「森友事件」の幕引きを許すな!
安倍政権を追い落とす大衆運動再生の鍵は
傲慢・不遜な安倍
「森友事件」をめぐる三月二十七日の佐川宣寿氏の「証人喚問」では、真相は何も明らかにされなかった。翌日の国会で安倍首相は「職責をまっとうするのが自らの責任」「あとは国民が判断すること」と居直った。
安倍と自民党の大半は事件の幕引きをはかろうとしている。庶民がこれで政治不信・政治離れを強めるならそれはそれでもいい。野党が「解散・総選挙を!」と言うなら、それもそれでいい。政権党に圧倒的に有利ないまの選挙制度での勝負に打って出られるのか? 「悔しかったら選挙で勝ってみろ!」。安倍の発言には、言外にそんな心の声がにじみ出ていた。
マスコミも『産経新聞』などは「森友国会 国防置き去り/予算審議『特異』な2カ月」などと論点そらしに躍起になっている。南北朝鮮、朝米、朝中の平和に向けた取り組みを逆利用し、政権維持を画することも大いに考えられる。安倍政権のその手には乗らず、政権追及の運動を強めてゆくために、あらためて「森友事件」に表れた安倍政権の本質とは何であるかを問いたい。
「森友事件」の本質
「森友事件」は、安倍政権と日本会議、それに群がり追随する大阪維新などの右派勢力が主導し、財務省官僚がその手足となって人民の土地財産をくすね取ろうとした犯罪に端を発する。そして、安倍昭恵らの関与を隠ぺいするため、そして「わたしや妻が関係していたということになれば、首相も国会議員も辞める」という安倍の答弁に公文書の内容を合わせるために、財務省官僚が公文書の改ざんを組織的に行なったものだ。
安倍政権がその政治的代弁者をつとめるブルジョワ階級の際限ない利益追求は、人民の財産を窃盗する域に及ぶ。その腐れきった資本主義体制を維持するために、官僚組織体制が「自発的」に政権に滅私奉公する。この金儲け至上主義が、必然的にこの犯罪行為を産んだ。報道に接して「あいつらバカだな」と話し合う声を電車で、飲み屋で、耳にする。たしかに、と思う。ただ、そのバカどもが進める労働法制改悪や社会保障削減などの反人民政策と「森友事件」は表裏一体、わたしたちに対する攻撃なのだ。
「法治国家」の皮をかぶった体制内部の腐敗の進行に限界はなく、安倍ブルジョワ体制がいかに犯罪者集団と化しているかが、市民団体の尽力により明らかにされた。それを今、メディアがこぞって取り上げている。しかし、人民の利益と敵対する安倍政権の犯罪性は、すでにあらゆる分野で露呈してきていた。それをメディアは追及するどころか政権の支配に屈し、その太鼓持ちの役割を果たしてきたのだ。「安倍劇場」で「数字」がとれればいいという腹が透けて見える。自民の幕引きとともにフェイドアウトするであろうメディアに視界をゆがまされてはならない。
安倍独裁こそ元凶
安倍政権の五年余を振り返ればその違法行為、人民の権利・尊厳をおかし大衆運動をつぶすための反革命政策には枚挙にいとまない。つい最近も「働き方改革」をめぐる厚労省によるデータ改ざんがあり、スーダンにおける自衛隊駐屯日誌の隠ぺいも記憶に新しい。しかしそもそも、政権の違法行為を問うならば、沖縄・辺野古で強行される新基地建設工事がまっさきに挙げられるべきだ。県の岩礁破砕許可を得ない工事や、山城博治氏らの長期勾留など数々の違法行為が重ねられている。
沖縄の民意を踏みにじる工事強行そのものが、沖縄の人びとの尊厳をおかす国家ぐるみの犯罪=反人民・反革命政策に他ならない。工事に抵抗する人びとの非暴力行動を「犯罪行為」と断罪する司法こそが、三権分立を有名無実化させる独裁政治の道を押し広げていることを、わたしたちは怒りをもって追及しなければならない。そうした「犯罪」が原発、軍事、社会保障などあらゆる分野で行なわれている。
安倍独裁政権の暴力は「違法」か「合法」かが本質的な問題ではない。かれらは自らの都合次第で「法治国家」の皮をかぶり、あるいはかなぐり捨てて強権をふるう。自らの支配拡大・強化のために必要な「法律」を「多数」をふりかざしつくれるのだから。
その目的は、自分たちが政治的代弁者をつとめる金持ちと資本家の利益を拡大し、それを保証する資本主義システムを少しでも長く延命させることだ。だからわたしたちは、ブルジョワのための独裁を否定することに闘いの照準を合わせる必要があるのだ。
困難を直視しつつ
今度こそ安倍政権を倒そうと連日国会前の行動が呼びかけられ、わたしたちも足を運んでいる。学園では自治会運動がつぶされて久しく、看板やポスターもだめ、政治的な意見表明はもちろん、学費値上げ反対や奨学金問題ですら運動できない状況だ。
ある学校の教員は言う。国会行動や集会への呼びかけがあっても行ける状況にない。労組は組織率だけではなく、職場組織で分会の会議が開けていて、日常的に自分たちの労働のありかたを討議して、余裕をつくり、そうしてはじめてだれかが行ける。仕事にてんてこまいで、自分たちのやっていることも管理できない状況のなかでは無理だ……。
他の職場も推して知るべし、現場に基礎をつくりえていないゆえに、一つの職場単位から一人、旗をもってやっと国会前に参加するという現状がある。
そうした中でも安倍政権に怒り、何とかしたいという思いをもつ人びとが国会や街頭に出てくる。しかし、現時点で安倍政権の支持率は急落とはいえ三割を保ち、政党支持率では自民党支持に大きな落ち込みはなく、野党が伸長する気配もない。これほどの政権腐敗にもかかわらず、なぜ安倍政権を追い落とすことがこれほどまでに難しいのか。
「森友事件」は、本来であれば韓国のパククネゲートに匹敵する“火種”となる事件である。しかし、その火が燎原の火のように広がらない。その日本の現実をわたしたちは受け止めなければならない。
その〝燎原〟の基盤となる職場・学園・地域の運動の層が、敗戦後七〇年余をかけて掘り崩され、現在に至っている。わたしたちが今いる場所は、そうした日本社会の歴史の積み重ねの上にあるのだ。
歴史に学び突破口を切りひらこう!
日本の敗戦後、GHQ占領政策の下、軍国主義者の公職追放や超国家主義団体の解散等がなされ、労働者の団結権や婦人の平等の権利等の指令がなされた。しかし権利は、指令だけで人びとの手にもたらされはしなかった。多くの人が戦後インフレによる物資不足・食糧難の飢餓線上に放り出される一方、占領政策の網の目をかいくぐり職場・学園・地域には依然として日本帝国主義の残滓・反動勢力が居座りつづけていた。それらと闘い、人びとは声をあげた。協同して立ち向かわなければ、民主化はもとより、労働、学習、生活の権利を得ることはできなかったからだ。
一九四〇年代後半から五〇年代後半にかけては、戦争責任追及、朝鮮戦争反対、全面講和要求の闘いともあいまって、労働組合運動、学生運動が激しく闘われ、大衆運動の基盤となる層が形成されていった時代であった。その層を基盤にしたからこそ、六〇年安保闘争がさまざまな矛盾をかかえながらも全人民的な広がりをもつ闘いとして展開しえたのだ。しかしその敗北後、高度経済成長政策の下、階級的労働運動を否定する労資協調主義がひろがり、七〇年代、低成長期から新自由主義政策への転換のなか職場・労働者への攻撃が強まり、労働運動の右傾化が加速した。
そして七五年スト権ストの敗北を決定的な分水嶺として、八七年の国鉄民営化・国労解体から総評解体にいたった。
その後、なだれをうつように新自由主義・戦争国家化がおしすすめられ現在に至るのは、この数十年間の労働者階級の敗北――支配層と対峙しうる拠点をひとつひとつ破壊されてきたからこそなのだ。
政府・独占資本は、総評や学生自治会の組織力の向こうに広がる労働者・学生の層を見ていたのである。労働者・学生が議論し協働することこそがかれらには脅威だった。だからこそ、長い年月をかけてこれをつぶしてきたのだ。
職場でも学園でも集団・組織をつくって運動することは大きな困難を伴う。ゆえに「組織の弊害」を理由にこれを否定する主張に出会うことも多い。しかし、組織的運動を否定し去るのなら、敗戦後の労働運動や学生運動がさまざまな組織をつくり、ときにその「弊害」とも向き合いながらかちとった民主主義や権利をも否定するのだろうか。それはわたしたちがよって立つ基盤を否定する矛盾に陥ることになる。わたしたちは、運動の困難や失敗にこそ学びながら、労働運動・学生運動の再建・再生のための協働を呼びかける者だ。先述の職場や学園の困難な状況から見出されるのは、各現場をたてなおすことが大衆運動の基盤の拡大に直結するという事実だ。やむにやまれぬ現場の要求や困難と向き合い、自分たちの拠点を再建する過程一つ一つが、安倍政権に迫る大衆運動を再生させる力となる。【米丸かさね】
(『思想運動』1019号 2018年4月1日号)
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