学校の変形労働時間制
「闘い方改革」の風を吹かすには
近頃、日教組は「学校にも働き方改革の風を!」とキャンペーンに取り組んでいる。昨年の七月から文科省の中教審・学校の働き方改革特別部会もできて日教組も意見反映をし、「追い風」が吹いているという。
しかし、わが陣営の内実を本気で立て直そうとするよりも今のままの信心を呼びかける行き方では、いつの間にやら向こうの掌の上に乗り、気が付けばクルっと向きを変えられて向かい風を「追い風」に感じてしまうとも限らない。
「働き方改革」の 風向き
「追い風」など吹いていないことは学校労働の現場に身を置けば誰しもが実感する。いくら文科省と日教組がいっしょになって「業務改善の策定」「残業時間の上限規制だ」とラッパを吹いたところで、シラケばかりが広まるのが実際である。それは日教組の調査でも、昨年に比べて勤務時間が「変わらなかった」が五〇%、むしろ増加した(大幅に増加とやや増加)が三〇%という結果に表われている。
中教審特別部会では、教師の過労死がメディアで取り上げられて以来、超長時間勤務の噂が広まる学校への「一年単位の変形労働時間制」の導入が検討され、この十一月十三日には「答申骨子」として提案された。調べてみると、自民党の教育再生実行本部が五月に提言していたという。
学校労働の実際について少し説明しておく必要があるかもしれない。もしかしたら、学校労働者、なかでも教師の仕事は授業と生徒対応ぐらいで夏休みや春休みは生徒といっしょに「お休み」と思っている人もいるかもしれないが、そうではない。
実際には、授業にかかわるだけでも、その教材の準備や研究があり、試験をやれば成績処理の業務がついて回る。それ以外の主な仕事は、時間割の作成や教育課程の編成、さまざまな学校行事の計画や実施、PTAの事務や、地域行事への参加、教育委員会への調査や報告作成、私費の会計処理、銀行への入出金や入用の買い出し、さらに最近ではこれに学校の宣伝活動、給与や年休出張などのシステム入力が加わり、他にも「キャリア教育」、「人権教育」など、○○教育と文科省が口にすればそれらすべてに計画と報告がついて回る。さらに学級担任なら保護者への対応、指導要録の作成、生徒の生活指導や進路指導が重なる。だから、夏休みや春休みなどの長期休業中にはやっと少し一息ついて、課業中に落ち着いてできないような仕事を済ますことができる。学校によりけりではあるが、たしかに残業は少なくなる場合もある。それは文科省の教員の残業時間調査にも表われているのだろう。
だから、「変形労働時間制」を入れて夏休みの勤務時間を短くして忙しい時に勤務時間を長くすれば年間総労働時間を変えないまま、残業時間が減らせるというわけだ。いかにもケチんぼの発想だが、それが資本家根性というものだ。そもそもを言うならば、そんな資本家根性を土台にせざるを得ない中教審などに「意見反映」をしようという運動のあり方が不可能なのだ。
何に、何故反対すべきなのか
しかしそんなことはどうでもいい。わたしには「変形労働時間制」に反対するその理由が腑に落ちないのだ。商業紙や『赤旗』、日教組も含めて「学校に閑散期など存在しない」とか「学校になじまない」あるいは「生徒や子どもたちと接する時間を増やすため」に長時間労働を減らせという論調ばかりである。
「生徒や子どもたち」をダシに使わなければ、生活権すら主張できないなどということがあるはずがないではないか。
そもそも教師の「残業」自体が違法なのに、一方で公務員には日頃から「処分」をちらつかせながら、ことさらに「遵法精神」を強調しているのは辻褄が合わない。そんなことすら一向に解消されない現実の中で「追い風」への期待感など持つことができないのは当たり前という他はない。
「繁忙期」の残業代をケチり搾取率を上げたいというのが一貫した資本家根性の当然の結論であり、そこで八七年に労基法を改悪して導入したのが「変形労働時間制」である。だから、反対を貫くうえでは「教師の専門職性」「学校の特殊性」を強調するのではくて、元来多数者である労働者性を訴えなければならないはずである。
つまり、資本主義社会ではわれわれ労働者は労働力を時間で売るしかなく、人間の生理的サイクルは一日なのだから、忙しかろうが暇だろうが、一日八時間労働以内という労働者階級が勝ち取った原則を確認しつづける文章をあらゆる場面で書いて仲間に訴えていく。
そんな作業を繰り返す以外に期待などを持つことはできないではないか。デパートの販売員だろうと建築現場の作業員だろうと、教師だろうと「繁忙期」だけ労働時間を長くされてはかなわないというのが当然の真実に他ならない。
「聖職者」をやめて労働者になろう
しかしその真実を正面切って主張できないところにわれわれの思想的敗因があるのではないだろうか。そこには森有礼が「声明ヲ擲ッテ教育ノタメニ尽力スルノ決意」と呼びかけて以来の意識、つまり「教師聖職者意識」がまたしても横たわっている。実際、教師たちは残業代どころか、生活を、時には生命までも投げ打って「教育」に尽くしている。教育労働者は、とりわけ教師はこの呪縛から自らを解放するために労働者として闘うことが必要なのだと改めて感じずにはいられない。
「教師は労働者である」「教師は生活権を守る」「教師は団結する」という誇らしい宣言も、倫理綱領の最後尾に置かれている理由はこのあたりにあるのかもしれない。最近は顧みられることが少なくなった『教師の倫理綱領』だが、だからこそ、この八、九、一〇項目にストライキ権も付け加えて、先頭に並べられるような、そんな労働組合の思想的内実を作っていきたい。【藤原 晃・教育労働者】
(『思想運動』1034号 2018年12月1日号)
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