映画時評『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者』(二〇一六年、パブロ‐ラライン監督、チリ・アルゼンチン・フランス・スペイン合作)
人民とともに生きた詩人像に迫る力作 井野茂雄(文化活動家)
一九四六年のチリ、共産党・社会党・急進党の連合で大統領になったビデラ(急進党)が親米に変節して共産党を排除したことを、共産党員で上院議員だった詩人パブロ‐ネルーダ(一九〇四~七三)が新聞や国会演説で批判した。だが、逆に上院議員としての権利をはく奪され、一九四八年二月に逮捕命令が出された。ネルーダは逮捕を免れるため姿を隠し、一年後チリを抜け出し、ヨーロッパへ亡命した。映画『ネルーダ 大いなる愛の逃亡者(原題・ネルーダ)』(二〇一六年、チリ・アルゼンチン・フランス・スペイン合作、パブロ‐ラライン監督、一〇八分)は、ネルーダの逃亡生活を描く。
ネルーダは処女詩集『二〇の愛の詩と一つの絶望の歌』(一九二四年)でラテン・アメリカ全体の名声を得た詩人である。「詩は社会的役割を負っている。文学や芸術は孤独や不安、絶望につきまとわれている実存主義的なものではなく、もっと人間の本質にかかわっているものだ」と語るネルーダの詩は、人民の生活や政治闘争のなかでこそ生きてきたのであり、それを映画は、享楽的なパーティの場や娼婦たちのなかで、そして酒場で、隠れ家で、街頭で、朗読され、歌われ、さらには街頭の壁に張り出された詩で、詩のありようとその力をみごとに切り取って示している。
一九八八年におこなわれたピノチェトの大統領三選をめぐる信任投票をえがいた映画『NО(ノー)』(二〇一二年)の監督だったラライン監督は、単純な逃亡劇にはしなかった。ネルーダを追跡し追い詰めていく理知的な警官ペルショノーという人物を権力者側の走狗として対置、しかもこの映画のナレーターの役割も負わせているので、観るものは、ネルーダの逃亡生活を観ながら、ネルーダをペルショノーといっしょに追い詰めていくのだ。
ペルショノーはネルーダを全面的に否定するために、より理解しようと詩を幾度も反芻し、行動の予測すらしようとする。ネルーダは、追われる身でありながら、追跡してくる「敵」を身近に感じていないと、自分が消失してしまうくらいの思いを抱き、逃亡先に自分の詩集を残し、追いかけてくるペルショノーに手がかりを与え続ける。そして亡命先のいたるところで詩を書き、人民に届ける。ネルーダの詩は、闘う詩なのだ。ラテンアメリカ全体の歴史・文化・地誌を示し、その大地に生きる人びとが現代史でになうべき課題を高らかに謳っている。逃亡中に書かれた幾多の詩は、一九五〇年に『大いなる歌』としてまとめられ、ネルーダの詩業のなかでももっとも重要なものになったのである。
たとえば長詩『大いなる歌』に、次の一節がある。「船乗りの母親がわたしを待っていた/「せがれにいわれてネルーダという名前を聞き、わたしはぶるっと身ぶるいしたす/『わしらにどんなもてなしができるべ?』/『あの人はおれたち貧乏人の味方だよ』とせがれが答えたです/『あの人はおれたちの貧乏暮らしを見下げたり、さげすんだりなんかしないさ。あのひとはおれたちの暮らしをよくするために闘っているんだ』/わしはせがれにいったです。『それじゃ、この家はもうその方の家も同然じゃ』と」(松田忠徳訳、『パブロ・ネルーダの生涯』より)。ネルーダの逃亡生活は共産党の組織と、このような無数の人民からの信頼で成立していたのである。
いよいよアンデス山脈を越えようとするとき、逃走ルート一帯を支配する地主に出会ってしまう。しかし大統領の友人である地主のとった行動は、ネルーダがアルゼンチンへ逃げるのを手助けすることであり、ペルショノーを殺すことだった。この地主のことはフィクションのペルショノーのことをのぞき、『自伝』や『伝記』にも記載されている。
ペルショノーという警官を登場させたことによるサスペンスは、観るものの思考を最後まで刺激する。政治と芸術、知識人と人民、快楽と禁欲…。それを結ぶ「と」は、対立や排除の「と」ではなく、共存あるいは包摂する「と」にしているネルーダが浮かび上がる。それがネルーダのありようであり、その像はみごとに画面から伝わってくる。ところで、ネルーダを逃亡生活に追いやった二つの世界体制の対立やアメリカ合衆国の暴力的な外交圧力については、後景に退いたまま語られることはなかったのだが、それは自明の理だと、監督は思っているからなのだろうか。
(『思想運動』1012号 2017年12月1日号)
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