白井聡『国体論 菊と星条旗』を読む
天皇教信者の心情告白


 四月に出版された白井聡の新著が評判を呼んでいる。八月二日に掲載された新聞広告によると七万部突破とあるから、昨今の出版事情を考えると、この種の分野では紛れもいないベストセラーであろう。新聞・雑誌・書評紙、運動系の機関紙が相次いで取り上げ、紹介記事・書評・インタビュー・対談を載せたほか、著者のテレビ・ラジオ出演が続いた。
 発売から五か月、そろそろブームも下火になりかけたこの時期に、遅まきながら、あまりのくだらなさに途中でほうり出したい衝動を抑えつつ、批判の筆をとることにした。

「お言葉」への讃歌

 本作は、戦後の対米従属批判という点では前作『永続敗戦論』(二〇一三年)の延長線上にあるが、そこに「国体」概念を当てはめ、天皇の上にアメリカが君臨する二重構造として論じたところに、強いていえば“新しさ”がある。白井によれば、戦後の「国体」は戦前の「国体」と同じ七〇年余の時間をへていまや「崩壊の危機」にあり、二〇一六年八月八日の天皇の「お言葉」は、この危機の克服を呼びかける国民へのメッセージだった、というのである。
 戦後の歴史を戦前のそれの反復と捉える白井の歴史観は、日本の近現代史一五〇年を一九四五年の敗戦をはさんで「近代前半」と「近代後半」に区分し、それぞれが三つの段階をへて前者は崩壊し、後者は「崩壊の危機」にあるという関係で対比される。第一段階は「国体の形成期」、第二段階は「国体の相対的安定期」、最終段階は「国体の崩壊期」であり、戦前のそれは「天皇の国民」「天皇なき国民」「国民の天皇」、戦後のそれは「アメリカの日本」「アメリカなき日本」「日本のアメリカ」が対応する。この機械的図式的対照で示される時期区分の恣意的なること、一目瞭然である。
 本書は明仁の「お言葉」についての叙述で始まり、ふたたび「お言葉」についての叙述で終わる。こうした構成に白井の本音が透けて見える。要するにこの本は、天皇礼讃のために書かれた、といって大過ないであろう。それは次の引用を見れば分かる。引用が長くなるが、白井の主張の核心部分なのでしばらくお付き合い願いたい。
 「筆者(白井――引用者注)は、自ら展開してきた『お言葉』の解釈が、現実政治にあからさまに関係するという意味で政治的であること、また『お言葉』にある種の霊的権威(傍点引用者)を認めていることを決して否定しない。
 しかしながら同時に、筆者は『尊皇絶対』や『承詔必謹』(「詔」は詔勅の意、すなわち天皇の発する文書――引用者注)を口にする気はさらさらない。なぜなら、かかる解釈をあえて公表する最大の動機は、今上天皇の今回の決断に対する人間としての共感と敬意であるからだ。
 その共感とは、政治を超えた、あるいは政治以前の次元のものであり、天皇の『私は象徴天皇とはかくあるべきものと考え、実践してきました。皆さんもよく考えて欲しいと思います』という呼び掛けに対して応答することを筆者に促すものである。応答せねばならないと感じたのは、先にも述べた通り、『お言葉』を読み上げたあの常のごとく穏やかな姿には、同時に烈しさが滲み出ていたからである。
 それは、闘う人間の烈しさだ。『この人は、何かと闘っており、その闘いには義がある』――そう確信した時、不条理と闘うすべての人に対して筆者が懐く敬意から、黙って通り過ぎることはできないと感じた。ならば、筆者がそこに立ち止まってできることは、その『何か』を能う限り明確に提示することであった。」(終章「国体の幻想とその力」三三九~三四〇ページ)

明仁は闘っている

 明仁は何と闘っているのか。戦後日本を規定している「国体」とでもいうべき対米従属構造と闘っていると、白井はいう。わたしは失笑を禁じえなかった。われわれは「尊皇攘夷」の志士に出くわしたような不思議な感覚に囚われる。かつての志士たちが天皇の意思を忖度して行動したように、現代の志士は「お言葉」の含意を忖度することによって、天皇を対米従属構造から脱却するための呼びかけ人に仕立て上げたのである。しかし、白井のような“高度な”忖度が働かないわたしには、天皇の言葉は文字通り皇位継承の危機を訴えて、「天皇制の永遠化」のための行動を決意する意思表示としか読めないのである。明仁は端的に次のようにいっていた。
 「始めにも述べましたように、憲法の下、天皇は国政に関する権能を有しません。そうした中、このたび我が国の長い天皇の歴史を改めて振り返りつつ、これからも皇室がどのような時も国民と共にあり、相たずさえてこの国の未来を築いていけるよう、そして象徴天皇の務めが常に途切れることなく、安定的に続いていくことをひとえに念じ、ここに私の気持ちをお話しいたしました。」
 ここに表明されている「私の気持ち」が(皇位の)「常に途切れることなく、安定的に続いていくこと」、つまり「天皇制の永遠化」にあることは、あまりにも明白ではないか。憲法違反との批判を恐れず、「お言葉」というビデオメッセージに託した明仁の危機意識は、皇位継承有資格者の枯渇という、誰の目にも明らかな事態に対する政府の無為無策に向けられていた。
 皇位が「安定的に続いていくこと」を保証する制度改革(皇室典範の改正)こそが明仁の意志であった。そしてその強く激しい意志が、白井をして、「不条理と闘う」人間の気高さと錯覚させたのである。
 白井の本を読み、かつまた出版と同時にどっと出回った好意的な紹介記事やらインタビューやら対談やらに接すると、そこには本体よりはるかに興味深い発見があった。そのひとつ、大澤真幸との馴れ合い対談「この廃墟のなかで」(『図書新聞』九月一日号)で白井はこういっている。引用文に挿入した( )内は筆者であるわたしの寸評である。
 「本書で最も議論を呼びそうなのは、今上天皇の『お言葉』の受け止めについてです。私は『お言葉』を読み込み(天皇の「お言葉」に込めた思いを我田引水的に忖度して)、思いきった解釈をしました(なるほどその通り)が、ここまで踏み込んだ議論は他にないだろう(そりゃそうだ)という自負があります。しかしそれは裏返せば、なぜ誰もこのような読みをしないのか(当たり前である)ということです。私は『お言葉』を大事件だと受け止めました(大袈裟な)。何百年、一千年単位の歴史で見るべき重みをもつ(おやおや、これぞ天下の一大事というわけだ)と。」
 白井の発言を受けて大澤は、「お言葉」は「天皇自身による天皇制批判」であると応じ、両者は意気投合している。思想的退廃、ここに極まった観がある。

売文の徒の無節操

 白井は近代日本一五〇年の歴史を描き出そうとしてアクロバットな実験に挑み、天皇制という「国体」に取りつかれてしまった。いや、根っからの天皇主義者である白井は、「国体」概念を学問的に扱えるかのように見せかけただけなのかもしれない。
 右に引用した終章の続きは、次の一節で締めくくられている。いわく、
 「『お言葉』が歴史の転換を画するものでありうるということは、その可能性をもつということ、言い換えれば、潜在的にそうであるにすぎない。その潜在性・可能性を現実態に転化することができるのは、民衆の力だけである。
 民主主義とは、そういう力の発動に与えられた名前である。」(三四〇ページ)全文を読んできてこの結語を目にした読者は、あっけにとられるか、笑い出さずにはいられないに違いない。一五〇年の日本近現代史を描いた本文には、この最後の一文を除いて「民衆」はただの一度も登場しなかったぐらいであるから、「人民」が登場しなかったのはしごく当然であろう。一九六〇年のかの安保改定阻止闘争ですら、「反対に起ち上がった群集4 4 (傍点引用者)は(安保の内容を)よく理解していなかった」「あの時群集4 4 が爆発させた憤りは」云々(一九一ページ)と書いているように、白井は闘いに起ち上がった人民を「群集」呼ばわりして、何ら恥じるところがない。引用した結語の何と白々しいことか。
 白井はなぜ、こんなお飾りのような言葉を発しなければならなかったのか。その謎は五月十九日付『東京新聞』の取材記事「『お言葉』が示す国難」を読むと明らかとなる。
 「こうした『お言葉』の評価は、研究者としての出発点がレーニンの再評価だった(白井のデビュー作『未完のレーニン』[二〇〇七年]を指す――引用者注)ことを考えると意外と思える」という記者の問いに、白井はこう応えている。
 「レーニンを褒めたら天皇は全否定しなければならないという決まりはない。歴史の進路を決める主体は民衆です。『お言葉』は世の中を変えるきっかけとなる強度を有している。」
 そう、確かにそういう「決まり」はありません。しかしこの言い種ほど白井の無節操ぶりを自己暴露しているものはない。レーニンのような、生涯をつうじて揺らぐことのなかった無神論者にして平等主義者であり、階級支配を憎み続けた人物と、国民の差別・分断支配の頂点に立つ天皇を同次元で“評価”できるのは、文字通り売文の徒だけであろう。
 こんなトンデモ本(今風にいえばフェイク本)が売れ、「論壇」なる同業者仲間で評価が高いとは、何とも恐るべき事態でもある。明治一五〇年キャンペーンに抗して、この一五〇年の大部分は敗北だったとはいえ人民の苦闘の歴史として捉え直すことが必須の課題だということを、この本を読んであらためて考えさせられたのだった。【二瓶一夫】

〈付記〉
 わたしは本書を天皇礼賛本として読んだから、戦後日本の対米従属構造についての白井の議論に、あえて立ち入ることをしなかった。一言しておくと、日本はアメリカの属国であると論じた本は、一九五〇年代末の日本共産党の綱領論争を持ち出すまでもなく、ごまんと出ている。白井本が「国体」と結びつけるという奇をてらった離れ業をやってのけ、出版資本の売らんかなの宣伝効果もあって、一時的に脚光を浴びただけのことである。それは、六〇年の時間の経過をへて出現した二番煎じ、いや何番何十番煎じの焼き直しにすぎない。
 問題は、白井も含めて、対米従属から脱却する闘いの性質と方向性について、実は何も語っていないことである。かつては反共・反社会主義=革命の防波堤として、現在は躍進する中国に対する退潮著しい米日帝国主義の必死の巻き返しとして「日米同盟」を捉えることができず、かれらは、従属関係だけに情緒的に目を向ける。かれらには階級的観点が微塵も認められない。 日本ナショナリズムから脱却できないかれらの主張の行き着く先は、日本帝国主義の「自立」というブルジョワジーの権力を温存する前提を、一歩も超えるものではないのである。

(『思想運動』1029号 2018年9月15日号