資本主義こそが戦争の元凶だ
シリーズ
『教えられなかった戦争』上映運動一〇

ひとつの区切り

 『教えられなかった戦争』シリーズの監督である高岩仁さんが亡くなってから今年で一一年になる。同シリーズの製作を支え、学び、上映運動に取り組んだきた人たちは、監督が亡くなった翌年から、毎年『教えられなかった』戦争シリーズの上映会を監督の命日の一月二十九日に近い日に開いてきた。一〇回目となった今年一月十三日、本上映会はひとつの区切りを迎えた。
 今回上映された作品は『教えらえなかった戦争 侵略・マレー半島』と同『沖縄編 阿波根昌鴻・伊江島の闘い』。
 そして生前に高岩監督自身が映画製作を決意したいきさつや、実際の製作に入ってからの困難について語った映像(約一五分)だ。映画はそれぞれ二時間近い作品でありながら、またこの一〇年の間に一度はこの映画を観たという人も多いはずだが、会場を訪れた人びとは熱心に映画を観ていた。二つの上映作品を結ぶ講演として、琉球大学名誉教授で、同シリーズのマレー半島編の製作に尽力された高嶋伸欣さんが映画の果たした役割を受け止め、今後に引き継いでいくための講演を行なった。

軍隊という非人間的社会

 高嶋さんが高岩監督の作品に共通する問題提起として挙げたのは、国内外で武力行使を行なった戦前の政治的経済的勢力が戦後も解体されず、いまも再び人権侵害や侵略の道に踏み込みこもうとしている、日本社会への怒りと警告であった。ややもすれば、戦争の経済的側面は見落とされがちである。本上映会の副題は「資本主義は戦争を必要としている」である。この問題提起をきちんと見ていくことの大切さを、高嶋さんは強調された。
 また加計学園問題で加戸守行・前愛媛県知事が、霞が関で三十数年官僚として過ごした経験から「虎の威を借る狐」の手法で加計学園は目的を達成したと発言したことを挙げ、この構図はまさに「上官の命令は天皇陛下の命令と心得よ」と住民虐殺を強要された皇軍兵士たちと同じものだと指摘された。
 『マレー半島編』に、三宅元次郎さんという当時七九歳の広島の歩兵第一一連隊に入った元日本軍兵士の証言が収められている。一一連隊は陸軍の精鋭部隊として日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、日中戦争、太平洋戦争、と常に侵略の最前線で戦ってきた。
 その侵略の尖兵としての経験を、三宅さんは人間として本当は話したくはない、日本人の恥だから。しかしその日本人の恥を、語らねばならない、といって話はじめる。
 「人間が人間並みに扱うてもらえない所だからな、軍隊というとこは」。「その軍隊へ入って僕たちが一番下だよ、ね。二等兵で、あと上等兵から下士官までみんな上官。みな天皇につながってるんじゃ。抵抗することができない。口答えができない。『そうじゃありません。これが本当ですよ』ということができないのや」。「縦割りでしかもピラミッドで、頂点に天皇がおって、自分より上の上官がみな天皇だ。一番下の兵卒はかのうたもんじゃなかろう。息ができない、息が。かたくるしくて、軍隊というとこは。君たち、軍隊を知らんから、日本の軍隊を味おうてないからわからんだろうけども、そんな所や。つまり、人間が住む所ではない。非、非人間的な社会や」。
 この非人間的社会の基本的な構造は現在も残されているのではないだろうか。
 アジア太平洋戦争は真珠湾攻撃に先立ち、マレー半島上陸作戦によって開始された。日本は石油など東南アジアの資源獲得のため、シンガポールを占領した(一九四二年二月十五日、シンガポールのイギリス軍降伏)。人口の約八割を占める華僑は、日本の中国侵略に対して祖国支援運動を行なっていたため、日本軍はそうした華僑を反日的とみなし虐殺した。地元では四、五万人が殺されたとみている。
 高嶋さんは、広島の原爆被害者とマレー半島での日本軍の残虐行為の被害者との交流、そしてその残虐行為を行なった日本軍兵士の遺族との交流も行なわれていることを映像を交えて報告された。このような具体的な交流を通じて培われた確かな歴史認識を共有する努力がますます必要だ。

アジアの民衆と ともに生きる視点

 高嶋さんはまた、太平天国の乱(一八五一年)、セポイの反乱(一八五七年)といった欧米列強に対するアジアの民衆の反植民地の闘いが、日本が植民地化されるのを防いでくれたのだ、という歴史の見方を指摘した。
 配布された資料の一つを紹介すると『新講 日本史 増補版』(家永三郎、黒羽清隆・昭和五一年増補版発行・三省堂刊)には、幕末の日本が植民地化されなかったのはなぜかという問題は、昭和初年から専門家たちの重要な研究主題とされていたと書かれている。服部之総、羽仁五郎、石井孝、遠山茂樹、井上清の名前があげられ、羽仁五郎の欧米列強における労働者階級の闘争とアジア列強における民衆の反植民地化闘争とをもって日本の植民地化を阻止した世界史的条件とみる立場(のちに「人民闘争一元論」と呼ばれる、とある)と、それと前後して事実の方面として対日政策における英仏の対立が問題にされ、当時の東アジアにおける対中国貿易の圧倒的重要性が指摘され、一八六一年以降は南北戦争によってアメリカ勢力が「退場」したことと合わせて、日本をめぐる国際的環境の「幸運さ」がほぼ認められ始めていたという。
 このような研究蓄積を受けて明治維新史研究の第一人者であった遠山茂樹、井上清は戦後、それぞれが異なる見解で論争を行なった( 遠山は「『幕末』の日本を欧米産業資本の半植民地的市場として、政治的・軍事的従属国とは見ず、その根本的原因がイギリスの自由貿易第一主義にあると論じ、国内的には、資本主義の展開に適応できる『幕末』経済(商品経済)の水準の高さを重視している」。井上は「その外部条件を認めながら、半植民地状態の危機・深刻さについてより重大性を認め、居留地の存在(租界にひとしい)・外国軍隊の駐留・低関税の強制といった一連の危機的状況をついている」。
 以上、前掲資料より引用)。
 しかしこのふたつの学説に共通して確かめられたことは、羽仁五郎が主張しつづけていたアジア列国の民族的抵抗が欧米列強の対日政策を緩和させたという考え方であり、ほぼ公認された、という。
 そしてこれは一九六〇年代には一般書にも受け入れられていた視点である。たとえば『日本の歴史 19 開国と攘夷』(小西四郎・昭和四一年初版発行・中央公論社)では、セポイの反乱について「このようなインドの動きは、イギリスの対東洋政策に、大きな教訓を与えたものであり、また民衆の力というものを知らせたものである。イギリスの、その後の中国や日本に対する政策もこのような教訓をうけとめて方針が立てられたのであり、しがたってセポイの反乱は、たんなるインドの、インド人のことであり、日本と無関係のものであると考えてはならないと思う」と書かれている(いずれも配布資料より)。
 また高嶋さんはこのような視点が現在あまり重視されない理由の一つとして、学者・知識人の間に全共闘運動を支持する理論家であった羽仁五郎の論と距離を置きたいという考えがある、ということも紹介した。

恩を仇で返した日本

 高嶋さんは、自身が元高校の教員であった教育体験から、アジアの民衆の反植民地の闘いが日本の植民地化を防いだ歴史と、その後日本が侵略戦争でアジアの国々に何をしたのかということを高校生に教えると、「じゃあ、日本は恩を仇で返したんですね」と素直に理解できると語った。
 これまで高嶋さんの講演を折に触れて何度か聞いてきたが、これほどこの指摘が重く響いたことはなかった。「明治一五〇年」に決定的に抜け落ちているのは、まさにこの視点だからだ。一八六八年の明治維新によって、日本は資本主義的近代国家としての歩みを始める。そしてその過程で植民地獲得を貪欲に求めた。一九一四年、植民地分割のための最初の帝国主義戦争・第一次世界大戦が勃発し、植民地再分割の戦争・第二次大戦を経て、夥しい戦争犠牲者を生み出した。日本はこのふたつの戦前、戦中、戦後で、アジアに自ら自由に振舞える経済圏(植民地)を獲得し、それを支配する立場をとってきた。

基地はなんのためにあるのか

 日本がポツダム宣言を受諾して連合国軍の支配下に入った後も、沖縄は日本から分離されて米軍の単独支配下におかれた。講和条約が成立した一九五〇年代前半から沖縄では銃剣とブルドーザーによる土地取り上げが始まる。『沖縄編』はこの時期の伊江島の島民たちの米軍の土地取り上げに抗した闘いを中心に取り上げる。
 映像中、さいきん亡くなられた新崎盛暉・沖縄大学名誉教授の発言を聞いてハッとさせられた。日米安保体制は「GNP四〇%の同盟」であるとアメリカの高官によって言われている、という指摘があったからだ。これの意味するところは、この映画がつくられたときの世界の総生産の二二%を占めるアメリカと一八%の日本の同盟関係を軍事的に支えているのが日米安保体制であったし、いまもあるということだ。
 『沖縄編』が製作された九八年、日本はすでに「平成」であった。今年の正月は新聞各紙がこの三〇年を総括する記事をこぞって発表し、なにもかもを「平成」と「天皇」に結びつけて語ろうと躍起になっていた。そのなかで目を引いたのが『産経新聞』一月一日付の論説委員長・乾正人の文章だ。大見出しは「さらば、『敗北』の時代よ」である。いまの世界の各国名目GDP比で日本は六%(二〇一九年IMF予想では、米・二四・四%、中国一六・一%。この二国を合わせて四〇%になる)。この四〇%の同盟は、日本の経済的後退によって破綻しているのだ。そして日本の支配層は、その必要性を中国の飛躍的な伸張、朝鮮半島の平和統一への強固な政策の進展、といった「日本を取り巻く国際環境の変化」と言いつのっているのだ。
 さらに『沖縄編』のブックレットを繰ってみると、そのなかで新崎さんは「日米安保再定義で具体的に出てきたのは日本が積極的に軍事行動に乗り出すという側面が非常に強くなったことであろう」と指摘している。この流れは現安倍政権のサイバー・宇宙・電磁波の新領域を含む領域横断的な運用を目指す多次元統合防衛という最新の中期防衛整備計画へと、現在もやむことなく、形を変えながら、継続されている。
 資本主義社会では、生産手段(富を生み出すもの)はすべて資本家たちが独占所有している。そしてその「もの」を生産する力(労働力)をもっている労働者を安く買い叩き反乱を押さえ込むため、資本家は軍隊と武器を決して手離さない。資本主義では戦争はなくならない。この構図をきちんと理解し、戦争の元凶たる資本主義廃絶のためにアジア、そして世界の人びと共に闘おう。 【廣野茅乃】

(『思想運動』1037号 2019年2月1日号