福島原発震災から八年
山場を迎える東電元会長らへの刑事裁判
八年目の現実
福島県内の国道六号線を北上してみてほしい。いわき市を過ぎると沿線の富岡町、大熊町、浪江町には立ち入り禁止にされた道路と家屋が連なっている。そしてフレコンバッグという除染土の詰まった黒い袋の山が見える。ここだけでなく、県内各地に仮置き場と称する集積所が設けられ山積みになっている(まだそこにも運べずに家庭の庭先においたままのところもある)。
順次中間貯蔵施設に移すというのだが、何年かかるのか、そもそもこの袋の耐久年数は? 最終処分場(どことも分からないが、県外だという)に移す(三〇年以内)までもつとは思えない。
手っ取り早く全国にばら撒いてしまおうという計画(道路材として路面の下に埋めてしまう等々)まで出てきている。原発でたまりつづける汚染水を薄めて海に流してしまおうというのと同様の恐るべき発想である。
◦一二市町村がいまだに避難区域(帰還困難区域、居住制限区域、避難指示解除準備区域)に指定されたままである。
◦いまも七万余人の避難者(福島県庁の発表では四万三二一四人〔昨年十二月〕という、自主避難者は数えないで)がいる。
◦無理やり避難区域が解除された地区に帰る人は少なく、多くは高齢者である。昨年再開したばかりの川俣町山木屋小中学校は、来年度小学生はゼロになるとのことである。帰還強制の矛盾の数々については『社会評論』誌連載の國分富夫氏の報告を見られたい。
◦健康被害について、県の健康調査によると原発事故時一八歳未満の人から一六六人の甲状腺がん患者(手術済み)が見つかっている。がんの疑いを含めると二〇六人に上るというのであるが、「放射線との関係は不明」なのだというから恐れ入るばかりである。県の把握していない患者がこの他に一一人いるが、県はこの健康調査は全体像の把握をするものではないというのである。どこまで人を馬鹿にすれば済むのだろうか。
◦汚染水の増加すら止められない原発はどうなっているのか。二月十三日東電は初めて二号機の炉心に機器を入れ、溶けて固まった核燃料(デブリ)に触れることができたとしてその映像を公開した。小石状の物質をつまんで見せていたが、取り出した物質(放射能の塊)をどこに、どう保管するというのか。そして最終的にどこでどう処分するのか、何も決まっていないどころか計画すら立てられないのである。原子力緊急事態宣言は、その解除の見通しもつかないままである。
「復興五輪」の目くらましの陰で被害者の苦闘は果てしなくつづくのである。ここではもう触れられないが被害者には福島県民だけでなく放射能から逃げた県外の自主避難者も多数いれば、放射能の危険と日々向き合い被曝を余儀なくされている大量の労働者も被害者なのであることを忘れてはならない。復興どころか被害は拡大しつづけているのだ。
結審近い刑事裁判
昨年末の十二月二十六日、東京地方裁判所において東電元会長勝俣恒久他二名の旧経営陣に業務上過失致死傷罪の最高法定刑である禁固五年が求刑された。あとは三月の被告側の最終弁論を残すのみとなった。簡単に裁判の経過と公判において明らかになったことをまとめてみよう。
裁判は、検察官役に指定された弁護士による強制起訴によって始まった。検察庁は独自に捜査するでもなければ、被害住民の告訴(十二年六月十一日、一三二四人の県民により告発状提出)によっても不起訴処分を繰り返し、二度にわたる検察審査会による「起訴相当・強制起訴」の決定により開始されることになった。
一六年二月二十九日に強制起訴が行なわれ、第一回公判が一七年六月三十日に開かれ、昨年に入ると、多い月は六回の公判を開くなど精力的に進められた。三六回の公判で被告三人の罪状(原発事故を防ぐ対策を怠り、その結果事故を引き起こし、事故から避難しようとした双葉病院の入院患者など四四名の死亡と原発の爆発により一三人のけが人を出した責任がある)は余すところなく明らかにされた。
明らかになる真実
事故直後から「これは『想定外』の地震と津波によるものであり、防ぎようがないものだった。天災だから責任はない」との言説がふりまかれたが、公判で明らかにされた真実はどうだったのか。時系列に整理してみてみよう。
〇二年七月政府の地震本部が福島沖でも津波地震の発生の可能性があると指摘。
〇六年五月東電を含む電事連の勉強会で津波による全電源喪失の危険性報告。
〇八年三月東電の子会社により福島第一原発に最大一五・七mの津波の可能性があると計算。この三月から七月の間に東電経営陣により津波対策の先送りという方針が決定される。
それまでも先送りしつづけてきた津波対策を〇九年六月に予定されていた保安院の検査(バックチェック)に間に合わせなければならないとして現場社員は急ピッチでその作業を進めていたのである。それは勝俣会長の出る「御前会議」(なんともふざけた呼び方だがこう呼ばれていたという)や常務会にも報告されていた。
当時勝俣は社長から会長になり、武黒一郎は副社長で原子力・立地本部本部長、武藤栄は副社長で立地本部副本部長であった。津波対策のため防潮堤を築くには多額の費用がかかること、何より翌年六月のバックチェックに間に合わないと原子炉の停止に追い込まれかねないことを恐れた被告らは、津波対策の先送りを決め、七月三十一日武藤副社長に対策の説明に来た担当者らに方針転換を命じたのである。
それを聞いて衝撃をうけた担当者は呆然としてその後数分の記憶がないと証言している。先送りに伴う土木学会を使っての裏工作など興味深い証言は多いがすべて省くことにする(公判の詳細は、福島原発刑事訴訟支援団のサイトhttps://shien-dan.org/に詳しい資料がある)。
つけくわえるなら、震災直後よく比較された貞観地震についても、〇八年にはその波源モデル化がすでに検討されていた。震災直前に初めてこの地震について知ったなどと言うのは真っ赤なウソだったのである。
意義の大きい裁判
市民の告訴団による東電以下のいわゆる「原子力ムラ」(わたしはマフィアと言うべきだと思うが)の三三人に対する告訴・告発から始まったこの刑事裁判は検察の不起訴、検察審査会の決定により東電の三人のみの強制起訴となった結果、争点が絞られて早期の結審となったともいえる。被告らの刑事責任もいっそうわかりやすくなった。
しかし、有罪判決が出されるかはわからない。いや疑わしいと言わねばならないのである。今回の市民の告訴を受けての検察の捜査と不起訴処分、検察審査会による議決を受けての強制起訴という流れは、〇五年JR西日本の福知山線脱線事故において歴代社長三人の刑事責任を問うた裁判(すべて無罪判決)を思わせる。日本の司法は政治権力ばかりか経済権力に弱い。その兆候も垣間見られる。何よりも指定弁護士が求めた現場検証を裁判官は認めなかったのである。刑事訴訟支援団は裁判所の厳正な判決(つまり有罪であるが)を求める署名運動をはじめ各地で裁判報告会を開き、三月十日には東京で全国集会を行なう。法廷外の国民の運動のいかんが判決を左右することは歴史の示すところだ。
この裁判の結果は各地の損害賠償裁判や避難者への補償、さらには原発の再稼働等々にきわめて大きな影響を与えることになる。有罪判決を勝ち取る大衆運動のうねりを作り出そう。【二瓶一夫・福島県在住】
(『思想運動』1038号 2019年3月1日号)
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