排外主義と自家撞着の「安倍外交」
日ロ・日朝・日米外交の破綻
日ロ平和条約をめぐるプーチン発言
第四回東方経済フォーラムが、ロシアの極東ウラジオストックにおいて、九月十一日から十三日にかけて開催された。
日本のメディアが注目したのは、全体会議において、ロシア・中国・日本・韓国・モンゴルなどの指導者すべてが演壇に立ち、質疑応答が行なわれたなかでのプーチンの発言と安倍の反応であった。プーチンは「そこでわたしも次のようなアイデアを思いつきました。平和条約を結ぼうではありませんか。今すぐではなく、年末までに。一切の前提条件を設けずに」と発言したのだ。それに対し安倍が反論せず受け流したことをメディアは「領土問題の解決なくして平和条約の締結なし」という日本政府の従来からの主張の放棄につながる、といっせいに問題視した。
安倍政権は、千島列島の全面返還要求を実現するために、まず従来からの「領土問題の解決なくして平和条約の締結なし」という主張、「北方領土=固有の領土」論から「新しいアプローチ」と称して共同経済活動を通じての問題解決をめざしていた。しかし、その中身は、羊頭を懸けて狗肉を売る類のものだ。安倍らには、ロシアが南千島四島の返還に同意さえすれば、ロシアは大きな支援を享受できるのだから、結局はその方向に動くであろう、との読みがあったにちがいない。しかし、今回のプーチン発言は、「ニンジン」をぶら下げてプーチンを動かせるという安倍の発想がいかに非現実的であったかを示し、安倍外交の破綻を象徴するものとなった。
さらにわれわれが問題にすべきことは、「『無条件の日ロ平和条約』に反論なし」と、安倍の対ロ外交を「『領土』全面放棄の危険」と批判する日本共産党をふくめた野党勢力の排外ナショナリズム丸出しの醜悪な反応である。九月十四日の野党国対委員長会議は、安倍の対ロシア外交について予算委員会での閉会中審査を緊急に行なうよう政府に要求することで一致したという(『しんぶん赤旗』十五日付)。わたしたちは、「全千島が日本の領土」と全島返還論を主張し、「ヤルタ協定」(一九四五年二月)の誤りを指摘する日本共産党の右翼排外主義に手を貸す報復主義的領土要求を厳しく批判しなければならない。ここではまず、繰り返される謬論に抗し改めて「北方領土問題」とはなにか確認しよう。
「北方領土問題」とは
千島(クリル)列島は、カムチャッカ半島の南、占守島から得撫島までを北千島、択捉島から国後島、色丹島、歯舞諸島を南千島としている(色丹、歯舞は北海道の属島であり、南千島に含まれないという日本政府の解釈もある)。
「四島返還論」とは南千島四島の返還論で、紆余曲折はあったが歴代日本政府がとっている立場である。その論は、幕末・明治期における天皇制絶対主義政府と帝政ロシアとの領土交渉、日露戦争の結果として結ばれた条約などを根拠にしている。しかし、この返還論は、ファシズム対反ファシズムという性格をもって戦われた第二次世界大戦の帰結として千島列島の帰属が決定されたことを全面的に否定する反動的な論だ。これらの地域のソ連邦への編入は、日本軍国主義の復活を阻止するための最重要な保障措置であり、反ファシズム勢力全体の共通の意志であった。
しかし戦後、米国によるソ連邦を中心とした社会主義体制の封じ込め政策の展開によって、「北方領土」問題はその道具として利用されてきた。
主として北海道の根室、歯舞の元住民を中心にして起こった領土返還運動は、米ソ間の厳しい対峙のなかで日米支配層の支援をうけて発展・推進されてきたのである。
では外務省のホームページから日本政府の第二次大戦終結時の見解をみてみよう。「第二次大戦末期の一九四五年八月九日、ソ連は、当時まだ有効であった日ソ中立条約に違反して対日参戦し、日本がポツダム宣言を受諾した後の同年八月二十八日から九月五日までの間に北方四島のすべてを占領しました。(中略)ソ連は一九四六年に四島を一方的に自国領に『編入』、一九四九年までにすべての日本人を強制退去させました。それ以降、今日に至るまでソ連、ロシアによる不法占拠が続いています」。
ここには、ヤルタ協定にはいっさい触れないという、日本政府の姿勢がよく示されている。日本共産党の見解はこれを一歩先に進め、「ヤルタ密約」そのものが誤りであったと抗弁している。
「旧ソ連のスターリンは、大西洋憲章(一九四一年)とカイロ宣言(四三年)で確認された『領土不拡大』という戦後処理の大原則を破り、(米英首脳との)ヤルタ秘密協定(四五年)で『千島列島の引き渡し』を要求。米英側がこれに応じて協定に書き込」んだ(同上『しんぶん赤旗』)というのだ。こうした主張は、侵略戦争にたいする日本帝国主義の戦争責任を第一義に追求しなければならない日本人民と日本共産党の姿勢とは、本来まったく相入れないはずのものだ。
日ソ中立条約は なぜ破棄されたか
一九四五年一月、クリミア半島のヤルタにおいて米英ソ三国の戦後処理をめぐる会談が行なわれた。対日問題では、日本軍国主義の無条件降伏をめざして、米英からソ連にたいして対日参戦が要求され、協定ではドイツの降伏、ヨーロッパ戦線の終結後、二か月または三か月を経て、ソ連の対日参戦が決まった。このとき、条件として「樺太の南部及びこれに隣接するすべての島、千島列島はソ連邦に引き渡す」とされたのだ。第二次世界大戦の早期終結のため対日参戦の義務を負ったソ連は、一九四五年四月五日、日ソ中立条約(四一年締結)を破棄した。
条約破棄の声明では、中立条約が、ナチス・ドイツによるソ連侵攻と日本の対米英戦争勃発前に締結されたものであることを指摘し、米英ソ三国が同盟関係にある情勢の下では中立条約の意味は失効し延期は不可能になったと通告した。ソ連は日本支配層にたいし、対日参戦が不可避となり、降伏を決意するよう警告したが、日本政府は一貫してそれを無視し続けた。米英中三国による無条件降伏をよびかけたポツダム宣言(七月二十六日)を拒否し徹底抗戦の地獄への道を走る日本軍国主義に対し、八月九日、ソ連赤軍は宣戦布告のうえソ満国境を突破した。それは日本帝国主義と戦う中国・朝鮮人民の抗日民族解放闘争への強力な支援でもあった。
日本共産党は「領土不拡大の大原則」を云々する前に、ソ連の参戦が日本軍国主義にとどめを刺した歴史的事実、締結された諸協定の内容、連合国の交戦目的について再確認する必要があろう。それは、報復主義的な領土要求にあるのではなく、無謀な侵略主義を戒め、同時にその復活策動を阻止、根絶することにあった。択捉島のヒトカップ湾は対ソ攻撃のための根拠地であり、真珠湾奇襲のための機動部隊の集結地であった。
ヤルタ協定は連合軍による大戦終結のための合意事項であり、ソ連の対日参戦は軍事的事項として極秘とされ公表は戦後の一九四六年であった。このソ連参戦の意義が戦後、米帝国主義の反ソ政策によって黙殺され、「北方領土」問題は反ソ・反共攻撃の道具として、歴代の反動政権に利用されてきたのだ。
安倍外交の破綻
第三次安倍政権の前には、改憲、天皇代替わり、参院選、消費税一〇%増税等々、課題が山積みだ。成果のみられないアベノミクスをいっぽうの柱とするならば、総裁選でも掲げた「戦後日本外交の総決算」はもう一つの柱である。
首脳同士の個人的信頼だけを強調する安倍外交はすでに破綻をきたしている。それは日朝、日米、そして日ロにおいても明白となった。総裁選後の最初の外遊となった国連を舞台とした外交においても、日米関税交渉では、これまで何とか避け続けてきた二国間関税交渉(「日米物品貿易協定」)に入ることを余儀なくされた。それは限りなく日米FTA(自由貿易協定)に近い。また、日朝関係においても朝鮮半島情勢が急激に転換するなかで、朝鮮敵視政策にもとづく圧力一辺倒の路線の転換を強いられている。日朝平壌宣言にもとづく日朝国交正常化交渉にあたっては、日本帝国主義の朝鮮植民地支配責任を回避することはできない。さらに、中国との関係では対中改善と対中けん制との矛盾のなかにあるといっていい。
安倍は、前述の東方経済フォーラムでの演説の中で「北朝鮮くらい未来を希望に変えるポテンシャルに恵まれた国」はない、「銅や金、鉄鉱石や豊富なミネラル資源が」あり、「二五〇〇万人の人口は、世界有数の勤勉な労働力となる」「北朝鮮が希望に満ちた未来を歩んでいけるよう」「ぶれない態度で接していくことを確かめ合おう」などと、まるで宗主国の君主が植民地の経営を語るような愚劣で不遜きわまる発言をしている。
第四次安倍政権とのたたかいは、翁長氏の遺志を受け継ぎ、辺野古新基地反対を掲げた玉城デニー氏の勝利が示すように、これまでに増して人民主権を取り戻す闘いの強度を、われわれに問うている。【逢坂秀人】
(『思想運動』1030号 2018年10月1日号)
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