雑誌『国際主義』第一号を読んで
KKE「コミンテルン100周年にあたっての声明」を読む
人民戦線戦術の「再転換」について

湯地朝雄の指摘を手がかりに

以下でわたしは、本誌創刊号に掲載されたギリシャ共産党(KKE)の「コミンテルン一〇〇周年にあたっての声明」(以下「声明」)を読んで気がついたことを書く。それは、第七回大会(一九三五年)で採択された「人民戦線戦術への転換」が、その後の推移のなかで「再転換」されていた事実認識が欠落している点にかかわっている。
わたしにこの認識を与えてくれる契機となったのは、〈活動家集団 思想運動〉創立以来の会員で文芸評論家・湯地朝雄(故人)の『戦後文学の出発―野間宏「暗い絵」と大西巨人「精神の氷点」―』(スペース伽耶刊、二〇〇二年)だった。この本のなかで作者・野間宏と文芸評論家・平野謙の「人民戦線」観を批判した湯地は、「ナチス・ドイツがポーランドに侵攻、英仏が対独戦線布告をしてすでに始まっていた帝国主義戦争が第二次世界大戦に発展した」一九三九年九月、コミンテルン執行委員会書記局会議でディミトロフがおこなった報告「戦争と資本主義諸国の労働者階級」(現代思潮社刊『コミンテルン・ドキュメント3』一九七七年、大月書店刊『コミンテルン資料集6』一九八二年)を検討の俎上に乗せた。この報告の主題、人民戦線戦術からの「再転換」は、事実上、歴史の闇のなかに埋もれていたのである。
ディミトロフ報告の背景には以下のような情勢変化があった。第七回大会で採用した人民戦線戦術はこのときすでに破綻していたのである。スペインでは、ヒトラーとムッソリーニの支援を受けたフランコ将軍が人民戦線の共和国政府にたいして反乱を起こして内戦に発展し、英仏の「不干渉政策」と相まって、一九三九年三月に敗北を余儀なくされた。一方、三六年六月にフランス人民戦線政府が成立。共産党は閣外協力のかたちで発足したが、社会党首班ブルム内閣は、共産党の反対を押し切ってスペイン内戦に「不干渉」の態度をとった。それはヒトラーとムッソリーニのフランコ支援にたいして見て見ぬふりをすることを意味した。フランス人民戦線政府は、その後の曲折を経て、急進党ダラディエ政権下の三八年九月、英首相チェンバレン(保守党)とともにミュンヘンでヒトラーと会談し、チェコスロヴァキアのズデーテン地方を割譲する悪名高い「ミュンヘン協定」を締結するに至り、十一月、急進党の人民戦線脱退によって名実ともに終止符を打った。

コミンテルンの方針の「再転換」とは

人民戦線戦術は「共産党が社会民主諸党、小ブルジョワ的な『民主主義』諸党、『急進的』諸党と共同行動をとることを前提としていた」(ディミトロフ報告)。いまやその前提が崩れ去り、「これら諸党の上層部は、いまでは帝国主義戦争を積極的に支持する立場に公然と移行してしまった」。こうした認識のもとにディミトロフ報告は、以下のような結論を下した。「帝国主義者と共同戦線をつくって犯罪的な反人民戦争を支持している連中と共産主義者とのあいだには、どんな統一戦線もありえない。……現在の情勢の下では、労働者階級の統一の実現は、……社会民主党の裏切り的上層部との断固たる闘争のなかで、下から達成しなければならない」と。
第七回大会はコミンテルンが開いた最後の大会となった。この大会では「人民戦線戦術」の採用と同時に、機能と機構の縮小・再編が決議された。この点についてギリシャ共産党第一八回党大会(二〇〇九年)が採択した「社会主義に関する決議」(以下「決議」、スペース伽耶刊『ギリシャ共産党は主張する』二〇一〇年)は次のように書いていた。「基本的政治テーゼと世界の労働運動の戦術に関するテーゼの立案へと活動の中心を転換し、各国の具体的状況と独自性を考慮するよう」、また「各国共産党の組織内の問題への直接的介入を原則として避けるよう」執行委員会に勧告し、「各国の党の運営上の指導権が党自体に移された」。地域書記局が廃止され、執行委員会の各部門に代わって幹部局と宣伝大衆組織局が設立された。そしてこれがやがて解散に至る伏線となった。
湯地は書いている、「コミンテルンの戦術再転換(「双方の側からする帝国主義戦争」という戦争の性格規定の変更――筆者注)は、ヨーロッパの、特にイギリスやフランスのコミュニストたちを一時的に混乱させないわけにはいかなかった」と。「彼らはそれまで、自国政府を反ファシズム闘争に立ち上がらせるために努力していた」からである。わたしは先にディミトロフ報告は「歴史の闇のなかに埋もれてしまった」と書いたが、これは正確ではない。湯地が書いたように、「再転換」は、少なくともヨーロッパのいくつかの党のあいだでは認識されていた。ギリシャ共産党の場合はどうだったか。先の「決議」は「コミンテルンの執行委員会書記局は、一九三九年九月九日に、この戦争を双方ともに帝国主義的で略奪的なものと見なし、戦争に巻き込まれている各国のコミンテルン支部に対し、戦争に反対して闘うよう訴えた」(原注46)とあり、ディミトロフ報告の存在は認識しつつ、しかしこれを人民戦線戦術からの方針の「再転換」とは認識していなかった可能性が残る。このとき、コミンテルンはその役割をすでに縮小しており、機関誌『共産主義インターナショナル』で発表されたとはいえディミトロフ個人署名論文として発表されたその形式も、各国共産党に浸透しなかった一因ではなかったかと思われる。
にもかかわらず、わたしがここで「歴史の闇のなかに埋もれてしまった」とあえて書いたのは、この点にかんするソ連共産党の認識に疑問を抱かざるをえなかったからである。湯地によると、ソ連で出版された『コミンテルン略史』(一九六九年)ではなぜかディミトロフ報告が黙殺され、「世界共産主義運動は、すべての反ファシズム勢力を結集する政策を、ひきつづき遂行した」と、第七回大会の方針になんの変化もなかったかのように記述していた。わたしも念のため、手元にある『インターナショナル小史』(ソヴェト大百科事典、国民文庫、一九五四年)を参照してみたが、ディミトロフ報告にいっさい触れてもいなかった。また、パルミーロ‐トリアッティ(イタリア共産党の指導者でコミンテルン執行委員)『コミンテルン史論』(青木文庫、一九六一年)に付されたイタリア共産党理論誌『リナシタ』編集部が作成した「共産主義インターナショナル歴史年表」の一九三九年の項にも、記載されていないことを確かめることができた。

いまもなお未解決な論争上の課題

人民戦線戦術の採用は、ファシズムの台頭を阻止することができず全面戦争の危険が差し迫るなかで、「資本主義の打倒も、あるいは世界革命も」(「声明」)放棄せざるをえなかった一時的退却、妥協の産物にほかならなかった。『小史』が書いているように、その後の反ファシズム闘争の推移は「自国の民族的独立をめざす闘争の立場」へ、また湯地も指摘したように、「社会主義基軸の人民戦線からナショナリズム基軸の民族解放戦線へ」と変わっていった。人民戦線を「理念化」して捉える野間や平野を批判した湯地はこうも書いている、「人民戦線というものは、それ自体が目的なのでも、理念として価値あるものでもなく、情勢に応じた基本的戦術の一つ」なのであって、「情勢の根本的変化が起きれば、……廃棄されるべきもの」であった。
わたしは、コミンテルンの、とりわけ人民戦線の経験を総括しないまま戦後を迎えてしまった負の遺産が、ヨーロッパ共産党労働者党情報局(コミンフォルム、一九四七年九月~五六年四月)の方針に引き継がれたと見る。社会主義に対抗して資本主義ヨーロッパの再建を急ぐアメリカ帝国主義が主導したマーシャルプランや北大西洋条約機構(NATO)の創設にたいして、コミンフォルムは「合衆国帝国主義の下僕となってしまったブルジョワ政府の政策の反民族的で裏切り的性格を暴露し、あらゆる国ですべての民主的愛国勢力を団結させ、結集する」「民族独立をめざす闘い」を呼びかけたのだった(「決議」原注53)。「声明」は最後に「ギリシャ共産党にとって、コミンテルンの戦術と推移、自発的解散についての包括的評価は、未決のまま今後の検討にゆだねられている」と書いている。コミンテルン第七回大会の一連の決定は、いまなお論争上の課題として、わたしたちの前に横たわっている。
【山下勇男】

(『思想運動』1057号 2020年10月1日号)