、「失われた二〇年」の長期停滞、「起死回生」逆転ホームランを狙っての「アベノミクス」でも事態は改善できず、金持ちはいっそう金持ちになり、貧乏人はいっそう貧乏になる、超格差社会(超金持ち優遇社会)が現出した。
敗戦後一貫して、米日支配階級は、政治・経済・軍事の全分野にわたってソ連攻撃をしかけた。マスコミを総動員した反ソ・反社会主義イデオロギー攻撃は、執拗かつ激烈だ。
念願かない、一九八九年から九一年にかけてソ連・東欧の社会主義政権の倒壊が実現した。このことが、こんにちの日本社会とその反体制政治勢力(「左翼」市民運動を含めて)の間に、それまでかろうじて存在した「戦後民主主義」、「リベラル」、「社会主義志向」意識を変質・解体させた。野党の離合集散がくり返され、その過程で、石原や橋下、さらには小池などの、自民党を右へ右へと引きずる勢力が登場し、新しい歴史教科書をつくる会や日本会議、そして各種ヘイト集団が跋扈し、書店には嫌韓・朝、反中本が所狭しと平積みされる状況が日常化した。いまや日本の労働運動や青年学生運動のなかに、マルクス・レーニン主義を集団の要と位置づける運動体は皆無といってもいい状況にある。
しかし、ソ連・東欧社会主義の倒壊から三〇年、帝国主義陣営に、思わぬ暗雲が立ちこめ始めた。中国の経済的・政治的台頭、反米勢力としての中露の協調、キューバ・朝鮮・ベネズエラなどの反帝反米社会主義路線の堅持、そして現在の新型コロナウイルス感染症の世界的拡大もあって、米国の世界一国支配体制が動揺している。
新型コロナ感染症のパンデミックと前後して、世界構造、世界の力関係は激変している。しかし、いまだその力関係は軍事・金融・情報などの分野で、米帝国主義の優位にあるが……。その危機感ゆえに、トランプをはじめ世界のブルジョワ支配階級は、より激しく、より露骨に、人民の肩への負担の転嫁、弾圧政策を強化している。トランプをはじめとする世界各国の右翼・自国第一主義勢力(日本の安倍・菅政権もこの例にもれない)は、みずからの危機を明確に認識している。だからこそ、「自国第一」と言いながら、社会主義、とりわけこんにちでは中国への攻撃的対応で一致して、米国の指導のもと団結しているのだ。
この世界構造を認識しない「左翼」(とりわけ日本の)と労働者階級人民の闘いの弱さが、泥沼に陥っている資本主義の延命を許している。
資本主義体制の構造的矛盾、金儲け第一主義、金が儲かれば殺人も戦争もウェルカム、コロナで感染が拡大し、死者が増加しても利潤との見合いで歩留まりを計っているとしか思えない対応をとる。日本独占資本の支配体制は、政界・財界・官僚・学界・司法・マスコミなど、うまみを知っている既得層がはびこり、血縁・地縁・学閥のオンパレードである。敗戦をへても天皇家がなんのお咎めもなくつづいているのだから、われわれ下々がそのおこぼれにあずかってなんの罪があるか、というところか。
そしてやつらは県民の圧倒的多数が反対する沖縄への米軍基地の押し付けをやめないし、関西生コンの労働運動を徹底的に弾圧し、朝鮮学校への差別をくり返す。さらにやつらは、朝鮮・中国への敵対と、国内で自分たちの支配に抵抗する者への差別・抑圧が、日々労働と生活に苦労している労働者人民に、現実逃避と敵を見つけることへの快感の感情を与えることを知って利用しているのだ。

憲法擁護運動の弱点と「敵の旗」掲げた安倍批判

憲法擁護運動のなかに「戦後七〇年他国を侵略しなかった平和国家日本」論があるが、前述したように日本国の戦後の過程を振り返ると、そんなことは決して言えない。憲法9条があること、その条文・形式は重要だ。しかし自衛隊の存在と日米安保の実態を無視して、形式だけに固執して「憲法9条を世界遺産に」などをスローガンに安倍らを批判する状況がなかったか。
「戦争は二度と嫌だ」という意識は、指導部にも労働者人民のなかにももちろんある。だがそれをどうやって止めるのかという問題にまではなかなかいかない。戦後革命の挫折から朝鮮戦争、サンフランシスコ講和条約と日米安保、60年安保を経てのベトナム戦争、そういうなかでの日本人民の闘いの弱さ(もちろん成果も十分受け継いで)についての自己批判が少ない。
朝鮮人民、中国人民、あるいは韓国労働者階級の闘いの根底に何があるのかを捉えそこなっている。韓国・朝鮮の闘いでよく言われるのが「親日派」との闘いだ。三・一独立運動、抗日パルチザン闘争、李承晩を追放した一九六〇年の四・一九学生革命、朴正煕軍事独裁政権に対する闘い、八〇年の光州蜂起、それにつづく八〇年代後半の民主化闘争と労働者大闘争が軍事独裁政権を倒し、一時的蹉跌をへて朴槿恵政権を退陣させた。その闘いの根底には、明確に反帝国主義の歴史認識が存在する。
さらに言えば、わたしは第二次大戦、アジア・太平洋戦争については、①帝国主義間戦争、②反ファシズム戦争、③対ソ反共戦争(米・英・仏などは戦争末期までソ連の敗北を望み、それが叶わないと米国は以後の対ソ対決を有利にするためヒロシマ・ナガサキへ原爆を投下した)と認識し、④アジア・太平洋戦争で言えば、中国の八路軍、朝鮮の抗日パルチザン、そしてフィリピンのフクバラハップ(われわれが連携しているフィリピン共産党〔PKP‐1930〕はその直接の流れをくむ)などの抗日独立の闘いが日本帝国主義打倒の原動力であったと捉えている。
この第四番目の闘いと歴史の意味が、日本人民の指導部と大衆にすっかり忘れさられて、米国に負けたことだけが刷り込まれ、米国に従属させられているという意識が抜けない。もちろん在日米軍の基地使用や日本上空での傍若無人な飛行など、従属状態は明らかなのだが……。
戦前の「暴支膺懲(ぼう し よう ちょう)」とか「匪賊(ひ ぞく)」という意識が、日本帝国主義が自立していく過程で、また中国に追い抜かれる、朝鮮が米国との対決で一歩も引かない状況のなかでまたぞろ復活してきている。それを政府が掣肘せず、安倍らが煽り、ヘイト集団・右翼の伸長とともに金儲けに利用するメディアの動きが強まり、「普通の国民」の間にもこの意識が広がっている。
共産党や知識人たちに階級的な歴史観が欠落していることが、これを増長させている、とわたしは捉えている。
わたしはテレビを見ないが、新聞を読むと反安倍・菅を公然と発言している知識人・ジャーナリストが、枕詞のように「安倍みたいなことをやるのはどこかの国の人と同じだよ」とか「安倍や菅は中国のように強権政治をやれないからくやしがっている」とか、安倍のふるまいを批判しつつ「そうしたらいたいた、ほほえみ外交に惑わされるなとか、僕らの国の首相に言われたあの国北朝鮮のトップだ」とかの発言が連日たれ流されている。
つまり「安倍的なもの」を批判するときに、そういう枕詞を使って、自分は朝鮮や中国の体制を認めていませんよ、ということをアピールしつつ、安倍のやり方はひどいといって人びとの気持ちをリードするのだ。
それは共産党も含めてだが、自由・平等・民主主義・人権というものを、歴史的・階級的に捉えるのではなく、それを一般論としてとらえ、いわば「敵の旗」を掲げて闘っているのだ。その時にかれらの考えの根本にあるのは、社会主義の中国・朝鮮は全体主義、権威主義国家で、民主主義国家である日本はそうであるべきではない(自分たち自身を含めた日本社会の内実を問わずに)というものだ。
わたしは、中国・朝鮮・アジア人民の闘いが日本軍国主義の敗北に貢献し、「平和国家日本」の可能性を切り開いたし、中国・朝鮮・アジア人民との連帯・団結こそが安倍・菅らの戦争政策を止める闘いの要であり、日本社会の変革の基礎に置かれるべきだと考えている。
知識人との連帯を考えるとき、わたしは再び花田清輝の言葉を思い出す。「わたしは、……いささか単純化して言えば、プロレタリアートおよびそれにつながる大衆の利害に役立つものは『善』で、役にたたないものは『悪』だとおもっているのだが、なにが役にたち、なにが役にたたないものかをきめてくれるものは、道徳ではなく、科学にほかならない」(『モラリスト批判』)。
理論が大衆をつかむとき、それは絶大な力を発揮する。
「壊憲NO! 96条改悪反対連絡会議」が取り組んだ「無料で何度でもPCR検査を受ける権利を求める署名」活動には東京清掃労組や全水道東京水道労組、国労高崎地本をはじめ国労組織、関西生コンなどの組織的取り組みがあった。コロナ下でもねばり強く取り組まれている東京東部労組や全統一労組の活動、十月二十三日のユナイテッド闘争団の銀座デモには四〇〇名が結集した。
こうした闘いを軸に、地獄へ引き込もうとする安倍・菅らと真正面から対決する、階級的労働戦線の構築、そのために共に努力しよう。
(十月二十八日記)