エッセイ ラグビー・ワールドカップをどう観るか
「ラグビー」と階級闘争


「芸術家とは何であると君は思うか? 画家はただ眼を持った、音楽家はただ耳を持った、詩人は心に竪琴を持った、拳闘家は単に筋肉を持った愚か者とでも思うのか? 彼らはみな政治や生活から離れては存在しえないのだ。画はアパルトマンを装飾するために制作されるのではない。それは敵に対する攻防の武器だ」
パブロ‐ピカソ

楕円のボールを掴みとり抱える。防衛線に並ぶ相手に突進し、タックルを受ける。体がぶつかり、鈍い音を立てる。両者地面に叩きつけられ相手はボールを毟り取ろうとする。味方がフォローに入りなんとかボールを繋ぐ。再び後方にパス、そしてタックル。しかし相手の守りも固い。前に一メートル、後ろに一メートルの攻防が繰り返される。その瞬間、防衛線が崩れる偶然を逃さず突破し、全速力でゴールラインに届こうとする。相手が追いつきタックルを受けまた倒れこむ。その瞬間パス、味方にボールをつなぎ辛くもトライを勝ち取る。そんなドラマ的シーンに感動しないではいられない。その理由はラグビーの闘争性にある。この感動は小学生どうしの試合や高校ラグビー部の地区予選、そしてワールドカップのようなトップレベルの試合でも同じである。
サッカーや野球は得点を最後にとった特定の選手が英雄的に注目され勝ちだ。比してラグビーはどうしてもそうはいかない。ボールに一度も触ることなく果敢にタックルを繰り返す者がいるからこそ、ボールを奪い返すことができる。特定の個人ではなく組織された集団の奮闘の結果であることがはっきりと見える。
実のところ、筆者はラグビーどころか競技スポーツの経験すらないのだが、ラグビーを観ていると「がんばれ」と応援したくなる。自身の闘争経験、沖縄や朝鮮学校、孤軍奮闘する労働者・労働組合などの果敢な闘争が重なるからだ。

ラグビーの積極性

生身をぶつけ合い、徒労にも見える攻防を繰り返す中に現れる偶然をチャンスとして前進を勝ち取る。その過程ではメンバーそれぞれが役割を自覚し、一人のトライのために動く。科学的に分析し、理論と戦略を導き、その実現のための練習が繰り返される。その知性と生身の実践とが一体となった組織的攻防がそこには観える。身近な社会運動、労働運動でも「有名人だのみ」「議員だのみ」「選挙だのみ」の方針が非科学的に繰り返され、「わたしはよくがんばった」という自己愛的信仰心で運動が支えられている状況を思い出すとき、果敢な突撃を繰り返す姿を観ながら闘争とはこうあるべきだと励まされる。
ラグビーのもう一つの積極性は「フェアプレイ」の思想である。そもそも、ボールの争奪をめぐって強烈な身体的ぶつかり合いが許される中では、混乱に乗じて故意に「汚いこと」をしようとすればその機会はいくらでもある、しかしそれをしてしまったらラグビー自体が成り立たない。しかも多くが当事者しか分からない場面だから絶対的な審判者を仮定することもできない。結局プレイヤー同士が互いを信頼し自分たちで規律を守る以外にないのである。つまり激しい闘争的性格と不可分なのだ。
そして「フェアプレイ」の思想は民主主義に通じる。「あいつが言っているから」とか「みんながそうだから」と場外(議論以外)での多数派工作を「日本固有の〝和〟の文化」だとごまかす風習がいまだに根強いが、そうではなく自分で判断しズルいこと汚いことはしない。真実を追求するという共通の目的の下に呵責ない討論が民主的組織を可能にする。「フェアプレイ」の思想は「健全な資本主義」に例えられるが、そんなものがまやかしでしかないことは今の日本の現実を見れば明らかである。
「ラグビー」本来の可能性を強調してきたが、はたしてその現状はどうか。それは文化芸術活動一般がそうであるように、危機的だ。スポーツの中でも特異な可能性をもっているとしても「政治や生活から離れては存在しえない」。
ワールドカップのゲームをいくつか見たのだが、開始前にブレイブ・ブロッサムズ(日本代表チーム)の選手に「君が代」を歌わせ、涙ぐむ姿を大写しする新聞やテレビ。観客席では羞恥心のかけらもなく、無邪気にたなびかせる数多の「日の丸」(ときには旭日旗までも)。これらは闘争たり得ていない日本の階級闘争の不甲斐なさを見せつけれているようで、いたたまれないような、奮闘を促されるような気持ちになる。
同じ国歌斉唱でも、フランスは君主を打倒する人民兵士を鼓舞し、南アフリカは「アパルトヘイト」の克服を称え、アイルランドやスコットランドは国歌でなく、民族の自決や独立、暴君の打倒の賛歌である。日本やイギリスのようにいまだに「君主」を称える内容がいかに遅れているかが浮き彫りにされるようで興味深かった。そういえば有名なオールブラックスの〝ハカ〟は国歌斉唱など霞んで記憶に残らない迫力を持っている。それにしても何故、自らを鼓舞し、相手を威嚇するかのごとき民族舞踏がゲーム前の伝統となっているのか。想像だが、被植民者の敵に対する攻防の武器なのではなかろうか。ラグビーは英国パブリックスクールにおいて、支配階級の子弟にたいする情操教育がその発祥であることは良く知られてる。つまりフェアプレイのラグビーは皮肉にも大英帝国の植民地政策の中で世界に拡がっていった。たしかに現在の強豪国はイギリス帝国主義による植民地の歴史を持つ国が目立つ。そして被植民者が唯一植民者に体当たりし、ねじ伏せることが許されたのがラグビーだったという話を聞いたことがある。まるでアメリカ黒人にとってのベースボールのようだ。ハカにはそんな「伝統」があるのではないか、と私は想像したい。「君が代」への涙とでは次元が違いすぎる。

スポーツの危機の背景にあるもの

資本主義国において「新自由主義」政策が激化しはじめた一九八〇年代後半。企業の「リストラ」=労働者への利益配分の総体的切り縮めは、「競争力強化の足枷」として真っ先に文化活動や労働者の福利厚生を標的にし、実業団スポーツチームの廃止や予算削減も相次いだ。実業団チームを主力としたラグビーも例外ではなかっただろう。
そんななかで活動を持続するためには二つの選択しかない。労働者主体によるスポーツ文化の運動か、あるいは興行商品として営利主義にゆだねるかである。
観客動員数を最優先する営利主義によるスポーツの蹂躙は著しい。そして人民が搾取強化に抵抗しないためにも、同時に増大する人民の不満を排外主義に転嫁するためにも「国家」幻想を感覚せしめることが資本にとっては不可欠だ。ワールドカップはその格好の機会である。そこには、衰退著しいこんにちの「ラグビー文化」を憂い、再興を期待する良心的愛好家のエネルギーも吸い込まれる。日本へのラグビーワールドカップ招致にこだわった右翼政治家・森喜朗は"One For All, All For One" とは「滅私奉公」だと言い放ったというが、ここにはラグビーの積極的思想を搾取階級に隷属させようという意図が象徴されている。来年予定されているオリンピックに至っては営利主義と国粋主義の祭典以外の何物でもない。
一方で故大西鐵之祐のように「…スポーツが人類の親善と平和と幸福のためにどうあるべきかの哲学と具体的な方策を今にして立てなければ、スポーツはまたしても戦争と政治と資本の具に利用される可能性を十分持っている。」との警鐘を共有するラグビー人、スポーツ人も少なからずいる。課題はそれらの人びとをどれだけ連携させ、思想を繋いでいくかだが、それはスポーツ周辺に視野を限っていては不可能だ。いま重要なことは、すべての文化芸術活動を含めて、何が労働者人民の利益になるかである。【藤原 晃・神奈川・学校労働者】

(『思想運動』1046号 2019年11月1日号)