ロシア十月社会主義革命一〇二周年記念集会での主催者あいさつ
歴史に何を学ぶか ――  コミュニストの教訓

    広野省三(〈活動家集団 思想運動〉常任運営委員会責任者・本郷文化フォーラムワーカーズスクール事務局責任者)

十一月九日、東京・文京区のシビックセンターで「ロシア十月社会主義革命一〇二周年集会」(主催=本郷文化フォーラムワーカーズスクール/活動家集団 思想運動)が開催された。はじめに主催者を代表して広野省三があいさつをし、次に映画『地の塩』(一九五四年製作、監督=ハーバート‐ビーバーマン)の解説(井野茂雄)と作品上映があった。この映画は炭鉱を舞台にしたもので、落盤事故を契機に労働条件改善を要求し、ストライキで闘う労働者たちを描いた作品。実際の炭鉱労働者が演技者として参加している。今日の労働運動がかかえる問題を考えるうえでも最適の作品だった。
今年の集会は、「ベルリンの壁」崩壊から三〇年目の同じ日(十一月九日)に行なわれた。行き詰まりをみせる資本主義がより狂暴化し労働者人民への攻撃が全世界で激化している今日、改めて社会主義世界体制の歴史的意義を再確認するとともに、その倒壊の意味を考えるにはプロレタリア国際主義の原則に立った問題の解明が不可欠であることを確認し合った集会だった。以下に掲載する文章は、集会での主催者あいさつの内容をまとめたものである。 【編集部】


きょう、二〇一九年十一月九日で、一九八九年十一月九日の東ドイツによる西ドイツとの国境の開放、十一月十日の「ベルリンの壁」崩壊から三〇年目を迎えました。
それにつづく、九一年十二月二十五日の、ミハイル‐ゴルバチョフソ連大統領辞任によるソビエト社会主義共和国連邦の解体は、ソ連・東欧の社会主義政権を中核とした、世界体制としての社会主義の倒壊を意味しました。それから、約三〇年、アメリカ帝国主義を先頭とした帝国主義陣営は、社会主義を目指す全世界の労働者階級人民に対する攻撃を、いまなお、執拗、かつ暴力的に継続しており、彼我の力関係はいまだに帝国主義に有利な状況にあります。
われわれは、この苦い経験と、厳しい現実から何を学び、どう闘うべきか? これを集会参加者のみなさんと共同して検討し、確認しあうことが、本集会の目的です。
わたしは、今日、資料として会場で配布されている新聞『思想運動』の十一月一日号に、「求められつづける闘う主体の形成――カネ万能の資本主義を打ち倒す歴史観の獲得を!」を書いております。
きょうのあいさつでは、この内容を繰り返すことは避け、若干の補足と、ロシア十月社会主義革命一〇二周年記念集会に向けてわたしが考えた、社会主義の思想と実践をどう掴みとるのか、という点にしぼってお話しします。

戦後の日本社会をどう捉えるべきか

レジュメに、八月十五日と九月二日、「終戦」と敗戦、と書いていますが、それは、一九四五年八月十四日のポツダム宣言受諾と、十五日の天皇ヒロヒトによる「玉音放送」、そして九月二日の東京湾上の米戦艦ミズリー号での降伏文書の調印、これをどう捉らえるか、という問題です。
日本政府とマスコミは、八月十五日を「終戦」の日とし、毎年大々的な式典・報道を行ないます。そして日本国民の圧倒的多数が、八月十五日を「終戦」の日として受け入れています。しかし、アジア・太平洋戦争の「終結」は、九月二日の大日本帝国の降伏文書への署名であることは、国際的常識です。わたしは、ここに、日本の労働者階級・人民の歴史認識の欠落、が表われていると考えています。
一口で言えば、わたしは、日本国民の多くが、八月十五日を「終戦」の日と捉え、一九四六年十一月三日の日本国憲法の公布、翌四七年五月三日の施行によって、日本社会の戦前と戦後は断ち切られたものと考え、戦争と植民地支配責任、そして戦後責任を自覚・反省することなく、「平和と繁栄」、「民主主義」の道を突き進んできたこと、このことが、こんにちの安倍極右・ブルジョワ独裁政権の長期化を許している最大の原因である、と考えています。
ふり返ってみれば、台湾・朝鮮の植民地化、誕生したばかりの革命ロシアへの残虐極まりない干渉戦争である「シベリア出兵」、そして中国、東南アジア諸国への侵略・占領。日本帝国主義、天皇の軍隊は、この歴史の全過程で「殺し尽くし・焼き尽くし・奪い尽くし」、女性への性犯罪を繰り返し、すさまじい数のアジアの人民を虐殺しています。
しかし日本国民の多くは、戦時中、銃後のつとめを果たし、夫を、息子を率先して戦地へ送り出し、侵略戦争に加担した国防婦人会の女性たちをはじめ、日本社会全体が、戦後これらの蛮行を繰り返してアジアの各地から引き揚げてきた軍人たちを、よき父、よき兄として迎えたのです。
「終戦」は、天皇ヒロヒトの「ソ連の影響力の拡大によって天皇制が廃止されるかもしれない」、という危機感から選びとられました。日本国憲法は、第一条に象徴として天皇制を残し、第九条の戦争の放棄は、天皇の名で沖縄を切り捨てる関係で成立したものです。一九五一年九月八日にサンフランシスコ講和条約を締結する際も、天皇はソ連の影響力の増大と国内の革命情勢の高揚におびえ、米軍の駐日要請、アメリカに沖縄を差し出す動きを行なっています。
天皇と天皇制は、明治以降一貫して、社会主義・共産主義を敵とみなし、その撲滅に全力を挙げてきたのです。
その天皇制の存続をはじめ、戦争犯罪人、そして戦後はCIAのエージェントとして知られる岸信介の孫の安倍晋三、戦前・戦後一貫して親米路線を歩んだ吉田茂を祖父に持ち、さかのぼれば明治維新の大立者・大久保利通の末裔の麻生太郎など、戦前の日本帝国主義の侵略戦争と植民地支配を先頭で引っ張ってきた連中の血を受け継ぐ政治家、官僚、財閥・経済界、警察・軍隊・裁判所、学者・教育界、新聞・ジャーナリズム、文学・映画・演劇・絵画などの文化・芸術界まで、日本社会の全分野において、戦争・植民地支配責任に頬かむりし、戦後を出発させたのです。そしてその子孫たちが日本社会の政治・経済・社会のあらゆる分野で中軸に居座り、大手を振って権力を行使しているのが、敗戦後七五年を経た現実です。
そしていまもなお、朝鮮戦争特需、ベトナム戦争特需による日本経済の回復・飛躍という歴史を顧みないまま、日本社会の「平和と繁栄、民主主義」が語られる。マスコミ上では、「進歩的知識人」たちが、「安倍より天皇・アキヒトのほうが平和主義者だ」、といった珍妙なる意見を披瀝し、「左翼」と国民の多くが、「そう言われれば、それもそうだ」とうなずく状況にさえなっています。
ここでわたしが思うのは、韓国・朝鮮の人民が「積弊清算」「親日派追放」を掲げて繰り返し闘うと、「またか」「いつまで過去のことをむしかえしているのだ」「だから韓国・朝鮮人はだめなんだ」と、馬鹿にした、もしくは自分は物がわかった常識人なのだという顔をしている日本人の下劣さです。
朝鮮・韓国人民は一九一九年の三・一独立闘争の歴史を引き継ぎ、解放を迎える四五年まで抗日闘争を継続し、一九四五年の日本帝国主義の敗北・朝鮮解放のあと、北半部では親日派を一掃して社会主義権力の基礎を打ち固めていきます。そしていまも、朝鮮民主主義人民共和国は、アメリカ帝国主義の侵略を許さず、社会主義建設の道を着実に歩んでいます。
いっぽう、南半部では一九六〇年の四月十九日には徹底した反共・親米派の李承晩を追放する学生革命を実現し、六〇年代・七〇年代をつうじて戦時中は日本軍の満州軍第八連隊副官高木正雄としてあった親日派の朴正煕軍事独裁政権と闘い、一九八〇年には全斗煥のクーデターに対し立ち上がり光州コミューンを勝ち取り、二〇一七年には朴槿恵を追放し、現在も韓国社会の民主化を要求して徹底的に闘っています。
しかし日本では、そうした歴史を直視することなく、曺国司法相の辞任問題についても、家族の地位利用や金銭問題での疑惑だけがクローズアップされ、韓国と日本の司法制度とその改革がどうなっているのかは、全然問題にされません。
わたしが十一月一号で紹介した刑事法学者の内田博文さんは、日本の法体系と司法制度・裁判所は、明治以降、そして敗戦を経験しても、現在も形をかえながら、人民弾圧の権力として、その国家主義的本質部分を厳然として残していると指摘しています。

社会主義体制倒壊から何を学ぶか

次に本題の「社会主義世界体制の倒壊、われわれは、この経験とわれわれを取り巻く現実から何を学び、どう闘うべきか?」に移ります。
わたしたち〈活動家集団 思想運動〉は、一九六九年三月に出発しましたが、その創立期からの中心メンバーで二〇一〇年九月二日、八三歳で亡くなるまで、わが会の全国運営委員会責任者を務めた武井昭夫は、つねづね、われわれが問題を捉えるときの視点を、次の三点にしぼっていました。これは、二〇一〇年四月に出版された『社会主義の危機は人類の危機』のなかで、ペレストロイカを総括する観点として指摘していることですが、
「第一は、問題をつねにグローバルな、つまり全地球的、全世界的な視点から捉えること。ペレストロイカの内部に発生する問題も、これを社会主義体制内部からだけでみるのではなく、資本主義体制の側からもみる、資本主義体制との関連をもみる。資本主義も先進資本主義の側からだけでみるのではなく、その帝国主義的な経済支配と収奪に苦しむ途上国の側も含めて問題を捉える。現代世界の政治・経済問題は、このグローバルな視点なしには、真実の全体像を捉えることができないからである。
第二は、問題をつねに歴史的に捉えること。少なくとも問題を二〇世紀現代史の流れの全体のなかで捉えること。ペレストロイカも、世界資本主義の全般的危機の出発としての十月社会主義大革命による社会主義の誕生、その生成・発展と、自己の体制延命のためになんとしてもこれを扼殺しようとしてきた資本主義との闘いの歴史のなかで捉える視点が大切である。そこからこそ、(その発動の当初に目指されていた)社会主義の自己刷新としてのペレストロイカの必要、その内的および外的蓋然性と必然性、そしてその過程に遭遇した困難、危機、挫折を正しく理解しうるであろう。
第三は、問題を労働者階級の立場、世界の人民の立場から捉えること、言い換えれば、プロレタリア・インターナショナリズムの観点に立って、それをこそ事柄の評価の基準として問題を考察していかねばならない。
むろん、これら三つの視点はばらばらに在るのではなく、重なり合って一つの確乎とした視座に総合されるべきものである」と記しています。
わたしは、物を考えたり、文章を書く時には、武井さんのこの提言を、いつも念頭においています。そしてわたしは、これに付け加えて(もちろんこれは武井さんの三つの視点の基礎に置かれているものですが)、問題を他人事として捉えるのではなく、自分自身の問題、日本の労働者階級・人民の闘う主体の獲得・形成の問題として捉えるようにしています。
言い換えれば、社会主義国の誤謬であれ失敗であれ、自分を第三者の位置に置きながらそれを論評するというのではなく、その苦闘を、コミュニストたらんとする自らの課題として追求する、ということです。さらに言えば、わたしは、社会主義陣営と帝国主義陣営の厳しい階級闘争、その過程で生み出されたさまざまな困難・矛盾、その結果としての社会主義世界体制の倒壊の要因には、われわれ日本の労働者階級・人民をはじめとした先進資本主義国の労働者階級・人民の闘いの弱さもあった、と考えているのです。

「チェコ事件」から見る総括の視点

一九六八年八月二十日、ソ連率いるワルシャワ条約機構軍が国境を突破し、チェコスロバキア全土を占領下に置きました。ユーロ・コミュニズムを掲げる西ヨーロッパの共産党、中国共産党、日本共産党、そして反帝・反スタを掲げる「新左翼」の大部分が、「独裁国家」  ソ連によるチェコスロバキアの主権の侵害だと非難の声をあげました。
日本でも、政府・マスコミが総力をあげて、そして知識人、反体制運動を担う圧倒的多数の人びとが、「自分はアメリカがベトナムを侵略するのに反対するのと同様に、ソ連がチェコに侵攻したのを非難する」と、自らの身の潔白を証だてようとしました。
先にお話ししたように、わたしたち〈活動家集団 思想運動〉は、一九六九年三月に出発しましたが、その出発に際して、プロレタリア国際主義を真正面に掲げました。そしてそのプロレタリア国際主義を追求する志と、「チェコ事件をどう捉えるべきか」という問いは、そのとき、根底で、深くつながっていました。
わたしたち〈思想運動〉の創立時の先輩たちは、いったいチェコで何が進行していたのか? 社会主義陣営に発生した、他国の社会主義に対する武力の行使というこの「矛盾」「困難」を、コミュニストの一員たらんとする自分たちはどう捉え、どう責任を果たすのか? それをブルジョワマスコミの垂れ流す情報にだけに頼らず、自分たち自身で第一次資料にあたり、事実の究明・確定作業に取り組もうと努力し、反社会主義の立場からのソ連非難とは、明確に一線を画しました。
『新日本文学』の一九六八年十月、十一月、十二月号で、わが会の創立時の中心メンバーである高原宏平さん、武井昭夫さん、津田道夫さんらが、問題を提起し、座談会で積極的に発言しています。
それらを踏まえて、わたしたちは会出発時、プロレタリア国際主義の眼目として、反帝闘争の最前線で闘うベトナム・キューバ・朝鮮への注目と連帯、を第一に掲げました。この考え方の基本は、会出発以降五〇年をすぎたいまも、変わりありません。
ここでいま、わたしが五〇年前の出来事を取り上げるのは、この問題はわれわれが「社会主義」「プロレタリア国際主義」をどう把握し、実践するか、という、本日の集会の主題と深くかかわっていると考えるからです。

社会主義国家の革命的連帯について

一九六八年八月二十三日、キューバのフィデル‐カストロ首相は、チェコスロバキアの事件について「社会主義国家の革命的連帯について」と題する演説を行なっています。その約半分が雑誌『現代の眼』の一九六九年二月号に抄訳され、みすず書房から出版されている『戦車と自由――チェコスロバキア事件資料集2』にその全文が掲載されています。
わたしは、このフィデル‐カストロ演説の中に、われわれが掴みとるべき「社会主義」「プロレタリア国際主義」が、一点の曇りもなく示されている、と考えます。
キューバ人民は、カストロ同志を、親しみと尊敬の念をこめてフィデルと呼びます。わたしもこれにならい、以下、これらの翻訳を参照しながら、フィデルの思想と行動原理を紹介します。
●民主化と「自由化」、そして西側との経済交流・借款
フィデルは冒頭、チェコスロバキアで一連の変化が起こりはじめたのは、一九六八年初頭からであり、共産党書記長ノボトニーの辞任、軍部の一重要人物のアメリカ亡命、ノボトニーの大統領職はく奪といった経過を踏まえ、
「それは民主化と称する過程の発端であった。帝国主義的新聞は別に『自由化』という言葉を発明し、進歩派と保守派の区別を始めた。進歩派とは、一連の政治改革のすべてを支持する派、保守派とは、前指導部の支持者である」「これは、全世界に一連の反響を呼び起こした。いわゆる自由主義者や民主化の提唱者に共鳴する者が出始めた」と指摘します。
そのあとフィデルは、アメリカのチェコスロバキアへの借款供与問題、西ドイツの「経済交流」拡大の報道に触れ、
「ここで、諸君は、事実の全貌を見る。――すなわち、自由派と帝国主義の関係の“ハネムーン”の始まりである。ほんとうの自由化の幕が、切って落とされた。すなわち、敵対する諸党の組織を利するような、公然たる反マルクス主義的、反レーニン主義的テーゼの利益になるような、政治的スローガンが、ぞくぞくと出始めたのである。たとえば、共産党は、現在党が社会主義社会で果たしているような役割を果たすことをやめるべきである。そして案内とか管理のような役目、とくに一種の精神的リーダーシップをとるような役割を演じるようになるべきである。というような言い草である」。つまりプロレタリアート独裁の政治形態としての社会主義政権という基本原則を修正せよ、といったものでした。
ブルジョワ的形態での報道の「自由化」の措置も取られ、社会主義の敵、反革命と搾取階級に対しても、社会主義に反対する意見を自由にとなえ、書く権利が与えられました。西ヨーロッパのいくつかの共産党も「自由化」に共感し、共産主義陣営内の意見の対立が世界に広がりました。
しかしフィデルは「暫定的に、われわれは、次のような結論に達した。チェコスロバキアの政治的情勢は悪化しており、資本主義への坂道を逆行しつつある。かれらは無残にも、帝国主義の腕の中に飛びこもうとしているのである」との判断を下します。
そして、アメリカを先頭とする「帝国主義者どもは、この事態を熱狂的に歓迎した。帝国主義陣営は、あらゆるやり方でこれを称揚し、そして疑いもなく、この事件はどっちに転んでも、社会主義陣営に大きな痛手を負わせると考えて、両手をこすり合わせて雀踊りしたのであった」
「このことは、一群の社会主義国の行動という特定の事実についてのわれわれの立場を規定する。すなわちわれわれは、何らかの方法でこの事態の発生を阻止することが、いかなる代償を払おうとも絶対に必要だったと考えるのである」と断言します。
そしてワルシャワ条約機構軍の侵攻を承服できるか否かの判断の本質的なポイントは、国際法などを使った形式論ではなく、社会主義陣営は、社会主義の国を堕落させて帝国主義の手先に変じさせてしまうような政治状況の発展を、黙ってみすごすことができるか、否かにかかっていると論じ、「われわれの意見では、それは許されるべきではなく、社会主義陣営は、何らかの方法でそれを阻止する権利を持つ」と述べます。
しかしフィデルはそこに止まりません。反革命情勢への移行を阻止するために、行動が必要だったことを認めるだけではなく、それが何故必要とされたのか、何がこれを可能にし、かくも劇的で思い切った、痛ましい手段はなぜ必要だったのか、を分析することが不可欠だと述べます。
そして、共産主義建設に向けて二〇年を経験しているチェコスロバキアの今日の政治情勢、それへの指導部の対応がどうであったのかを追究します。そうしてフィデルは、
「こういうたぐいの外科手術、世界中の革命勢力を甚だしい苦境におとしいれるような外科手術、すべての人民をほんとうに傷を負った状態にしてしまうような外科手術、すなわちチェコスロバキアの今日の状態を、もたらしめたものは、そもそも何であったのか?」と問いかけます。
ここでフィデルが使う「外科手術」という言葉の意味は、明瞭でしょう。フィデルは、ワルシャワ条約機構軍が出動せざるを得ないような状態になるまで、チェコスロバキアの指導部は、なぜ事態を放置していたのか、と怒っているのです。
そうした検証のなかで、フィデルは、冷徹に、革命運動を困難な状況におき、全国民を悲惨な状態に追いこんだ今日のチェコスロバキアの状況そのものが、「たとえそれが社会主義国の軍隊であっても――国が占領されるのを、全国民が見ていかなければならないという、極めて承服しがたい事実に耐えなければならないのである」と指摘します。
そしてフィデルは断言します。「キューバではありえない」と。
その「第一の理由は、われわれが、このような状況を招くおそれのある変革が進行するのを阻むことは、革命を指導する者の基本的な責任であると信じているからである」と。
●指導部の大衆との接触の欠如、共産主義的理想の無視
さらにフィデルは、「共産主義的理想の無視」を取り上げます。
共産主義的理想とは何か? それは「階級社会にある人間、階級社会で搾取され奴隷にされている人びとは、ある全体的な理想というものを求めて闘っている。かれらが、社会主義と共産主義について語るとき、それは、たんに搾取が実際になくなった社会、搾取の結果としての貧乏がなくなった社会、搾取の結果としての文明の立ち遅れがなくなった社会だけを意味するのではないのである。利己主義がなくなって、人びとはお金のために奴隷のようなみじめな境遇を強いられることもなくなり、個人の利益追求のために労働することもなくなり、社会のすべての人があらゆる必要を満たすために、また正義、友愛、平等の法則、さらには人間社会の理想のすべて、こうした目的を達成することを、常に強く望んでいる人びとの間にうちたてるために働くようになる、そうした社会、つまり共産主義の理想である階級なき社会を築きあげようという、あらゆる美しい抱負を込めて、かれらは社会主義と共産主義を語るのだ」「共産主義社会の理想は、工業化されたブルジョワ社会ではあり得ない。どんな事情があっても、ブルジョワ帝国主義者の消費社会ではあり得ない」と発言します。
さらにつづけて、フィデルはプロレタリア国際主義について語り、
「共産主義の理想は、たとえ片時でも、国際的連帯を除いては存在しえない。世界中のいかなる国においても、共産主義を目指して闘う人びとは、そうでない国の人びとをけっして忘れることはできないのである。そういう人びとは、苦しみや、文明の立ち遅れや、貧乏や、無知や、搾取などが、世界の一部にまだあることをけっして忘れない」「……そして、もしも大衆が、世界の現実を忘れ、そうした現実にともなう帝国主義との対決の危険性を忘れ、だんだん安逸になることの危険を忘れたままに放置されて、現実の問題をそっちのけにして、肉体的刺激や消費物質の誘惑に走るようなことになれば、その場合には、ほんものの国際連帯に基づいた視野も、共産主義的視野も、大衆に教え込もうとしてもできるものではない」と述べます。
●共産主義国際主義的良心と社会主義陣営での大衆教育
そして、フィデルはこう告発するのです。
「(チェコスロバキアの)指導部は、最初からわが国と国交があったにもかかわらず、ナチからの略奪品である大量の武器を高く売りつけさえした。チェコスロバキアを占領したヒトラーの部隊に属していた武器のために、われわれは今日に至るまで、依然として支払いを続けているのである」「これではまるでわれわれが、帝国主義から解放されたばかりでそれを必要とする国に供与しようとせず、悪くすると窮乏、欠乏にあえぐその後進国から代価を取り立てるようなものである」「バチスタ軍の所有物であったサン・クリストバル騎兵銃やスプリングフィールド等の武器を、解放のためにそれを要請した国に送付し、商取引のごとく代価を請求するようなものではないか」と。
そして「これが革命国家の対外的義務の、最も初歩的な概念の枠外にあることは、疑問の余地がない」「(かれらに)この熱心さをもたらしているのは、貿易機関が持つ独立採算、利潤、利益、物質的刺激の概念である。それは当然、対立、不満、誤解、関係の悪化につながる」と断言します。
そしてそうした動きはチェコスロバキアだけではなく、ユーゴスラビアも、キューバへの武器売却によってアメリカとの関係が悪化するのをおそれ、日和見主義的対応に終始し、あまつさえ、キューバ革命が勝利する直前に、反革命のバチスタ政権側に武器提供を提案していたのだ、と罵倒しています。
●祖国か死か!
われわれは勝利する!
「わが党は、ベネズエラの右翼の裏切り的指導者が革命路線を裏切り、ゲリラを捨てて、政権との恥ずべき共謀に踏み切った時、躊躇することなくゲリラを救援した。このときわれわれは、反動勢力の数などは問題にしなかった。われわれは、どちらが正しいか――戦士や命をささげた人々を裏切った策略家たちか、また反旗を翻し続けた人びとか――の分析を行なった。われわれは右翼グループの数ではなく、どちらが正当かについて考慮した。……正当性は、数字とは必ずしも同じではないのである」と述べます。
そしてついに、フィデルは厳粛に問いかけ、要求します。
かれは、「兄弟諸国は、外部からいかなる脅威に対しても、断固、決然として、その不屈の連帯をもって戦う。何ものも、社会主義共同体からその一環をもぎ取ることをゆるされないであろう」というワルシャワ条約諸国政府の決定を説明したタス通信を取り上げ、
「しかしわれわれは疑問に思う。果たしてこの宣言はベトナムを含むのか。朝鮮を含むのか。そしてキューバを含むのか」「果たしてかれらは、ベトナムを、朝鮮を、そしてキューバを帝国主義から守るべき社会主義陣営の一環とみなしているのか」「われわれはチェコスロバキアが出兵を要請した苦い必要は認める。この決定を行なった社会主義諸国を非難はしない。しかし、革命家として原則的な立場から出発するわれわれは、世界の革命運動に影響を与える他の問題についても、かれらが一貫した立場を取ることを要求する権利がある」と。

活かされなかったカストロの提言

これと対極的なものとして、さいきんわたしは、社会主義協会の代表団が一九九九年十月にドイツを訪れ、統一時の東ドイツの首相で欧州委員会議員のハンス‐モドロウ氏に、統一から一〇年目のドイツの現状、東ドイツおよびソ連東欧社会主義政権倒壊の原因などをインタビューしている文章を読みました。
そこで感じたのは、一九六八年のカストロの演説が、その二〇年後一九八九年時点のドイツではまったく教訓化されていなかったし、それからさらに一〇年後の一九九九年にも、そして三〇年後のこんにちでもそうなのではないか、という思いでした。
「当時、ドイツでは四年もたてば格差のない統一国家ができると楽観視していました。これがまったく大きな誤りであることが今日明らかになっています」とモドロウ氏は語ります。
そして社会主義政権倒壊の原因については、
「ヨーロッパの社会主義が、基本的にソビエト型の社会主義モデルであったこと、それぞれの国がそれぞれの社会主義モデルを真剣に考えて自主的に社会主義を作り出すことがなかった」ことを第一に挙げています。
二つ目はスターリンの個人崇拝への批判の不徹底、三つ目が経済の外延的拡大再生産の限界、四つ目が経済的現実に見合わない人民への社会福祉の提供。そして五つ目が労働者政党の前衛的指導への疑問(六、七は略)です。
わたしには、そのどれもが、社会主義敗北を経験した指導者・革命家の、主体的な総括とは受け止められませんでした。
わたしはここに、カストロ首相のいう革命指導部の責任の問題、労働者人民の思想教育、主体的政治参加の決定的不足を見ます。
さらに、
「統一にあたって、東ドイツ人は東ドイツ時代が終わるまでに得てきた条件(つまり無料、もしくは非常に安い、教育、医療、住宅、交通費などの公共料金、安定した職場、女性の権利など)を維持しながら、さらに西側のマルクが手に入るものと誤解しました」という発言に出くわしたときには、開いた口がふさがりませんでした。
先に紹介した同志・武井昭夫は、『社会主義の危機は人類の危機』の「まえおき」で、ペレストロイカを総括し、
「一口に言って、八九年から九一年のソ連―東欧社会主義体制の倒壊は、その淵源をたどれば、八〇年代に西欧共産主義一帯に猖獗した〝ユーロ・コミュニズム〟にあった。
このイデオロギーは西欧共産主義を腐食にみちびいただけではなく、東のそれをも浸食し、遂にはソ連―東欧の体制内に伝播・増殖して、その最高指導部を占拠するにいたったのである。
一九八五年ゴルバチョフ書記長の登場、その提唱によるペレストロイカの開始がその表徴であり、これによるソ連―東欧社会主義の解体は〝社会主義の革新〟の名のもとに党と国家の最上層部からの指令として遂行されたのだった。
それは修正主義=日和見主義的機会主義による、いわば内部からの反革命の完遂である。
外部からの攻撃には難攻不落に見えた要塞も『トロイの木馬』が仕掛けられるとき、仕掛人自体が信じかねる脆さを見せたのである」と書いています。
わたしは、コマンダンテ(司令官)フィデル‐カストロ、そして同志・武井昭夫の歴史把握と、コミュニストの歩むべき道の追求を、全面的に支持します。
さいごに、わたしたちが注目し、連帯している共産党・労働者党国際会議が、来年は朝鮮民主主義人民共和国で開かれます。
われわれの合言葉は常に、断固として、「万国の労働者団結せよ! 万国の労働者と被抑圧民族団結せよ!」です。
以上でわたしのあいさつを終わります。(了)

(『思想運動』1047号 2019年12月1日号)