発言台 「壊憲」反対闘争の現在と可能性を考える
労働者階級としての自覚と自信を取り戻そう


完璧に見えるものへの拝跪

 一見して、正しくて当たり前、完璧に見えるものには、たとえそれが自分自身の考え方や生活と密接にかかわるものであっても、それを改めてもう一度、自分自身で主体的に考えたり意見を言ったりすることが憚られることが多い。
 たとえば物理や数学の授業のなかで、教師がある公式を書いて「代入すれば答えが出る」と言うと、はたと立ち止まり「なぜ?」と一瞬考えたくもなるが、次の瞬間には黙って答えを出す練習だけをはじめる。なにか病気をして診察を受けたときに、どうも自分の実感とは違う見立てだが「お医者様」が専門用語で説明すると「そうかな」という気がする。職場で管理職や先輩からこれまでの様式を示されて「こう決まっているから」と言われたとき、「なぜ?」と問い返すのはなかなか勇気がいる。
 わたしはここで、あらゆる「権威」を拒否すべきだなどと言いたいのではない。しかしわれわれの周りには、あまりにこの「完璧っぽいもの」へ拝跪する風潮が強いのではないか。このような風潮は民衆総体が労働者階級人民としての自信を失なわされているということである。
 よく「マスコミが悪い」とか「学校教育が悪い」とか耳にするが、それは現象としては正しいにしても、次の瞬間に、その悪さは誰の責任で、どうすれば克服できるのかと考えなければならない。弁証法的にはマスメディアも教育も、さらに政治もその国の人民の思想(的頽廃)状況に見合ったものである。 ならば受け手側の思想的課題としても、「権威」に対する拝跪を克服する方向が追求されなければならない。そうでなければ、たとえメディアや学校が真実を伝えたとしても、その真実は真実として機能しない。つまり、労働者階級が階級としての自覚と自信を取り戻すことが必要なのだ。ここに地域、職場、学園といった生活点での闘争が必要とされる理由がある。
 現在、日本の労働者階級人民が闘いのもっとも中軸に据えるべき壊憲反対運動においても、「民主主義」や「立憲主義」や「自由」や「平等」や「人権」などの厳めしい用語が並ぶと、憲法がなにやら「完璧なもの」のように思えて、それに直接触れてはいけないものであり、ましてや自分の生活や労働に根差してそれを批判的に解釈することは許されず、ただ「専門家」だけが憲法解釈を許される。そのような感覚に支配されていないだろうか。
 いま、多くの「護憲運動」に見られるこうしたあり様は、運動参加者の批評的介入を排除し、精神的従属性を助長している例が多い。集会やチラシの中心は学者、弁護士、議員、芸能人ばかり、または大衆闘争なき「司法判断に委ねる」発想ばかりで、生活や労働の現実からの声は二の次となっている。こうなると国会や裁判所での「駆け引き」や「論戦」ばかりが強調され、運動の主体は議員や弁護士であり、圧倒的多数の労働者階級人民は、外野からの応援隊とされてしまう。

「現在」を無視する「専門家」の発言

 そしてこのように労働者階級人民の自信が失われている状況の下での「専門家」の言い方はどのようなものだろうか。
 いま手元にある資料を二、三読んでみる。それはたとえば、森友や加計学園に関しては「日本は悪代官が私欲をむさぼる封建時代か」(山口二郎 『東京新聞』五月二十一日付)「かつて竹内好は民主か独裁かという戦いだと喝破した。…いまわたしは文明か野蛮かの戦いだと訴えたい」(山口二郎 『東京新聞』六月十一日付)であり、九条加憲問題については、自分は自衛隊の合憲性に同意するとしたうえで「理由もなければ必要もない大変お粗末な改憲提案」(長谷部恭男 市民連合・総がかり行動実行委員会共催の緊急シンポジウム七月十二日)だということになる。
 しかし、いまは「封建時代」などではなく、まぎれもない資本主義の時代でありいっそうその支配体制が強化され露骨となっている時代なのである。この資本主義を支えるために、アメリカを盟主とする帝国主義諸国は自らの意に染まない非資本主義国と、とりわけ社会主義国を敵視し、「文明と野蛮との対決」をかかげて、謀略と軍事的侵略を巧妙に織り交ぜながら一世紀近くにわたって体制転覆攻撃を繰り返してきたのである。
 そして日本の支配階級と安倍政権も軍事侵略のできる帝国主義国家になろうと必死なのだ。そのためにかれらは、邪魔となる現憲法をなんとか壊してしまおうとしているのだ。ここに日本の資本家階級にとっての「壊憲」の「必要性」と「理由」が存在する。一言で言えば山口、長谷部氏の発言には、帝国主義国家としてある日本の「現在」が無視されているのである。

あたりまえのことの中に可能性が

 「安倍無能論」にしろ、「自衛隊合憲論」にしろ、たぶんそれは大衆意識に迎合する形で唱えられるのだが、結果的にそれは、人民を支配階級の嗜好に迎合させている。
 また「九条の会」においては「九条を守る一点で…」とそのほかの憲法論議や論争が封じられ、戦争法反対運動の過程では複数の憲法学者が「わたしも個人的には自衛隊は違憲だと考えるが、いまはそれを言うと票が集まらないから…」と繰り返した。いずれにせよそれは、人民をして論争から遠ざけ、人民が自らの思想を形成する、すなわち運動を作ることが闘いの核にあるべきだという視点がないのである。
 こういったことの繰り返しが大衆迎合政治をいっそう強化してきたのが今日の状況ではないのか。
 またたとえば、先の都議選の結果も、本紙前号の一面主張で展開された通り、「安倍自民大敗」などが本質ではなく、まぎれもない改憲勢力で右翼政党の「都民ファースト」が「反安倍」票の受け皿となった。つまり資本家階級の支配構造は強化されたのが現実なのである。
 このような大衆迎合的選挙依存症が、青島幸男や横山ノックなどの「タレント議員」あたりからこの四、五〇年、「政治」としてくり返されてきた。自民が大敗し「革新」が一時は多少増えても、反自民を掲げる別の第二、第三の保守政党が作られ、結局はそれが受け皿となり、支配構造の強化がなされる。こうした事態がいったい何回繰り返されたことか。それが繰り返されれば繰り返されるだけ人民の「政治」への幻滅と不信が増幅され、いっそうの大衆迎合的傾向が進行する。
 「諦めずにつづけよう」とは運動のなかでよく聞かれる言葉だが、むしろ諦めることを学習しなければならないのではないか。議会政治のみを焦点化して実践を積み重ねさえすれば、何やら前進があるかの如き信仰を諦めるべきである。
 労働者階級人民の本当の運動とは、人民を思考しない一票に解体し、それを寄せ集めることではなくて、人民の中に思想的変革と階級としての自覚を呼びおこすものでなければならない。そしてその思想的変革の可能性は、実践と、その必要に基づいた学習と討議以外にはない。
 以上に書いたことは、当たり前のありふれた謂いばかりである。「未来を変えるためには現在を正しく知らなければいけない」とか。「多数が正しいとは限らない」とか。「間違いは改めよう」とか。こういった当たり前のことの中にこそ、労働者階級としての自覚と自信を回復する可能性があるといえるのではないか。【藤原 晃・学校労働者】

(『思想運動』1006号 2017年8月1日-15日号)