大阪人権博物館休館と橋下大阪維新
和解に至るも困難な闘いは継続される
三五年にわたって日本初の「人権に関する総合博物館」として存在した大阪人権博物館(愛称「リバティおおさか」)が、この六月をもって休館のやむなきに至った。一九二五年に全国水平社第四回大会が開かれた大阪浪速地区の地に設立された同館は、部落解放運動に関する資料収集、保管展示調査研究、人権教育の普及などの活動を通して部落解放運動を支える重要な機関として活動を展開してきた。また浪速地区は、近世以来皮革産業を主な生業とするかわた村の渡辺村であった地域である。一九二二年に全国水平社が創立されて間もなくより、全国水平社本部がこの土地に置かれていた歴史的土地でもある。一九六〇年代の高度成長期には西浜は、地方の被差別部落から大阪に流入してきた労働者が初めに落ち着く場所でもあった。一九六九年、ここに大阪府と市そして部落解放同盟が協力して被差別部落民の人権と生活を守る目的で設立したのが、部落解放センターであった。
「地上げ屋」まがいの追い出し攻撃
そもそも大阪人権博物館が建っている土地は、子弟の教育のために明治期に住民が土地を出し合って建てた小学校跡地の上に立っている。この建物、この土地自身が部落差別と闘ってきた歴史的遺産であり、歴史的記憶なのである。
二〇〇八年、大阪府知事に当選した橋下徹氏(以下敬称略)とかれが二〇一〇年に結党した「大阪維新の会(以下「大阪維新」と略称)は、さまざまな難題を吹っかけて同館を遂にこの六月休館のやむなしという状況に追い込んだのである。この一連の橋下の行為は、日本でもっとも先鋭に人権を掲げて闘った水平社以来の歴史を人々の記憶から消し去ろうとする行為でもある。
橋下は大阪府知事になるや否や、「この不況時に親方日の丸の公務員は働きもしないでぬくぬくと保護されている。働かない公務員はやめろ」と発言して大阪府庁に乗り込んできた。就任早々の第一声は、大阪府の放漫赤字財政を緊縮財政に転換するというものであった。かれは府職員の大幅削減、臨時職員の解雇、私学助成や外郭諸団体への補助金カットなどをやつぎばやに断行した。公務員労働組合との交渉でも、「いやならやめろ、大阪府民は自分を支持している」という脅しをかけてから賃金カットの交渉を始めるのが橋下流の交渉であったが、リバティおおさかへの攻撃も公的機関とは思えない乱暴で手段を択ばないものであった。
二〇一三年、大阪府と市はリバティおおさかの補助金を全面停止した。二〇一五年には、博物館側からの補助金交渉要請にはまったく応じず、年間土地賃貸料二七〇〇万円、固定資産税七〇〇万円を支払えという法外な額を突然突き付けてきた。しかもその要求の直後、博物館側に交渉の時間を与えず、土地明け渡しを求める裁判を橋下大阪市長(二〇一一年十一月府、市ダブル選挙によって松井一郎市長が府知事に、橋下知事が市長になっていた)は起こしたのである。土地の上に建っている博物館建物自体は博物館の所有物なのだから、橋下の提訴は社会常識からしても相当強引なのである。
この裁判の結果、今年の六月に、博物館側がこの土地を大阪市に返還することで和解が成立した。現時点では博物館周辺ではマンションと戸建て住宅の建設工事が動き始めている。JR環状線の駅から数分の位置にあるこの場所は、今ではめったに出ない優良物件である。もし大阪市がこの土地を開発業者に手渡したとすると、大阪市は体よくリバティーおおさかを裁判所を使ってこの地から追い出した「地上げ屋」の役回りをしたことになる。もしそうであるならば、歴史的で文化的な施設を追い出してデベロッパーにとって収益の上がる土地を「大阪維新」が作ってやったことになる。これこそ新自由主義的な政治勢力がやりそうな都市開発ではないか。
差別・排外主義―右傾化に乗って
この浪速地区には、先に述べた部落解放センターがあった。この建物には部落解放同盟や人権教育に関する各教育団体さらには解放出版社も入っていた。しかしこの建物も博物館と同様の手口で二〇〇九年に浪速地区を追い出されている。橋下は部落問題だけでなく、イデオロギーの問題を利用して票を獲得することにたけ、排外主義ナショナリズムにすり寄ることで選挙民の支持を確保しようとする。朝鮮学校については、教室に金日成の写真が飾られているという難癖をつけて私学助成金の支給を打ち切った。しかも朝鮮学校側は教室からの写真の撤去を受け入れたにもかかわらず、聞く耳を持たないといわんばかりに支給しない決定を下した。
大阪国際平和センター(愛称ピースおおさか)は、アジア太平洋戦争中の中国人民やアジア太平洋地域の住民に対する日本軍の残虐行為についても隠すことなく展示するという方針で始められた、日本では他に例のない平和博物館であったが、ここに対しても橋下は就任早々視察して展示方針が自虐的だという言いがかりをつけて閉館するか展示を抜本的に変えるかを迫った。結局大幅に展示内容を変えることで、ピースおおさかは閉館を免れるという方針を選択せざるを得なかった。
これらの事例は、橋下「大阪維新」が民族排外主義と歴史修正主義という住民の右傾化に乗って自らの票を獲得しようという魂胆が露骨に見て取れる事例である。
橋下が大阪府知事に就任するのは、リーマンショックの二〇〇八年二月であった。日本は一九九〇年の世界恐慌から始まる長期停滞に苦しみ、この二〇〇八年を境にGDP世界第二位の地位を中国に明け渡し、その後もさらに停滞を続ける転換点の年に橋下大阪府政は登場した。恐慌の中で職場には首切りのあらしが吹き、首の皮一枚残った労働者は賃金カット・長時間労働に苦しめられている。日本はこのころから職場のパワハラ、セクハラが蔓延し、過労死・自殺が年々記録を更新する社会になったのである。正規雇用の割合が年々低下し、非正規雇用という名の半失業者が増え続けた。大学生のアルバイトは、体の良い失業者の別名であろう。自己の能力とは無関係なのに業績が上がらないと無能呼ばわりされて自尊心をズタズタにされた非正規労働者やアルバイトにとって、自分より劣ったものと社会が見なす部落民や在日コリアン、そして近年では研修生名目の外国人労働者の存在は自尊心を失った人々が生きていくことのできる最低限の足掛かりを与えてくれる、なくてはならない社会的仕組みなのである。
そのことを橋下とかれが作った地域政党「大阪維新」はよく心得ていて、差別意識や民族排外主義の意識を自分たちの支持率確保に有効に利用している。橋下は部落解放同盟を攻撃するとき大阪市民は安い賃金で苦しい生活をしているときに解放同盟は多くの補助金を受け取り安穏と暮らしている、というデマを振りまいて自己の部落解放同盟攻撃を正当化する。そのうえで「大阪維新」は次のように主張する。「われわれは過去の政治家たちが作り出した既得権益をぶち壊す。そうすることによって政治を刷新し、赤字体質を脱却して沈み続ける大阪を活性化することができるのだ」と。大阪の選挙民はこのスローガンにすがって、二〇〇八年の橋下登場以来「大阪維新」を支持し続けている。
徹底した新自由主義・民営化路線
こうして手に入れた支持でかれがやったことは、典型的な新自由主義政策と民営化路線であった。まず大阪駅周辺の土地の再開発でいくつもの高層ショッピングモールを建て、埋め立て地に統合型リゾートという名のギャンブル施設を誘致し、地下鉄とバス交通を民営化して、挙句には水道さえ民営化しようとしている。また公立病院は統廃合し保健所を削減した。府立高校は統廃合して経費の節減を追求している。排外主義的な言動と民主団体への既得権益はく奪攻撃で不況に苦しむ大阪市民の拍手喝さいを得たのに、その支持層の大阪市民の生活利便は格段に低下してしまうことになった。高級ブランド品は大阪駅周辺のショッピングモールで手に入るかもしれないが、地域の食料品店などはこの一〇年次々と廃業し地域商店街はいっそうシャッター街になってしまっている。公立病院の統廃合は病院での出産がままならない地域が出たり、公立高校の統廃合は低所得層受験生の選択肢を狭めてしまっている。コロナ感染症の拡大を「大阪維新」は奇貨としてこの混乱を利用して再び大阪都の可否を問う住民投票をこの十一月に狙っている。大阪都構想は市民生活のいっそうの貧困化に拍車をかけるだろう。「大阪維新」を支持した大阪市民は、自分たちの市民的生活が維新によっていっそう貧しくさせられてしまったことを理解せざるを得なくなる時が来るだろう。この六月十九日に「リバティおおさか裁判に関する和解についての共同声明」が、博物館と弁護団共同で出された。
それによると市側と和解に至ったこと、大阪市が要求する累積一億九〇〇〇万円にのぼる賃貸料滞納金はまったく支払う必要がないこと、これまで博物館が収集してきたすべての資料、歴史的遺物については市側が無償で場所を提供して保管すること、今後も大阪市はリバティおおさかに対して適切な連携をとることの四点を合意して和解に至ったことが報告されている。裁判所としても大阪市のやり口はあまりに「えげつない」とたしなめる和解案になった、ということであろう。五年にわたる長い裁判を経てこのような一定の成果を確保したことが報告された。この声明では二〇二二年水平社創立一〇〇周年を期して新たな場所を確保して、リバティおおさかは再出発することを宣言して声明を結んでいる。困難な闘いは継続されるということになる。
【小野利明】
(『思想運動』1055号 2020年8月1日号)
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