七〇年代~八〇年代の在日韓国人「政治犯」救援運動
レコード『クナリオンダ 韓国政治犯・家族の声を聞け』が生まれるまで

井野茂雄(文化活動家)
    
韓国の軍事政権が「政治犯」をつくった

CD『クナリオンダ』は、三九年前に在日韓国人「政治犯」(今日では「良心囚」と呼称されることが多い)を救援する運動の中で生まれたレコード『クナリオンダ』をCDで復刻したものである。タイトルの意味は、「クナル」(その日)が「オンダ」(来る)、つまり「その日が来る」ということであり、当時の韓国軍部独裁政権を打倒して民主主義を回復し、朝鮮半島が平和のうちに自主的に統一する日、そして「政治犯」が家族のもとにかえる日、という意味が込められていた。このタイトルは収録曲のタイトルから採用したもので、「政治犯」のひとりであった康宗憲氏が獄中で作詞作曲したもの。
在日で「政治犯」とされた人たちは最終的には百数十名にのぼったが、「在日韓国人政治犯」という呼称が人口に膾炙するようになったのは一九七〇年代にはいってからである。「政治思想犯」というよりも、韓国政府の国内に対する弾圧の口実として政治的意図のもとに捏造された人たちを「在日韓国人政治犯」といいあらわした。実際に「政治犯」とされたひとたちは長年にわたって日本で生活をしていた人たちで、祖国を愛して母国へ留学したもの、独裁政治を終わらせて祖国の統一に役立とうと考えたもの、または商用で訪れたもの、あるいは余生を祖国で暮らそうと考えて準備していたものなど、思想も生活もさまざまであった。しかし一様に「北(朝鮮民主主義共和国)のスパイ」であり、「北で教育をうけ」、南で「間諜」と「国家転覆をはかった」とされる「事件」をおこし、「国家保安法」「社会安全法」の罪を犯したとして韓国中央情報部(KCIA)か韓国陸軍保安司令部(KCIC)という戦前日本の特別高等警察のような組織に逮捕・拘束された。

「政治犯」捏造の歴史

一九七一年に朴正煕大統領が金大中候補と大統領選挙で争っていたとき、投票日直前に在日二世の徐勝、徐俊植兄弟による「学園スパイ団」事件を捏造したのをはじめとして、一九七四年、鬱陵島拠点スパイ団事件、統一戦線形成スパイ団事件、一九七五年、学園浸透スパイ団事件(第一次、第二次)、一九七七年、自由統一協議会事件、柳兄弟事件など、「北のスパイ」は、政権の危機意識を反映して陸続と捏造され続けた。どの事件の裁判も、拷問による自白調書のみ、物証なし、数回の公判で有罪判決、という非常識なものだった。たとえば、街中で写真を撮るとスパイ(朴先正)、韓国内の道路状況について弟と話をしたのでスパイ(崔哲教)、ソウル市内に軍隊を見かけなかったと話をしたのでスパイ(陳斗鉉)、とされた。日本の家族・友人が無実の証拠を集め、東京弁護士会が調査書をまとめて証拠として提出しても、韓国の裁判で採用されたことはなかった。死刑判決を受けた者は六人を数えるまでになった。

救援運動の始まりと広がり

「政治犯」とされた人たちを救うため、出身地で、または縁故地で、救援会がつくられた。「政治犯」の家族・友人とともに立ち上がったのは、まずは在日僑胞とキリスト者だった。運動の輪を広げる大きな力となったのが記録映画『告発 在日韓国人政治犯レポート』(一九七五年、鬱陵島拠点スパイ団事件や崔哲教事件などをとりあげている)の上演運動である。それと在日韓国青年同盟が日韓連帯をよびかけて取り組んでいた劇『チノギ』(作=金芝河)全国上演運動(一九七五年)、『三・一民主救国宣言』支持百万人署名運動(一九七六年)、『ソウルへの道・フェスティバル』全国上演運動(一九七七年)などが重ね合わさり、在日の抱えている問題意識や韓国での出来事に日本人の目を向かわせることになった。また、韓国で放送や発売が禁止された歌を集めたレコード『金冠のイエス』(韓民統が一九七六年に発売)があり、関心は重層的かつ急速に拡大していった。さらに金大中救出運動(一九七三年)からはじまる日韓連帯運動があり、救援運動はそれらと連動して大きなうねりをつくっていった。そして、一九七七年三月一日にソウルの明洞教会で『労働者人権宣言』が発表され、韓国の労働者・労働組合の闘いが、反独裁・民主回復・朝鮮半島の平和的統一の闘いに加わっていくことが明らかになり、一気に労働者の日韓連帯の機運も高まり、運動のすそ野がいっそう広まった。
「政治犯」の家族・友人・僑胞も救援運動を活発化させ、「在日韓国人「政治犯」を支援する会全国会議」(一九七六年)、「在日韓国人政治犯を救援する家族・僑胞の会」(一九七七年)が結成された。「家族・僑胞の会」を中心とした救援運動の理念は「人権、人道上の問題」と考え、韓国政府には全政治犯の即時釈放を、日本政府には生活基盤が日本にある在日韓国人政治犯に対する人権救済の具体的措置を要求した。

救援運動のなかから歌が誕生する

この過程で、「政治犯」とされた人たちや家族が書いた手紙や詩が、個々の救援会の活動を通じて知られるようになった。それらをもとに家族や友人が曲をつけたり、作詞作曲したうたがいくつも生まれた。救援運動はそれらの歌を中心にして、韓国民主化闘争や日韓連帯闘争のなかで作られうたわれた歌も加えてコンサートを企画、日本各地でコンサートを開いた(一九七八年)。なかでも歌「再会」は、家族や支援者たちの共通の想いをあらわしている歌として位置づけられ、うたわれた。その後も救援集会では必ず「再会」の歌唱指導と合唱がおこなわれ、広まっていった。また多くの救援会は、構成劇をつくり、歌によるコンサートやスライド構成による救援の訴えなどとともに集会の中心的な構成要素にした。さらに、救援運動内外で、日韓連帯の強い意識をもった多くの歌や曲がつくられ、さまざまな音楽グループもうまれ、いくつもの劇が、そして幾本かの映画もつくられた。
一九八〇年一月、高橋悠治・窪田聡・井野茂雄が上演実行委員会を結成して韓国・東一紡織の女子労働者の闘いを素材にしたマダン劇『工場のともしび』(作=金敏基)の上演を呼びかけ、都内三か所で上演(日本語による歌と演奏)した。この上演実行委員会の呼びかけ人と家族・僑胞の会がいっしょになってレコード『クナリオンダ』の「レコード制作委員会」をつくった。全国を縦断したコンサートを一過性の企画としないで、音楽の持つ力を救援運動で生かしていこうと考えたからである。

「政治犯」のその後

在日韓国人「政治犯」は、一九八六年まで捏造され続けた。総計で二〇〇人に迫るともいわれている。「政治犯」たちは、倦まず弛まず続けた救援運動と、一九八〇年代の民主化大闘争、そして韓国労働運動の大躍進、その結果としての軍部ファッショ政権から民主政権への交代、というなかで、全員が釈放された。日本に戻ることもできた。
とはいえ、捏造された事件での不当な判決が覆されたわけではなかった。刑期満了か特赦による刑の執行停止により、拘置所や矯導所(刑務所)から出てきたのである。そして在日に認められていた永住権は、回復されていない。日本政府が(事件が捏造されたことは承知しているにもかかわらず)形式論理を盾にして認めていない。つまり、名誉も尊厳も回復されていないのである。
二〇〇五年五月に「真実と和解のための整理委員会」が作られ、韓国内の「政治犯」の真相究明と名誉回復が図られる機会ができた。そのなかに在日韓国人政治犯も含まれていた。それを利用し、「北のスパイ」捏造事件の再審請求を求める運動が始まった。本来ならば、国家的犯罪であるのだから一括して政治的に決着すべきものであるが、そうならない現実がある。「北のスパイ」を捏造する根拠であった戦前日本の治安維持法をまねて作られた悪法(「国家保安法」)は、未だに廃止されていない。さらに、在日韓国人「政治犯」をふくむ多くの「政治犯」を生みだし、軍部独裁政権を支えていた司法・行政の当事者が、民主化後の文民政権で出世し、権力中枢に居座っていっそう権力をふるっているのが現状だからだ。現在、三十数名の再審無罪が確定している。今後も増えるだろう。
当時、在日韓国人「政治犯」救援運動に対して日本政府の腰は重く、マスコミの報道でも大きく取り上げられることもそれほどなかった。しかし運動にかかわった日本人と韓国人にとっては、両者の間にあった障壁を大きく引き下げ、友情と信頼を深め合う契機となった。また、日本人側にとっては、日本と朝鮮半島との近現代史を深く知る契機でもあった。

「その日」は来たのか?

今回、レコード『クナリオンダ』を復刻しようとしたのは、単に記録の逸失を避けたり、思い出を回顧するためではない。むしろ、日本人と在日の人たちと、救援運動という軸で一つになり、共通の目標に向かって腕を組んで進んでいったことで、終生変わらぬ友愛を互いに勝ち取ったことを、その日々を、忘れていないことを改めて確認するためである。そして、今なお苦闘している仲間・友人たちに、当時の運動にかかわったわれわれが、今も変わらぬ熱い連帯の意思を示すためである。

(『思想運動』1047号 2019年12月1日号)