〈編集ノート〉「朝鮮核問題」を見る視点
見ることと見えること
九月三日、朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)の朝鮮中央通信社は、地下核実験を行なったと発表した。昨年九月九日、朝鮮の建国記念の日の地下核実験につぐ六回目の実験である。
核兵器など使わない・存在しないほうがいいに決まっている。けれども、朝鮮に核を持たざるを得なくさせたのは、米国の核兵器を背景とした朝鮮敵視・圧殺政策である。日本政府は、米国の「核の傘」の下で一貫してその戦争挑発政策を支持して、積極的に協力してきた。日本の労働者・市民はその政策を止めさせられないでいる。わたしたちは、まずこの現実の立脚点から出発しなければならない。
「国際社会」の不公正のたまもの
朝鮮は建国以来六〇年余核をもたず、一九五六年四月にはじめて米国に平和協定締結を提案して以降その姿勢を貫いてきた。平和協定とは、戦争状態を法的に完全に終結して、恒久的な平和関係を樹立するために締結する国際条約だ。が、米国はそれを黙殺し、米韓日の三角軍事同盟強化による朝鮮の社会主義体制転覆攻撃をしかけつづけた。米韓日人民の闘いがそれを押し止めるには至らないなかで、朝鮮は「核をもって核を制する」方策を選択するにいたった。
米国は、平和協定交渉開始の前に朝鮮が非核化するのが先だと繰り返すが、「それなら米国はなぜ、われわれの共和国が核兵器を保有する前に提起した平和協定締結提案を無視したか」(朝鮮法律家委員会)。米国の屁理屈を正面から批判する朝鮮の声を、マスメディアは一切伝えない。
また、九月十一日、国連安保理は核実験を理由に朝鮮に対する「制裁決議」を行なった。何度もくり返し演出される「国際社会vs朝鮮」という構図だが、朝鮮と同じくNPT(核兵器の不拡散に関する条約)不参加国であるインド、パキスタン、イスラエルの核実験が「国際社会」から非難されることはない。また、NPT体制は核保有国の軍縮義務、核保有国が非保有国に対し武力による威嚇を行なわないことを定めている。五大国が履行したためしはないが、それは「国際社会」に敵対する行為ではないのか。
さも「正義と公正の具現者」のように登場する「国際社会」という言葉は、定義も曖昧、米国とその支配体制の恩恵にあずかる側に都合よくつかわれている。世界に一九六ある主権国家のなかで、常任理事国五か国と非常任理事国一〇か国、あわせて一五か国の「国際社会」の一方で、たとえば、一二〇の正式加盟国を数える非同盟諸国首脳会議という「国際社会」がある。朝鮮はそのメンバーであるが、それについてマスメディアは一切伝えない。
そもそも国連憲章と既存の国連総会の決議など国際法典のどこにも、核実験自体が「国際平和と安全に対する脅威」となると規定した条項はない。国連安保理の対朝鮮「制裁決議」の法的根拠を明らかにせよという国連駐在朝鮮代表部の要請に、国連事務局は何も答えることができていない。対朝鮮「制裁決議」とは、社会主義朝鮮を圧殺するという資本主義世界体制の目的意識に貫かれた非法・不法の文書なのだ。
「自分とは違う存在」
一九五三年七月の朝鮮戦争停戦から間もない同年十月、早くも米国は韓国と相互防衛条約をむすび、米軍の韓国における恒久的駐留を始め、五七年韓国に核兵器を配備――初めて朝鮮半島に核を持ち込んだ。以後も各種兵器・武器や在韓米軍の増強を強行した。これらは外国軍隊の撤退規程(六〇条)をはじめとする停戦協定への明確な違反・敵意むき出しの戦争挑発行為である。そうしたなかでくり返される米韓合同軍事演習とは、「ただの練習」などではなく、停戦協定中という戦争のただなかで、米国が望むときにいつでも戦闘を再開させるぞという最大限の恫喝に他ならない。朝鮮戦争の甚大な被害の記憶を刻むなかで、現に米国により侵略されている世界中の国々の姿が自らの今日、明日の姿かもしれない。そのはかり知れない脅威の下に朝鮮はありつづけてきたのだ。
圧倒的多数の日本の労働者・市民の多くは、朝鮮の受けているこの脅威をリアルに想像し理解しようとはしていない。それどころか、この事実を一八〇度ひっくり返し「北朝鮮が戦争挑発者」だとするマスメディアの虚偽・捏造報道に日々侵されるがままでいる。日米安保体制の足下で、自分たちは米国に攻撃される側に立つことがなく、平気でいられる。
メディアは朝鮮を、話の通じない「自分たちとは違う存在」として描きだす。「やつらの言うことなど聞く必要がない」という心象が人民に植えつけられるなかで、朝鮮について知ろうとすることや想像することが放棄され、朝鮮が何を叫ぼうが、何をされようが関係ないという意識が支配的になる。「他の国はいいけど北朝鮮だからだめなのだ」というむちゃくちゃな二重基準が許容されるのもこの意識あってのことだ。「制裁」を黙認する意識と、朝鮮の「暴徒」を「膺懲」してやるのだという、朝鮮侵略植民地支配の基盤となった意識にどれほどの違いがある。こうした植民地主義イデオロギーの根をいっそう強く張り巡らせるための大衆意識操作こそが、政府・マスメディアの狙いにほかならない。
その虚偽を見抜き、植民地主義を克服する視点を、わたしたちはどのように獲得するか。わたしたちは、世界で起こる出来事についての最初の情報をマスメディアから受け取る。資本主義社会にいるかぎりそれを避けることは難しい。しかし忘れてならないのは、マスメディアは支配体制側により世界中に張り巡らされた巨大なイデオロギー機関であることだ。「情報」自体がきわめてイデオロギッシュに取捨選択・管理されている。報道を通じて大衆のイデオロギー操作を行なうためだ。それは今に始まったことではなく、ソ連があった時代は反ソ‐反社会主義キャンペーンがそうした役割を果たした。
いま、くり返し流される指導者の実写画像やミサイル発射の映像により、見る側は「ありのままの事実を見た」と思わされる。が、実際は圧倒的な軍事力の非対称性や、米国が朝鮮に与えている脅威など、肝心な事実についての情報は抜き取られている。「見せる」こと自体が隠ぺいの役割を果たしているのだ。また、朝鮮についての情報源に、韓国国情院など韓国政府関係者、元KCIA、「脱北者」が当たり前のように名を連ねている。明らかに、朝鮮の体制に反対する政治的立場からの、あらかじめバイアスのかかった情報が実証的根拠を示されることなく「情報」としてまかり通っている。わたしたちは、そうした事実を踏まえることで政府がこの報道を使って何を狙うのかをみる階級的視点を鍛えていこう。
朝鮮という「敵」をつくりだすことによる政権浮揚、失業と生活破壊の原因が国内外の資本の支配自体にあることを見えなくさせ、「国民総動員体制」をつくりだし、明文改憲へ向かう――政府がつくりだす流れに抗する視座を共につくってゆこう。 【米丸かさね】
(『思想運動』1008号 2017年9月15日号)
|